親愛なる元婚約者 [ 1 ]
親愛なる元婚約者

1.最初で最後の手紙
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アーネスト・グレアムさま

 先日は我が家まで足を運んでいただいて、ありがとうございました。
 きっと驚かれたことと思います。以前とはまるで違う、狭苦しいところですから。前の家も決して広々とした邸宅とは言えませんでしたけれど、あなたにゆっくりお座りいただく場所くらいはありました。
 今度の家は狭くて、汚らしくて、お茶らしいお茶もご用意できないところです。あなたはそんなことをまるで気になさっていないご様子で、わたしの出した粗茶を飲んでお礼まで言ってくださいました。わたしも、弟も、どんなに嬉しく思ったか。
 けれども、お願いです。この家にいらっしゃるのは、これを最初で最後にしていただきたいのです。あなたとお会いするのを嫌がっているわけではありません。わたしたちの落ちぶれた暮らしを見て、あなたが嗤ったり、蔑んだりなさるのではないかと思っているのでもありません。そんなことは決してなさらない方だとわかっているからこそ、あなたをこの家にお迎えするのが辛くてたまらないのです。
 このあいだ、あなたがここでお話しになったことは、わたしにはとうてい受け入れがたいことですから。

 あなたとはじめてお会いした時のことは、よく覚えています。
 あれは一年ほど前のことですから、わたしは十七歳、あなたが二十一歳の時でした。メイナード家の晩餐会で、わたしは父に、あなたは一緒にいらしていた叔母さまに、お互いを紹介されたこと、あなたもご記憶していらっしゃると思います。
 けれども、その前のことはご存じでないでしょう。わたしはあなたのお名前を教えていただくより先に、あなたのことを存じ上げておりました。
 晩餐会が始まる前、わたしは招待されたみなさまの前で、ピアノを弾くことになりました。他にも何人かの方がお弾きになった後で、アリシア――メイナード家のお嬢さまが、わたしに声をかけてくださったのです。
 わたしはとても嬉しく思いました。メイナード家のピアノは有名な会社の製作で、調律も行き届いており、客間での音響もすばらしいのです。当時は我が家にもわたしのためのピアノがありましたが、優れた名器を弾かせてもらえるという喜びは何にも優りました。
 あなたにお話ししたことはありませんでしたね。わたしはピアノが大好きなのです。父がわたしを社交界に出したがっていましたから、子どものころからダンスや刺繍、乗馬なども習わされていましたが、その中でもピアノの稽古がいちばん楽しみでした。
 わたしは暗譜で弾けるお気に入りの曲を選び、ピアノの前に座って指を動かし始めました。
 あなたもご存じですよね。晩餐会が始まる前というのは、お知りあいの方と声をかけあったり、新しいお知りあいをつくったりするのに忙しく、どなたもピアノなんてお聴きになっていないことくらい。わたしもそのことは承知していましたが、弾いているあいだは紛れもなく幸せでした。
 曲が終わって余韻に浸っていると、どこかから思いもよらない音が聞こえてきて、わたしは顔を上げました。たくさんのお客さまが居並ぶ中で、ひとりの若い紳士が拍手をしてくださっていたのです。わたしの演奏を聴いている方なんていらっしゃらないと思っていたのに。
 それがあなたでした、アーネストさま。きっと、あなたは覚えていらっしゃらないと思いますが。
 晩餐会の時間が来て父に呼ばれた時は、とても驚きました。わたしに会わせたい方がいるとは聞いていましたが、それが先ほどわたしのピアノに拍手をしてくださった方だったなんて。
「アーネスト・グレアムです、はじめまして」
 叔母さまに促されて名乗ったあなたは、上流階級の紳士らしく物慣れたご様子で、とても素敵でした。背が高くて、よく手入れされた黒髪がきれいで、晩餐用のスーツがよく似合っていらして。
 こんなことを手紙に書くなんて、未練がましい、あるいは慎みが足りないと思われても仕方がありません。お許しください。わたしは少し、思い出に浸りたいのかもしれません。
「フィリス・ウォードと申します」
 わたしは礼儀作法の教師に教わっていたとおりにご挨拶を返しました。今だから言えることですが、本当は胸がどきどき鳴っていて、あなたにそれが聞こえるのではないかと、心配でたまりませんでした。
 あなたが貴族のご令息であることはわかっていました。銀行の経営を通して社交界に受け入れていただいた父にとって、娘を貴族のお家に嫁がせることは、まだ叶えられていない最後の望みでしたから。
 とはいえ、まさかグレアム家のような歴史のある公爵家の、それもご嫡男であるあなたに嫁がせようとしているなんて、それまでは思ってもみませんでした。
 叔母さまに勧められるまま、あなたはわたしをエスコートし、晩餐会の間ずっとパートナーを務めてくださいました。高貴なお嬢さまがたがたくさんいらしている中、成り上がりの銀行家の娘など相手にせねばならず、きっとご迷惑だったことと思います。あなたはそんなことをまるでお顔にも出さず、辛抱強くわたしの隣にいてくださいました。あの時もお礼を申し上げましたけれど、あらためて感謝いたします。本当にありがとうございました。
 その後もいくつかの場所でお会いするたび、あなたはわたしにお声をかけ、一緒にいてくださいました。どれほど態度に出ていたかはわかりませんが、わたしはとても幸せでした。はじめてお会いした時、わたしのピアノに拍手してくださった方の隣にいられることが。
 ただ、嬉しく思う一方で、後ろめたさも感じていました。
 社交行事で、訪問先で、散歩の途中で、あなたとわたしが居合わせたのは、偶然ではなくわたしの父が差し向けたことでした。
 あなたがわたしに微笑みかけ、親切にしてくださるたびに、わたしの胸はあたたかくなるのと同時に痛みも覚えました。わたしが父と一緒になってあなたを騙し、打算のためにおつきあいをしているのだとわかれば、あなたはわたしを軽蔑なさるのではないか。そんな不安がいつもわたしにつきまとっていました。

 婚約披露のパーティには、たくさんの方がいらしてくださいましたね。公爵家にはこんなにご親戚やお友達がいらっしゃるのかと、わたしはすっかり気圧されていました。
 それよりも驚いてしまったのは、お城のことでした。
 貴族のご領地にあるお屋敷がどんなに広くて大きいか、どんなに美しいか、わたしはお話に聞いて知っているつもりでした。実際にそれを目にしてみると、わたしの想像が本物にはまるで及ばないことがわかりました。
 石造りの壁はどこまでも続き、並び立つ塔は高く、周囲にはご領地の豊かな緑が広がっていました。中世の物語に出てくるお城のようで、今にもどこかから騎士や姫君が現れそうでした。
 わたしがそう口に出すと、あなたはにこりと微笑みました。
「明日になったら、ぼくが城内をご案内します」
「よろしいのですか?」
「もちろん。一度歩いてしまえば迷うこともありませんよ。美術品などそれなりに面白いものもありますし」
 わたしは胸があたたかくなりました。緊張していた心が一度に解きほぐされていくようでした。
 あなたが公爵に呼ばれてお客さまとお話しているあいだ、わたしは髪を直すために会場をいったん後にしました。お城でわたし付きになってくれたメイドの案内で、お借りしていた更衣室までは迷わず辿り着けました。髪を結い直してもらい、パーティ会場である広間まで戻ってきた時でした。ウォードという名前が聞こえてきて、わたしは思わず立ち止まりました。
 パーティの人いきれに疲れて、外の空気を吸いにいらしたのでしょうか。壮年の紳士がふたり、廊下の端でお話なさっていました。こちらに背を向けていらっしゃったので、わたしが通りかかったことはお気づきでないようでした。
 ここでわたしが聞いたことを書くことは、あなたや公爵家にたいへんな失礼になると思います。それでも書いてしまうことをお許しください。
「絵に描いたような当世風の結婚だ。名はあって実のない貴族と、実はあって名のない富豪」
「銀行家のウォード氏にとっては夢のような話だろう。自分の孫が次の次の公爵になるのだから」
「公爵家だって同じだ。これだけの城を維持していくのに、ウォード家の財産はさぞかし助けになるだろうよ」
 わたしはなんて愚かだったのでしょう。打算があるのは自分の側だけだと思いこみ、ひとりよがりの罪悪感を覚えていたなんて。
 この縁談を先にしかけたのが父であっても、あなたやあなたのご両親はわたしを認めてくださっているのだと、だからいつも優しく気遣ってくださるのだと自惚れていました。ふたりの紳士が話していたように、貴族のお家が裕福な商家に花嫁を求めることは、聞き飽きるほどよくあるお話でしたのに。そんなことにも思いいたらなかったわたしは本当に世間知らずでした。
 あなたやあなたのお家を責めているわけではありません。欠けているものを子どもの結婚で補おうとしたのは、わたしの父も同じでしたから。何も気づかず、ひとりで幸せに酔っていたわたしが悪いのです。
 勝手に期待をして、勝手に失望したわたしは、その後もしばらく気が塞いだままでした。あなたがお城を案内してくださった時もまだそれを引きずっていたようです。お城のことをいろいろ話してくださるあなたに、何も気の利いた受け答えができませんでした。
 時間を戻せるものなら、もう一度あの時に戻って、あなたと一緒にお城を歩きたいと思っています。

 父の銀行が破綻したことを、成り上がりが高望みをした報いだと言われていることは知っています。ある意味ではそれは正しいのかもしれません。社交界に顔を出せるようになって以来、父は銀行を赤の他人に任せ、経営よりも社交のほうにのめり込んでいましたから。だからこそ娘のわたしを公爵家のご嫡男と婚約させることができたのでしょうが、その時すでに銀行が傾きかけていたことがわかっていたら、あなたのご両親は決してご承諾なさらなかったと思います。わたしにも父にもそのつもりがなかったとはいえ、あなたを陥れるような形になってしまったこと、心からお詫びいたします。
 銀行が倒産し、経営を任せていた方がいくらかのお金とともに行方不明になると、父には従業員やお客さまがたへの補償の義務だけが残りました。銀行の建物や市街にあった我が家、保養地などにいくつか持っていた別荘を売って――ごめんなさい、わたしのような小娘が手紙に書くべきことではありませんね。とにかく、今のわたしたちにお金の心配はありません。わたしと弟が不自由せず暮らしていくことくらいはできますから、どうかご心配なさらないでください。
 父が寝ついてしまったのは、さまざまな心配ごとがやっと片づいて、これから新しい暮らしを始めようという矢先でした。心労が重なって、体だけではなく心のほうも参ってしまったようです。銀行がまだうまくいっているような話ばかりして、わたしを公爵家に嫁がせられると最期まで信じていました。
 葬儀が済んだ後、父にかわって弟のアレンがそちらにお邪魔した時、あなたも会ってくださったとアレンから聞いています。あなたに紹介した時は十五歳の子どもだったアレンも、この一年で背も伸びてすっかり頼もしくなりました。ここの暮らしでも何かとわたしを気遣い、助けてくれています。学校はやめることになりましたけれど、成長したら立派な大人になって一人前に働けると信じています。
 アレンがお話を終えて帰ってきた時、わたしはほっとしました。婚約を正式に解消したのにほっとしただなんて、あなたに失礼な言い方かもしれません。でも、これであなたにもあなたのお家にもご迷惑をおかけすることはないと思うと、ほっとしたという他にどんな気持ちも湧いてきませんでした。
 それなのに――ごめんなさい、急にペンが進まなくなりました。
 あの時はただ呆気にとられてしまって、きちんとお話も聞かずにあなたをお帰ししてしまいましたが、あなたがこの家でおっしゃったことは、あなたの本心からのお申し出なのでしょうか。それとも悪いご冗談か、わたしの思い違いでしょうか。
 いいえ、どちらにしてもわたしの答えは決まっています。あなたの二度目の求婚をお受けすることはできません、アーネストさま。
 上にもお書きしたとおり、わたしたちはここで不自由なく暮らしていくことができています。もしもご心配からあんなことを言ってくださったのでしたら、そのお気持ちだけ嬉しくいただいておきます。
 社交界のみなさまが、公爵家は財産がなくなったとたんウォード家の娘を捨てた、などと話していらっしゃることは知っています。けれどもそれはごく一部の方たちでしょうし、時とともに聞こえなくなる噂に過ぎないと思います。婚約解消を申し出たのはこちらです。あなたやあなたのご両親にはなんの非もないことを、良識のある方々はご存じだと思います。
 ですから、この家を訪れてくださったことは、どうぞお忘れになってください。わたしもそうします。そしてお互いに新しい道を歩んでいくことができればと願っています。
 これはわたしがあなたに差し上げる、最初で最後の手紙です。ずいぶん長くなってしまいましたが、すべてを書くことでわたしも自分の気持ちに区切りをつけ、あなたに改めてお別れを言う決意ができたと思います。
 こんなわたしに最後まで優しくしてくださって、どうお礼を申し上げたらいいのかもわかりません。
 これからもあなたがお元気で、幸せで、奥さまにふさわしい女性と出会われて立派に公爵家を継がれること、心よりお祈りしております。

フィリス・ウォード


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