水晶の空 [ 5−5 ]
水晶の空

第五章 再会 5
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「またわたしを置いて行くの?」
 少女はシルファをまっすぐ見つめ、言った。
 シルファは彼女と向き合って立ち尽くしたまま、途方に暮れた。他の光景は何も目に入らなくなっていた。この建物の飾り気のない壁も、先ほどまで自分が座っていた木箱も、隅にいるはずのラウドも。自分とかつての自分だけが、何もない空間に二人きりでいるかのようだった。
 少女の目は澄んでいて、シルファを責めるような色は少しもなかった。そのことがかえって、シルファの中にあったかすかな後ろめたさを呼び覚ました。
「――ええ」
 シルファは自分を奮い立たせ、ようやく口を開いた。
「ごめんなさい。そうしなければならないわ」
「どうして」
「私はセフィードに嫁いだ人間だから。もうあなたとは一緒にいられない」
「エレセータのこと、忘れたの」
 シルファは首を振った。
「忘れていないわ」
「でも、あなたはセフィードの人間になってしまった」
「そんなことはないわ」
「じゃあ、エレセータの人間なの」
 シルファは押し黙った。
 先ほどラウドに同じようなことを訊かれた時も、答えられなかった。逃げようと思えばすぐにでもここから逃げられたのに、それができなかったのはそのせいだ。
 わからない。自分がどちらの人間なのか。
 確かに言えることは、一つだけだ。
「私は帰らなくてはならないの。セレク王子の元に」
 この時だけは、シルファも負けずにまっすぐな目で少女を見返した。
 セレクの名前を口に出すと、曖昧だった意識がはっきりしてくるような気がした。
 帰らなければならない。きっとセレクはシルファを心配して、待っている。シルファが帰らなければ、結界のために魔力を使える者もセレクしかいない。シルファが目を光らせていなければ、セレクはまた無理をして倒れてしまうかもしれない。
 帰りたい。今すぐに。
 セフィードの王宮に戻って、セレクに会いたい。
「やっぱりあなたは、セフィードの人間なんだわ」
 少女が再びそう言った時も、シルファは怯まなかった。
「ええ、そうかもしれない。私はセフィードに嫁いで、セレク王子の妻になったのだから」
「だったら――」
 一瞬、急に視界が真っ白になったかと思うと、再び少女の姿が現れた。先ほどとは何も変わっていないように見えたが、シルファはなぜか違和感を覚えた。
「だったら、わたしを、ここで殺せばいい」
 少女がそう口にした時、シルファは違和感の正体に気がついた。
 変わったのは少女の姿ではなく、シルファだった。シルファの手の中に、いつの間にか一振りの短刀が握られていたのだ。ぎょっとして取り落としそうになったが、短刀はなぜかシルファの手から離れなかった。
「セフィードの人間になるのなら、エレセータのわたしはもういらないはず。だったら、わたしを殺して、セフィードにしっかり根を張ればいい」
 抜き身の刃の向こうで、少女は厳かに言った。
 シルファは手にした短刀と少女を交互に見比べた。
 ここで彼女を、かつての自分を殺す。置き去りにするのではなく、完全に亡き者とする。
 考えたこともないことだった。けれど、いったん言葉にして聞いてみると、今まで考えなかったことが不思議に思えた。
 自分はセフィードに嫁ぎ、セフィードの王子の妃になったのだ。セフィードの王宮で暮らし、セフィードの衣装を纏い、セフィードの結界のために魔力を使う。エレセータのことは思い出すことはあっても追いすがってはいけない。
 ならばいっそ、エレセータの自分は捨てなければならないのかもしれない。エレセータの地に置いていくだけではなく、殺さなければならなかったのかもしれない。
「どうしたの。早く」
 少女が苛立ったようにシルファを急かした。
「わたしを殺して。そうすれば、あなたは完全にセフィードの人間になれる」
 シルファは一歩、少女のほうに近づいた。いつの間にか手に貼りついていた短刀を、今度は自分の意志でしっかりと握りしめた。
 幼い姿をした過去の自分は、こうなることを知っていたかのように、黙ってその時を待っている。
 エレセータで育った少女。シルファというその名で呼んでくれたのは、両親と姉、幼馴染のラウドだけ――
『シルファ』
 ふいに、頭の中に誰かの声が聞こえた。
 あれは誰の声だっただろう。エレセータにいたころ、他に自分をこの名で呼んでくれた人がいただろうか。
 いや、エレセータではない。セフィードだ。シルファがこの名を捨て、シルファーミアとして輿入れした翌日、セレクがシルファをこう呼んでくれた。
『シルファ。私もこれからそう呼ぼう』
 優しい声。優しい腕。優しい瞳。
 シルファが帰るのはあの場所だ。
 セレクの側に戻るために、目の前にいる少女を殺さなければならないとしたら――
 シルファは表情を引きしめ、次の瞬間、手にしていた短刀を投げ捨てた。手のひらに貼りついて離れないと思っていたそれは、いとも簡単に足元に転がり落ちた。
 少女がそれを見て、はじめて表情を動かした。
「何を――」
 少女が何かを言い終える前に、シルファは彼女の前まで歩み寄り、彼女の手をとった。
「一緒に行きましょう」
 シルファが身を屈めてそう言うと、少女の目が大きく見開かれた。
「あなたを置き去りにしたりしない。もちろん殺しもしない。今度は一緒に行きましょう、セレク王子のところへ」
 この少女を置いていく必要など、はじめからなかったのだ。過去の自分を連れたままでも、セレクはシルファを受け入れてくれた。シルファという名で呼び、エレセータを恋しがるシルファを慰めてくれた。
「はじめから、こうするべきだった。ごめんなさい」
 シルファは少女の体を抱きしめた。
「一緒に行きましょう」
 少女はシルファの腕の中で身を固くしていたが、やがておずおずと腕を伸ばし、シルファの体に巻きつけた。

 目を開けた時、シルファは再び木箱の上に座っていた。見回してみたが、あの少女の姿はどこにも見あたらない。短刀も落ちていない。
 やはり、あれは夢か、幻だったのだろうか。
 シルファは大して気にもとめず、木箱から立ち上がって体を伸ばした。それから閉ざしてあった出入り口へ向かう。
 引き戸を開けると、明るい朝の光が建物の中に差し込んだ。壁際でラウドが動く気配がしたので、シルファは振り返って微笑んだ。
「おはよう、ラウド」
「……シルファーミア様?」
 ラウドはほとんど眠れなかったらしく、落ち窪んだ目でシルファを見上げている。
「王宮に戻りましょう、ラウド。あなたの問いかけへの答えは歩きながら話すから」
 シルファは朝の光の中で幼馴染に笑いかけた。
 雨を吸って濡れたであろう地面は、もうすっかり乾いていた。


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