水晶の空 [ 5−3 ]
水晶の空

第五章 再会 3
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 格子窓から差し込む光が、少しずつ強くなっていく。もう日が昇ってからずいぶん経つのだろう。ラウドにここへ連れてこられてから一晩、シルファは結局、一睡もできなかった。明るみ始めた今になって、うとうと微睡んでは目を覚ますことを繰り返している。
 何もない、外を見ることもできないこの場所にいると、自分がどこにいるのかわからなくなってくる。
 まるで、二つのものの狭間に身を置き、そのどちらにも寄ることができずにいるようだ。朝と夜、夢と現実、セフィードとエレセータ。
 自分はいったい、どちらの側にいるのだろう。
 ラウドはシルファの向かいの壁で、直に床に座り込んでいたが、今は目を閉じている。彼もほとんど一晩中起きていたようだったが、夜が明けてからやっと眠る気になったようだ。
 シルファは、この建物の唯一の入り口に目をやった。建て付けが悪く開いていた引き戸はラウドが苦労して閉じていたが、錠前は壊れて床に転がっている。
 シルファはもう一度ラウドを見て、また引き戸に目を移した。
 今なら、ここから出られる。
 放心したまま一晩を過ごしてしまったが、いつまでもここにいるわけにはいかない。宿舎で一緒にいた侍女たちも、護衛も、リュークの王宮で待っているリューネたちも、きっととても心配している。
 それにきっと、セレクも。
 セレクのことを考えると、今すぐここを飛び出したいと思い、同時にここを出ることはできないと思った。昨日のラウドの問いに、シルファはすぐに答えられなかった。それどころか今も自分の答えがわからない。自分は何のためにセフィードに嫁ぎ、セフィードの王宮に戻ろうとしているのか。こんな曖昧な気持ちを抱えたままでセレクに会うことはできない。
 だが、今はとにかくここを出なければ。自分の感情は後まわしだ。
 シルファはゆっくりと木箱から腰を上げ、足音を立てないように出入り口に向かって歩いた。ラウドが目を覚ます気配はない。
「出ていくの?」
 背後から聞こえた声に、シルファは驚いて足を止めた。
 振り向いた先に立っていたのは、ラウドではなかった。彼はまだ壁に寄りかかったまま目を閉じている。そもそも、シルファに呼びかけたのはラウドのものではありえない、幼い声だった。
 シルファが目にしたのは、小さな少女だった。茶色の髪を頭上高くでまとめ、大きな袖と長い裳裾が特徴的な、懐かしいエレセータの衣装だ。
 アリーナ、とシルファは思わず呼びかけ、すぐに口を閉ざした。この少女は末の妹のフェルアリーナによく似ていた。
「……あなたは誰?」
 シルファは改めて口を開いた。この場所に、自分とラウド以外の人物がいつからいたのだろう。一つしかない引き戸の他にも出入りする場所があったのだろうか。
 少女は一歩、シルファのほうに近づいた。
「忘れてしまったの?」
 一見した時は小さい少女と思ったが、よく見ると十二、三歳くらいにはなっているようだった。身の丈は高くないが背筋がよく伸び、ほっそりした首筋や体の横に下ろした手はなめらかで美しい。
 しかし、顔だちはまだあどけない。特にシルファをまっすぐ見つめる黒目がちの瞳は、いかなる汚れも赦さない子どものものだった。
「誰なの?」
 シルファは再び問いかけた。
 目の前にいる少女は妹に似ていたが、シルファの見知った人物ではなかった。どこかで会ったことを忘れてしまっているのだろうか。そもそも、この少女はどこから現れたのだろう。
 朝と夜、夢と現実、セフィードとエレセータ。
 二つのものの狭間にいる自分は、幻を見ているのだろうか。
 少女がまた一歩、シルファに近づいた。
「わたしは、ずっとあなたと一緒にいた。あの日あなたに置いていかれるまで」
 あの日というのはいつのことだろう。
 シルファが彼女を、置き去りにした日というのは――
 気がついた瞬間、シルファは頬を叩かれたような気がした。
「あなたは私?」
 シルファはおそるおそる口にした。
 セフィードへの輿入れのためにエレセータを後にした日。ラウドに、シルファという愛称で呼ぶことを禁じた日。あの時、シルファはエレセータで育った幼い自分を置いていくと決めた。
 少女がシルファを見つめたままうなずいた。改めてよく見ると、彼女は妹にも似ていたが、それ以上にシルファ自身によく似ていた。
 やはり幻を目にしているようだ。あるいは、目を覚ましているつもりでいて、本当はまだ夢の中にいたのだろうか。
「思い出してくれた」
 少女は言った。質問ではなく、目にした事実をただ述べたという口調だった。
「あなたはわたしを置き去りにした。生まれ育った国を捨てて、敵国に嫁ぐために」
「エレセータのためよ」
 シルファは思わず言った。
 少女の口調に責めるような響きはなかったが、済んだ瞳でまっすぐに見つめられると、何か言い返さずにはいられなかった。
「エレセータとセフィードの和平を成すために、私はセフィードに根を下ろさなければならかった。そのためには、エレセータの思い出をすべて捨てなければならなかったのよ」
「だからわたしを忘れたの」
「忘れていないわ。ただ、あなたとはもう一緒にいられなかったの」
 エレセータのことをいつまでも引きずっていては、セフィードに馴染むことはできない。そう思い、どんなに寂しくなってもエレセータの記憶にすがることはなかった。だからといって祖国のことを忘れたわけではない。
 ただ、セフィードの王子の妃になるために、エレセータの王女だった自分は捨てていかなければならなかった。
「ごめんなさい。私は戻らなくては」
 シルファは幼い自分にそう告げ、彼女に背を向けた。
 早くリュークに、セレクの元に戻らなくては。このままここにいたら、捨てたはずの自分といつまでも離れられない。今までセフィードで積み重ねてきたものがすべて崩れ落ちてしまう。
「またわたしを置いていくの?」
 出入り口に向かいかけたシルファを、あどけない声が呼び止めた。
 ゆっくり振り向くと、少女は先ほどと同じ場所に立ち、先ほどと同じ瞳でシルファを見上げていた。
「わたしはまた、この狭間の場所に置いて行かれなければならないの?」


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