水晶の空 [ 5−2 ]
水晶の空

第五章 再会 2
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 雨の音が聞こえなくなって、もうずいぶん経つ。
 格子のかかった窓から外を見つめながら、シルファは思った。先ほどまではうっすらと差し込んでいた光も、少しずつ弱々しくなっている。もう一日の終わりが近いのだろう。
「もうすぐ日が暮れてしまうわ、ラウド」
 シルファは古びた木箱に腰を下ろしたまま、向かいに立つ幼なじみを見上げた。ラウドはシルファがいる窓際とは反対側に、壁を背にして立っている。
 ここは、今では使われていない貯蔵庫か何かなのだろう。一部屋ほどの狭い空間には空の木箱がいくつか転がっているだけで、他には家具も何も見あたらない。セフィードの多くの建物と同じく白い石でできた壁は、ところどころひび割れて欠けている部分もある。
 この建物がセフィードのどのあたりにあるのか、雨を避けるために入った宿舎からどれほど離れているのかはわからない。宿舎からここへ移ってくるあいだ、シルファはずっと気を失っていたのだ。
 気を失わせたのがラウドだということは信じたくないが、この状況を見るとそうだと認めないわけにはいかない。あの時、話があると言ってシルファを露台に連れ出したラウドは、結局なにも切り出さずにシルファの腕を押さえ、口を塞いだ。
 目が覚めるとシルファはここにいた。気を失ってしまったのはシルファが驚いたからで、ラウドは気を失わせるつもりなどなかったのかもしれない。そう思いたくなるのはラウドが幼なじみだからというだけではなく、シルファをここに連れてきた彼が一向に口を開かず、シルファを見下ろして戸惑った表情を浮かべているからだ。
「私たちが急にいなくなって、きっとみんな心配しているわ。戻りましょう、ラウド」
 シルファは静かに、諭すように、ラウドに語りかけた。恐怖はまったく感じていなかった。相手は昔からよく知っている幼なじみなのだから。
 ラウドは宿舎にいた時と同じ、雨に濡れた姿のままでいる。もう滴が垂れ落ちることはないが、髪も服も湿って肌に貼りついている。ここには暖をとるものは何もないので、あのままでは体が冷えて寒いだろう。
 にもかかわらず、ラウドはシルファの言葉に首を振った。
「できません、シルファーミア様」
「どうして?」
「宿舎に戻られたら、その後は王宮への帰途につかれるのでしょう」
「当然だわ」
 ラウドはなぜ、そんなあたりまえのことを言うのだろう。
「セフィードの王宮に戻られたら、あなたはセフィードの人間になってしまう。それを見たくないのです」
 シルファは思わず真顔になった。
「――セフィードの人間? 私が?」
「そうです。あなたはエレセータの王女であり、エレセータのために異国に嫁がれたはずだった。少なくとも私はそう思っていました」
「――私もそうよ、ラウド」
「いいえ、私にはそう思えません」
 ラウドはまた首を振り、壁から離れてシルファの前へ歩いてきた。
「あなたはこの短い間に、セフィードの人間になってしまわれたのです。セフィードの王宮で眠り、セフィードの衣装を着て――セフィードの王子と慈しみあうようになられた。ご自分の祖国を忘れてしまわれたかのように」
「忘れてなんていないわ」
 シルファは思わず強い口調で言った。それほどまでに、ラウドの言葉が意外なものだったのだ。
 エレセータを忘れたことなど、一日たりともない。嫁いで間もない時期ほど寂しく、恋しく思い出すことはなくなったが、生まれ育った王宮や親兄弟のことは変わらず懐かしく思っている。まして今は、姉のウィンリーテと久しぶりに会って語らったばかりだ。
「では、あなたは何のためにセフィードの王宮に戻られるのですか」
 ラウドがシルファの前に立ち止まり、シルファを見下ろした。詰問するような口調とは裏腹に、彼は怒っているわけではないようだった。自分のしていることに戸惑い、けれどやめることもできないような様子だった。
「セフィードに嫁がれたのは何のためですか。セフィードの結界のために魔力を使い、セフィードの人々と親しみ、――セフィードの王子と慈しみあうのは、何のためですか」
「何のため――」
「エレセータのためでしょう。そう言ってください」
 何かに飢えているような、懇願するようなラウドの目を、シルファは呆然と見上げた。
 答えられなかった。自分が何のためにセフィードにいるのか。セフィードのためなのか、エレセータのためなのか。
 自分はエレセータの人間なのか、セフィードの人間なのか。
「言えないのですね、シルファ」
 ラウドの呼びかけに、シルファははっとして顔を上げた。
 この幼なじみにその名で呼ばれたのは、久しぶりだった。
 輿入れのためにエレセータを発った日、シルファのほうからラウドに頼んだのだ。家族が呼んでいた愛称では呼ばず、シルファーミアと呼んでほしいと。
 あの時、エレセータで育った幼いシルファを、祖国に置いてきた。置いてきたつもりだった。
 セフィードで出会ったセレクが、シルファを再びこの名で呼んでくれるまで。
「言っていただけないうちは、ここから離れるわけには参りません」
 ラウドは吐き捨てるように言うと、シルファに背を向けた。
 シルファはラウドに縛られているわけでも、脅されているわけでもなかった。この場所の出入り口は一つだけだが、錠前が壊れているのか中途半端に開け放たれたままになっている。ラウドがシルファを傷つけるとは思えないから、その気になればいつでも外に出ることはできるだろう。
 けれども、シルファは木箱から腰を上げることができなかった。ラウドの問いに答えられなかった自分に呆然として、気力をすっかり奪われていた。
「暖をとるものを探してきます」
 ラウドが出ていくのを、シルファは無言のまま見つめていた。


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