水晶の空 [ 5−1 ]
水晶の空

第五章 再会 1
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「王子、シルファーミア妃の侍女たちが戻ってきたようです」
 文官の一人が執務室にやってきてそう知らせると、セレクは即座に指示した。
「ここへ呼んでくれ」
 シルファがいなくなったという知らせを受け取ったのは、数刻前だ。シルファに付き従っていた護衛の一人が先に戻ってきて伝えてくれた。姉のウィンリーテ王女を国境で見送った帰り、雨を避けるために立ち寄った場所で姿を消したということ以外、詳しいことは何もわからなかった。最後にシルファと会った侍女たちが戻るまで、セレクは政務の手を止めて待つことになった。
 二人の侍女たちは執務室に入ってくると、緊張した表情でセレクの前に並んだ。どちらもエレセータからシルファの輿入れに従ってきたものだ。ウィンリーテ王女を見送る旅だったので、セフィードの者は除いて懇意の女官だけで固めたのだった。
「申し訳ございません、セレク王子」
 侍女のうち年長であろう二十代後半の者が、セレクの前で口を開いた。
 セレクは首を振った。彼女を安心させるために微笑もうとしたが、うまくできなかった。
「謝罪はいい。それより詳しいことを聞かせてほしい」
「はい。――雨が降り始めたのは、ウィンリーテ王女をお見送りして、帰途についてすぐのことでした。船頭が国境近くにある王家の宿舎を知っており、そこへ連れていってくれました」
 その宿舎ならセレクも知っている。実際に使ったことはないが、王家の所有なので立地と間取りくらいは把握している。船に乗ったシルファがその場所に入るところはやすやすと思い浮かべることができた。
「雨に濡れておいででしたのでお着替えをと申し出たのですが、シルファーミア妃はそれよりも私たちを案じ、先に自分の身を拭くようにと仰ってくださいました。私たちはそのお言葉に甘え、シルファーミア妃の御前を辞しました」
「一時でもお側を離れたのは私たちの怠慢です、本当に申し訳ございません」
 もう一人の侍女がたまりかねたように口を挟んだ。
 二人とも、ここに呼ばれたのは尋問されるためだとでも思っているのだろうか。そのような意図は少しもなく、ただシルファがいなくなった状況を知りたいのだと、セレクが言ってやるべきなのかもしれない。
 しかし、開いた口から出てきたのは次の問いだけだった。
「シルファから離れていたのは、どのくらいの時間だ?」
「半刻も……その半分も経っていなかったと思います。お着替えを持って戻ると、お姿がありませんでした。窓が開いていたので露台に出られたのかと思ったのですが、そこにもいらっしゃらず……」
「雨は?」
 セレクの斜め横から、鋭い声が割り込んだ。
 思わず顔を上げると、一緒に話を聞いていたギルロードが、侍女たちに目線を向けていた。
「露台を覗いた時、雨はまだ降っていましたか。すでに止んでいましたか」
 二人の侍女は戸惑いを顔に浮かべ、お互いに目をかわし、一人がギルロードを見て答えた。
「降っていなかったと思います。ちょうど上がったところだったかと」
「そうですか」
 ギルロードは静かに言い、それきり口を閉ざした。
 セレクは再び侍女に問いかけた。
「他に変わったことはなかったか。いなくなる前のシルファの様子でも、どんな小さなことでもいい」
 侍女たちは少し考え、やがて年長のほうが口を開いた。
「お部屋の床が、ひどく湿っていたように思います。シルファーミア妃は宿舎に入られる前から雨避けの布をお使いでしたので、水が滴るほど濡れてはいらっしゃいませんでした。私たちは多少は濡れていたのですが、シルファーミア妃のお側を辞してからはお部屋に入っておりません」
「それを考えると、不自然なほど床が濡れていたと」
「はい。まるで、ずぶ濡れの人間がつい先ほどまで、そこに立っていたように」
 セレクはその場面を思い浮かべてみようとした。
 侍女たちが離れてからシルファが姿を消すまで、何者かがその部屋に入ったということか。
 宿舎からいなくなったのはシルファだけではない。エレセータの出であるラウドという若い護衛も見あたらないと聞いていた。シルファの不在にいち早く気づき、単身で捜索に向かったのだと推測されていた。
 しかし、今の話が本当だとすると、二人はもしや同時に姿を消したのだろうか。
「ありがとう。呼びたててすまなかった。今日は東の宮に戻ってゆっくり休んでくれ」
 セレクは二人の侍女にゆっくりと言った。できるだけ微笑もうとしたが、うまくいったかどうか自信がない。
 侍女たちは会釈して離れかけたが、その寸前、年少のほうが口を開いた。
「セレク王子、ひとつだけよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「シルファーミア妃は、少しでも早く王宮に戻られることを願っておいででした。雨で足どめされたことは仕方ないと仰っていましたが、本当は一刻も早くセレク王子に会いたがっておいででした」
「ちょっと、やめなさい」
 年長のほうの侍女が片割れをたしなめつつ、セレクの顔を見た。二人とも、何かを訴えるような、哀願するような、同じ目をしていた。
 姿を消したのはシルファ自身の意志ではないと――逆に言えば、状況はシルファが自分からいなくなった可能性を示していると――セレクは二人の目から読みとってしまった。

「芳しくありませんな」
 二人の侍女が執務室から去ってすぐ、ギルロードがそう口にした。
 セレクは座ったまま副官を見上げた。他の文官は、シルファの捜索のために軍の責任者を呼んで話しあっている。
「ギル、おまえまでそんなことを――」
「私がそう思っているわけではありません」
 ギルロードはさらりと答えた。この期に及んで、シルファがセフィードを裏切ったなどと考えているわけではないようだ。
「問題は、この件でシルファーミア妃を疑い出す者が現れかねないということです。この国の多くの者は、まだ私ほどシルファーミア妃のお人柄を存じ上げておりません。ましてや王子ほどには。結界のことで信頼が高まりつつあったとはいえ、まだ完全ではありません。その矢先にこの失踪とは、どう考えても芳しくないでしょう」
 いつもいつも、この副官の指摘は恐ろしいほど当を得ている。
 エレセータから来た姉を見送った直後。国境近くという場所。姿が消えたのは侍女たちが離れたほんの短い間のことで、一緒にいなくなったのはやはりエレセータから来た護衛。
 これだけの符号を与えられれば、セレクほどシルファを知らない多くの者は、シルファが婚家を捨てた可能性に嫌でも思いあたってしまうだろう。
「リュークからの捜索隊は明朝早くに出発します。エレセータには使いを送りますか?」
「まだいいだろう。余計な心配をかけるだけで終わるかもしれない」
 案外すぐに見つかるかもしれないのだ。エレセータにいるシルファの両親に知らせるのは、もう少し捜索が進んでからでも遅くないだろう。
 そうなる前に見つかってほしい、というセレクの願望も含まれている。
 シルファが自分から消えたのではないとすれば、何者かに連れ去られたという結論しか出ない。ラウドという護衛がシルファをさらったのか、彼とともに別の誰かに捕らわれたのかはわからないが、どちらにしても最悪の事態であることに変わりはない。
 国境まで姉を見送っていって、すぐに戻ってくると言っていたのに。シルファが戻ったら、また二人の穏やかな日々を始められると思っていたのに。シルファのいないセフィード王宮で、こんな知らせを受け取ることになるなどと、想像してもみなかった。
「どこに誰といてもいい。無事でいてくれれば……」
 セレクは思わず声を絞り出した。今、言えるのはそれだけだ。
 ギルロードはセレクの声には答えなかった。隣から聞こえてきたのは、意外な言葉だった。
「雨が、上がってすぐのことだったようですね」
「――雨?」
「シルファーミア妃がお姿を消されたのは、ちょうど雨上がりの時のことだったと」
 そういえば、先ほど侍女たちがそのようなことを言っていた。ギルロードが問いかけ、彼女たちはそれに答えたのだ。
 水を信仰するセフィードでは、雨は天から降りてくる神の使い。彼らは地上から引き上げる時、気に入った者を天に連れ去ってしまう。だからセフィードの者たちは、雨が上がってもすぐには屋外に出ない。
「シルファを連れ去ったのは神の使いだと、そう言いたいのか、ギル」
 風習としてはセフィードの暮らしに深く根づいているが、実際に雨上がりに連れ去られた者がいるわけではない。迷信だと言い切ってしまうこともできないが、真剣に論じるような話でもない、セフィードの人々にとっては曖昧な位置にある言い伝えだ。
「そういうふうにも読みとれると申し上げただけです」
 ギルロードはそっけなく言い、セレクの目を見なかった。


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