水晶の空
第四章 神話 10
五日間の滞在の後、ウィンリーテがエレセータに帰る日がやってきた。
シルファは護衛の者たちとともに、国境まで姉を送ることになった。リュークの水路を出て河を渡る道すがら、二人はさまざまな話をした。セフィードにいる間にも時間を惜しんで語り合ったというのに、久しぶりに会った姉とはいくら話しても話題が尽きなかった。
「リュークは綺麗な都だったわね」
船が進んだ後を振り向きながら、ウィンリーテは呟いた。水明宮を中心にした王宮も、都の街並みも、もうはるか後ろへ遠ざかっている。
「建物が低いのにはびっくりしたけれど、白い街並みが水路に映っているのは本当に綺麗だったわ」
「雨が降るととても幻想的なんですよ。姉上にもお見せしたかったです」
「そうなの? 雨の日は仕事が禁じられると言っていたわね」
「ええ。街からも人の姿がすっかりなくなります。誰もいない街に雨が降って、建物や水路がそれを弾いているところが本当に綺麗で」
セフィードでの雨は、天から降りてきた神の遣い。それが地上にいる間は、人々はいっさいの営みを止めなければならない。雨がやんでからしばらくも同様だ。神の遣いは天に帰る時、気に入った者を連れ去ることがある。
セレクが聞かせてくれたことをそのまま話すと、ウィンリーテは興味深そうに聞いてくれた。
船は大河を遡り、やがて国境近くの見張り台までやってきた。このあたりにはセフィードとエレセータ、両方の民が少数ながら暮らしており、交易もある。彼らは互いの国の言葉や文化にも通じているので、シルファの輿入れが決まった時にも力を貸してもらった。
船が渡し場に着くと、シルファとウィンリーテはいったん岸辺に降り立った。ここからはウィンリーテは輿に乗り換えてエレッサに向かい、シルファは乗ってきた船でリュークに引き返すことになる。
渡し場に立ち、姉妹はどちらからともなくお互いを抱きしめた。
「元気でね、シルファ」
「リーテ姉上も」
次に会える日が来るのかわからないのは、シルファの輿入れの時と同じだ。しかし、ウィンリーテがセフィードを訪れ、そこでのシルファの暮らしぶりを見てくれた今は、あの時ほどの悲愴な空気は漂わなかった。
二人はお互いから離れると、顔を見合わせてにっこり笑った。
「申し訳ありません、シルファーミア妃。船を停めてどこかに入ってもよろしいでしょうか」
船頭がそう言い出したのは、シルファの一行が帰路について間もない時だった。ウィンリーテと別れた時とは打って変わって空が曇り、霧のように細かい雨が降り始めたのだ。
「もちろん構いません」
侍女が広げてくれる大きな布の下で、シルファは答えた。セフィードでは雨の間は旅も禁じられているが、それ以前にこの雨の中で船を進めるのは危険だろう。本格的に降り始める前にどこか屋根の下に入ったほうがいい。
船は二艘おり、一艘にシルファと二人の侍女、もう一人にはラウドを含む護衛三人が乗り、それぞれに船頭が一人ずつついている。皆、急に降り出した雨に濡れながら不安そうな顔をしている。
「どこか場所を見つけてもらえますか。みんなが濡れてしまう前に」
雨の音が響き始めたのに気がついて、セレクは政務の手を止めた。執務室にいる文官たちもみな耳をすませている。
「雨か」
「雨ですね」
シルファは大丈夫だろうか。その言葉は胸の内で呟いた。
そろそろ国境でウィンリーテと別れ、折り返してきてもおかしくない頃だ。シルファのいる場所とこことで同時に雨が降っているとは限らないが、この時季の雨はたいてい河上からやってくるので、シルファのほうが先に降られている可能性が高い。
「シルファーミア妃も船を停めることになっているかもしれませんね。早めに止んでくれるといいのですが」
ギルロードの声を聞いて、セレクはぎょっとして目を向けた。セレクでさえ声に出さなかったことを、まさかこの副官の口から聞くとは。
「シルファを心配しているのか、ギル」
「王子にお仕えする者として、お妃の身を案じるのは当然のことです」
ギルロードは少しも表情を変えずに言った。その様子からは想像もつかないが、シルファを心配してくれているのは言葉の通り事実だろう。
セレクは嬉しくなって思わずギルロードに笑いかけそうになり、しかし雨のことを思い出して真顔に戻った。
「本当に、早く止むといいな」
「そうですね」
船頭たちがシルファを連れていってくれたのは、王家の宿舎として使われる小さな建物だった。何年も使われていないとのことだったが、管理人が置かれ充分に手入れされていた。
部屋に入ると、二人の侍女がシルファの髪や衣装を拭いてくれた。二人とも、ウィンリーテとも親しかったエレセータの者だ。
「お着替えを用意できるといいのですが」
「それほど濡れていないから、このままで平気です。あなたたちも早く自分の身を拭きなさい」
侍女たちが広げた布で守られていたシルファより、彼女たちのほうがひどく濡れている。二人はシルファに礼を言い、拭くものを取りに行くために部屋から立ち去った。
一人になったシルファは、雨の音に耳をすませてみた。セレクもこの音を聞いているのだろうか。帰るのが遅くなって心配させてしまうかもしれない。
急に扉が軋み、シルファははっとして顔を上げた。見ると、半開きの扉の向こうにラウドが立っていた。
「どうしたの?」
ラウドが声もかけずに現れるなど珍しい。それとも、シルファがセレクのことで物思いにふけっていて、彼の声を聞き逃したのだろうか。
「お話があります、シルファーミアさま」
「なあに?」
「外に出ていただけますか」
ラウドが部屋の窓を指さし、シルファもそこを見た。
雨の日に外に出るのは禁じられているが、露台までなら構わないだろう。
シルファはラウドにうなずき、二人連れだって窓から露台に出た。
雨はひどい降りにはならず、ここに入った時より弱くなっていた。このぶんならもうじき止んでくれるかもしれない。
シルファは露台の手すりを背にして立ち、後から出てきたラウドと向かい合った。
「お話というのは何?」
シルファはさっそく促した。雨が止んだらすぐにでもここを出たいので、早めに聞いておきたい。
ラウドはシルファをまっすぐ見ていたが、口を開こうとしなかった。ここに来るまでに濡れた体を拭かなかったのか、髪や肌にところどころ水滴が付いている。
「ラウド?」
シルファは再び訊ねた。
背後から聞こえる雨の音が、少しずつ消えていく。神の遣いが天へ帰っていくのだ。
「シルファーミアさま」
ラウドがようやく口を開いた。
「――上がったようだな」
執務室で茶器を手にしたセレクは、耳をすませた後に呟いた。先ほどまで絶え間なく響いていた雨音がすっかり消えている。
同じようにしていた文官たちも、ほっとして顔を見合わせていた。雨が降っている間は政務もやめなければならないので、茶を煎れさせて皆でくつろいでいたのだ。
「あまり長引かず良うございました」
セレクが思っていたことを、またもやギルロードが口にした。
セレクは笑い、しかし副官を追及するのはやめて無難に答える。
「そうだな。全員が飲み終えたら仕事を再開しよう」
器の中に半分ほど残った茶を、セレクは目を細めて見つめた。
シルファのいる場所でも、すでに雨は止んでいるのだろうか。あまり濡れずにどこか屋根の下に入ることはできただろうか。雨が上がったのを見届けたら、すぐにでも帰路についてくれるだろうか。
もちろんそうだろう、と、セレクは何の迷いもなく思う。セレクがシルファの帰りを待っているように、シルファもセレクのもとに帰るのを待ちわびてくれているはずだ。
笑顔になるのをこらえながら、セレクは残りの茶を飲み干す。
シルファが王宮に帰ってきたら、抱きしめて笑顔で迎え、それからあたたかい茶を煎れてやり、二人でさまざまな話をしよう。
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