水晶の空 [ 4−8 ]
水晶の空

第四章 神話 8
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 水路を渡る小舟がゆっくりと近づいてくるのを、シルファは高鳴る胸を抑えながら見守った。
 場所は、セフィード王宮の南の宮。
 この国に嫁いできた時、シルファが最初に降り立った場所だ。
 今のシルファは出迎えられる側ではなく、出迎える側だ。隣にはセレクが並んで立っている。
 小舟が近づき、やがて乗っている人の顔が見分けられるほどになると、シルファの緊張は頂点に達した。前後をセフィードの衛兵に守られ、舟の中央に座っているのは、間違いなく姉のウィンリーテだ。
 ウィンリーテもシルファに気がついたらしく、舟の上ではっと目を見開いた。
 小舟が降り場に着くと、シルファは自分でも気づかないうちに走り寄っていた。衛兵の手を借りて降りようとしていたウィンリーテは、顔を上げて動きを止める。
「――シルファ?」
「リーテ姉上」
 姉妹はお互いの目を見つめた後、どちらからともなく抱き合った。
 エレセータを経つ前日、シルファの私室で話した時以来だ。もちろん、ウィンリーテは見送りの時にもいてくれたが、シルファにとってはあの夜の泣き顔が最後に見た姉の顔だったように思う。
「姉上、来てくださって本当にありがとうございます。またお会いできるなんて、思ってもみませんでした」
「私もよ、シルファ。元気にしていた?」
「ええ、とても。父上や母上やみんなも変わりありませんか?」
「みんなとても元気よ。アリーナも来たがっていたのだけど」
 ひとしきり再会を喜び合った後、シルファは後ろを振り返った。セレクはシルファの後を付いてきて、姉妹の再会を穏やかに見守ってくれていた。
「王子、ご紹介します。姉のウィンリーテです」
 シルファは一歩下がって、セレクと姉を引き合わせた。
「エレセータ第一王女、ウィンリーテと申します。お出迎えありがとうございます」
「セフィード第一王子セレクです。遠いところをよくお越しいただきました」
 セレクはウィンリーテに手を差しのべた。ウィンリーテはその手を見つめ、少し首を傾げてから自分も手を出す。ここに着いた時の自分のことを思い出して、シルファは思わず笑った。
「長旅でお疲れでしょう。部屋に案内させますので、シルファと二人でゆっくりなさってください」
「まあ、お気遣いありがとうございます」
 セレクが先を歩き、シルファは姉と並んで後に続いた。ウィンリーテはエレセータ女性の正装を身に纏っている。大きな袖が目立つ橙色の上衣に、紺色の裳裾だ。シルファと同じ色の髪は頭上で一つに束ねてある。一方、シルファは今日もセフィードの水色の衣装だった。
 シルファにとっては姉の姿は懐かしいが、ウィンリーテは異国の衣装に身を包んだ妹を、どのように見てくれたのだろう。

 セレクはウィンリーテのために、東の宮の一室を整えてくれた。寝台は二つあり、シルファも今夜はここに泊まることができる。寝室のとなりにある別室とは扉一枚でつながっており、シルファはこの部屋で姉に着替えてもらうつもりでいた。今夜はウィンリーテをもてなすための宴が開かれるのだ。
 その前に茶を煎れ、姉に休んでもらいながら二人でさまざまな話をしよう。
 シルファはそう思い、侍女に茶器の準備を命じた。部屋に残ったのはシルファとウィンリーテの二人だけとなった。
「姉上、お掛けください。お疲れになったでしょう」
 シルファは姉のために椅子を引いた。いつもセレクと使っているものと同じ、円卓を囲んだ二つの椅子である。
 ウィンリーテはシルファの声に答えず、その椅子を前に立ち尽くしていた。
「……姉上?」
「シルファ」
 ウィンリーテはようやく答えたと思うと、顔を上げてシルファを見た。その目から今にも涙が溢れそうになっているのを見て、シルファは慌てて姉の側に駆け寄った。
「どうなさったのですか、姉上」
「シルファ、ごめんね」
 ウィンリーテはシルファの顔を間近で見ると、堰を切ったように謝り続けた。
「ごめんね、ごめんね、シルファ。私、なんてことを」
「何を仰っているのです」
「国境からこの都に入って、この王宮に来る途中、ものすごく怖かったわ」
 ウィンリーテの両目から、次々と涙が流れ落ちた。シルファはそれを拭おうとしたが、姉は構わず言葉を吐き出し続けた。
「景色も、建物も、人の姿も、何もかもエレセータとは違う。聞こえてくるのも知らない言葉ばかり。異国に一人でやってくるのが、こんなに怖いなんて思わなかった」
 嗚咽と一緒に聞こえてきた言葉から、シルファはようやく姉が言おうとしていることを理解した。
「私がここに来るべきだった。あなたではなく、私がこの不安を味わえば良かった。私、あなたになんてことをしてしまったの。許して、シルファ」
「姉上、やめてください」
 シルファは笑顔で手を伸ばし、姉の肩や背中をさすった。
「私は、この国に嫁いでくることができて、良かったと思っています。もちろん苦労もいろいろありましたけれど、今は……」
「今は?」
「幸せです」
 シルファは少しの思案の後、ぴったりの言葉を見つけ、それを声に出した。
「幸せなんです、姉上。そう見えるかどうかはわかりませんが、本当です。あの夜、姉上が言ってくださった通りになりました」
 ウィンリーテは自分の手で涙を拭い、しばし沈黙した。自分の言った言葉を思い出しているのだろう。やがて目を少し開き、おずおずと口を開いた。
「幸せなの?」
「はい。もし、今から時間を戻せるとしても、姉上にこの地位は譲りませんよ」
 シルファは姉の肩を叩き、にこりと微笑んだ。
「座ってください、姉上。お茶をお煎れしますから。それから、私が今どんなふうに幸せなのかお話させてください」


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