水晶の空 [ 4−6 ]
水晶の空

第四章 神話 6
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 雨が降り出したのは、エレセータに向かう使者を見送ったその夜だった。
 一夜明けてもまだ降りやまず、セレクは北の宮には出かけず、東の宮の居間でシルファとともに過ごした。
 長椅子に並んで座り、肩を少しだけ触れあわせて、さまざまな話をした。話題はいくらでもあった。それぞれの国のこと、家族のこと、幼いころの自分のこと。お互いのことを知らずに過ごした十数年間を埋めるように、二人は時間も忘れて話しあった。
 特にセレクにとっては、シルファが話してくれるエレセータのことすべてが新鮮だった。言葉も、衣食住も、習慣も、何もかもがセフィードとは違う。まだ見ぬ異国に行ってみたいと思うと同時に、これほどの隔たりを越えて嫁いできてくれたシルファが愛しかった。
 シルファはセレクの感情には気付かずに、嬉しそうに故郷のことを話し続けている。
「エレセータの建物はここのように広くはないのですが、空に向かって高く建てるのです。王宮も、たくさんの塔の群れで成り立っています」
「そんなに高いところで生活するのか」
「はい。エレセータでは空に近いところほど風の恵みがあると言われているので、儀式や政も必ず塔の上で行います。階段を上るのは大変ですが、高いところは気持ちがいいですよ」
「景色がいいから?」
「そうですね。王宮のまわりは平原が続いているので、遠くまでよく見渡せます」
 そんな環境で育ったシルファにとって、セフィードの王宮は居心地が悪くないのだろうか。セフィードの建物は二階建てが多く、この東の宮の居間も二階にある。露台に出ても見渡せるのはせいぜい首都の全景だけだ。シルファにとっては地面の上で生活しているのと変わらないのではないだろうか。
 セレクはシルファを抱きしめ、いたわりたくて仕方なかった。長椅子の背もたれにかけていた手がシルファの肩に伸びかかる。
「王宮の中に目立って高い塔がひとつあるのです。儀式に使う場所ですので、普段は上ってはいけないのですが」
 だが、当のシルファは楽しそうに話を続けている。セレクは手を拳にして、シルファに触れる寸前で止めた。
「幼いころに一度だけ、両親や侍女たちの目を盗んで上ったことがありました。最上階の窓から見える景色を、どうしても知りたくて」
「見られたのか?」
「はい」
「何が見えた?」
「都に近い街や集落がいくつか見えました。それから地平線も。でも少しがっかりしました」
「がっかり? なぜ」
「それだけ高いところに上ったら、セフィードが見えるのではないかと思ったのです。でも見えませんでした」
 セレクはシルファの顔を覗き込んだ。
「セフィードが見てみたかったのか?」
「はい。エレセータとはまったく違う国があると聞いていましたから。一度この目で見てみたいと、幼いころから思っていました」
 シルファはいったん言葉を切り、はにかむように微笑んだ。
「このような形で目にすることになるとは、思ってもみませんでしたが」
 セレクは手を伸ばし、シルファの頬に軽く触れた。
 シルファは少し驚いたようだったが、おずおずと振り向いてセレクと目を合わせた。
「セフィードに来て、この国を見ることができて嬉しかったのか?」
「はい」
「そのために苦労することがあっても?」
「苦労しなかったと言えば嘘になります。でも、今になって思えば、その苦労も楽しいものでした。見たことのないものをたくさん見ることができたのですから」
 シルファが再び微笑むのを見て、セレクは両腕を彼女にまわして抱きしめた。
 腕の中でシルファがくすりと笑う気配がする。
 雨の音がずっと続いていた。

「上がったようだな」
 長椅子の上でしばらく過ごした後、セレクは雨音が止んでいるのに気がついた。シルファもセレクの腕から抜け出して立ち上がる。
 二人で露台に出ると、雨はすっかり降りやんでいた。薄くなった雲の向こうに太陽が少しずつ姿を現し、雨に洗われた都をぼんやりと照らしている。
「雨は上がったのに、まだ外に出る人はいないのですね」
 シルファが露台から街並みを見回して呟いている。その言葉通り、リュークの町には建物の外に人影は見えず、水路の上を行く船もない。
「セフィードでは、雨は神の遣いだと言われていると、以前に話したな」
「ええ」
「雨が上がるということは、その遣いが地上から引き上げて天に戻られるということだ。この時、神々が気に入った人間を天へ連れ去ってしまうという言い伝えがある。だから雨が上がってしばらくは外に出てはいけないんだ」
 シルファは目を丸くしてから、面白そうに笑った。
「エレセータにもよく似た言い伝えがあります。季節の変わり目に強い風が吹くようになると、幼い子どもが姿を消してしまうことが何度かあったそうです。だから風の強い時季になると、親たちは自分の子を守るために決して外に出しません」
「本当に似ているな」
「ただ、エレセータの言い伝えでは、風にさらわれるのは十歳くらいまでの子どもと決まっています。セフィードでは年恰好に関わらず連れ去られるのですか?」
「そうだな。神々は気まぐれだと言うから」
「では、わたしたちも気をつけなければなりませんね」
 シルファはまた笑い、雨上がりの首都に目を戻した。今日はいつも以上によく笑ってくれる。
 並んで立っていると、シルファの背はセレクの肩より少し低かった。初めて会った時から小柄だと思っていたが、こうして見ているとまるで子どものようだ。今にして思えば、その小ささがセレクの庇護欲を掻き立てたのかも知れない。そのせいでずいぶんと遠回りをすることになったが、今のセレクはシルファがただ小さいだけではないと知っている。
 都の光景に何か興味深いものを見つけたらしく、シルファは露台の手すりに寄りかかって一点を見つめている。
 セレクはその視線を追ったが、シルファの興味を惹いたらしいものが見つからない。何を見つけたのか訊いてみようと、セレクは視線を戻して再び隣を見た。
 そして、自分の目を疑った。
 一瞬前まで隣に立っていたはずのシルファが、あたたかい肌に触れることのできたシルファが、そこにいない。
 セレクは息を呑み、ゆっくりとまばたきをして、そして我に返った。
 シルファは先ほどまでと同じように、そこに立っていた。
「どうなさったのですか、王子」
 シルファがきょとんとした目をセレクに向けている。
「……いや。なんでもない」
 セレクはそう言いながらシルファを抱き寄せ、小さな体を自分の胸に押し当てた。シルファは確かに、間違いなくここにいる。
 一瞬だけ姿が見えなくなったのは、ただの気のせいだったのだろう。


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