水晶の空 [ 4−5 ]
水晶の空

第四章 神話 5
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 エレセータに向かう使者はセレクの側近の中から選ばれた。国境の町に派遣されていたこともある若者で、エレセータ語にも堪能だという。
 彼を乗せた船が水路を遠ざかっていくのを、シルファはセレクと露台に並んで見送った。
「無事に着くといいですね」
「ああ」
 露台から空を見上げると、黒っぽい雲が少しずつ青空を覆い始めている。雨が降れば使者は足を止めて休まなければならない。日数が嵩めばさまざまな問題も出てきて旅は困難になるだろう。
 シルファの心配を見て取ったのか、セレクが手を伸ばしてシルファの肩にかけた。
「そう不安がらなくてもいい。少しの足止めは計算に入れた上で準備させている」
「そうなのですか」
 シルファはほっとしながら、肩に置かれたセレクの手を横目で見つめた。どこか落ち着かないような気はするものの、不愉快ではない。こういうことは珍しくもなくなっていた。
 二人は肩を寄せあったまま向きを変え、露台から部屋の中に入った。
 まだ早朝である。使者の船を見送るために早起きしたが、公務に出る時間まで余裕がある。かといって、もう一度寝台に入るほどの時間はない。
 シルファとセレクはどちらから言い出すともなく居間に向かい、円卓を挟んで座った。湯の支度がないので茶は淹れられないが、お互いの顔を見ながら話すだけでも充分くつろげる。
「リューネが、話をしてくれました」
 シルファが語り始めたのは、つい昨日の出来事だった。
「何を?」
「ずっと秘密にしていたことを。侍女として私の身の回りの世話をしながら、私の行動をギルロード殿に報告していたことを」
 言葉に詰まったセレクの顔を見て、シルファはやはりと思った。
「王子はご存じだったのですよね」
「すまない、シルファ。ギルを止められなかったのは私だ」
「いいえ。私は嬉しかったのです。リューネが私に打ち明けてくれて」
 リューネはシルファの前で平伏せんばかりに謝罪し、今後は兄の頼みは聞かないつもりだと言い切ってくれた。シルファには黙っておくこともできただろうに、あえて話してくれたことがシルファには嬉しかった。
「どうして打ち明けてくれたのか、リューネに聞いてみました。そうしたら――」
「そうしたら?」
「必要がなくなったからだと、言ってくれました」
 シルファのことを見張る必要はない、つまりシルファのことを信用していいと、リューネは思ってくれたのだ。そして、ギルロードにもそう言ってくれたのだという。
 リューネが間者の役割をしていたことにはもちろん驚いた。衝撃がまったくなかったと言えば嘘になる。
 だが、リューネが自らその役割を捨ててくれたこと、それをシルファに伝えてくれたことは、本当に嬉しかった。
 セレクがギルロードに命じてやめさせていたとしたら、シルファとリューネは信頼を築くことはできなかっただろう。
「だから、王子がギルロード殿を止めないでくださって良かったのです。ありがとうございました」
 セレクは苦笑し、円卓ごしにシルファのほうへ手を伸ばしてきた。
「そんなことで礼を言われるとは思わなかった」
「おかしいですか?」
「いや」
 セレクの手はシルファの頭に触れ、そのまま髪を梳き下ろした。いつの間にか目と目の距離がずいぶんと近くなっている。こういうことが初めてというわけでもないのに、シルファはなぜか緊張した。髪を撫でられているだけだというのに、射止められたように動くことができなかった。
 セレクはシルファの緊張に気がついたのか、ふと見つめていた目を細めた。
「やめたほうがいいか?」
 シルファはぎこちなく首を振った。
「いいえ」
「では、こちらに来てくれるか」
 セレクは口ではそう言いながら、先に自分が立ち上がってシルファに歩み寄った。
 シルファは無言で立ち上がった。すぐ目の前にセレクの腕があり、気づいた時にはそれにくるまれていた。
「朝から何をしているのでしょう、私たちは」
「夫婦なのだからいいのではないか?」
 火照り始めていたシルファの体は、セレクの言葉で一気に熱くなった。せっかくくつろぎかけていたというのに、これでは台無しだ。
 セレクの手はシルファをなだめるように髪を、背中を撫で続けている。
「シルファ」
「はい」
「私のところに来てくれてありがとう」
 シルファはセレクの胸を軽く押し、顔を上げた。この時のセレクの顔を見ておかなければならないと思った。
 セレクははにかんだように笑い、シルファを見下ろしていた。
「エレセータから嫁いで来てくれたのが、そなたで良かった」
 その言葉はシルファの中に流れ落ち、波紋のように広がった。
 そなたで良かった。
 この言葉をずっと待っていたような気がした。輿入れのためにエレセータを旅立った日から、ずっと。
 シルファは選ばれてここに来たわけではない。嫁ぎ先の決まっていた姉、まだ年端のいかない妹に代わって、エレセータの王女の一人として嫁いできただけだ。
 だが、セレクは他でもないシルファをまっすぐ見つめ、そなたで良かったと言ってくれた。
「私もです、王子」
 シルファはセレクの目を見上げたまま言った。
「セフィードの王子が、あなたで良かったと思います」
 セレクが笑み崩れるのが見えたが、シルファの視界は急に遮られた。セレクの腕が再びシルファを抱き寄せ、自分の胸に押しつけたからだ。
 セレクの腕の中で目を閉じながら、シルファは思った。
 この先ずっと、朝も夜も、この腕の中で目を閉じ、また目を開けるのだろう。
 いつかこの人の隣で永遠に眠る、その日が来るまで。


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