水晶の空 [ 4−2 ]
水晶の空

第四章 神話 2
[ BACK / TOP / NEXT ]


 雨はその日の夜までにやみ、次の日からはまたセレクの帰りを待つ日が始まった。
 シルファはセレクが回復してからも数日に一度は水明宮に渡っているが、その他の時間はほとんど自室で過ごす。書物を読んだり、リューネから話を聞いたりしてセフィードに関する知識を増やしている。
 雨の日の翌日も、シルファはリューネを側に読んで、セフィードのことを聞かせてくれるよう頼んだ。
「セフィードの暦では一年を七つの季節に分け、それぞれを水、雨、無、嵐、霜、氷、雪、と水の状態の名で呼んでいます。これはご存じですよね」
 シルファはうなずいた。暦の話は輿入れが決まってからすぐに覚えたことの一つだ。ちょうど明日が霜の季節の最終日で、明後日からは氷の季節が始まる。つまり日に日に寒さが増してきている。
「このうち、日照りが続く無の季節には、水の魔力がもっとも弱まると言われています。この時季を無事に乗り越えることができるよう、セフィードの全土でお祭りが行われます」
「雨乞いのようなもの?」
「いいえ、雨は神の御使いですから、私たち人間が乞うことは許されません。無の季節のお祭りで祈るのは、その前の雨の季節にもたらされた恵みが、絶やされることなく続くことです」
 シルファの祖国では、日照りが続くと雨を願って神官と王族が祈りを捧げる儀式があった。エレセータでは水を信仰しないので、雨を願うのはあくまで人々の暮らしのためだったが。
「そのお祭りでは、王族は何をするのですか」
「南の宮をリュークの民に開放して、彼ら一人一人と握手を交わします。このお祭りで王家の方のお手に触れることができた者は、無の季節はもちろん一年を通して災難を免れると言われています」
 結界の魔力を民たちに分け与えるようなものなのだろうか。
 エレセータでは王族が民の前に姿を現すことは少なくないが、手を取り合って触れあうことはまずない。握手の習慣がないというだけではなく、そもそも触れることで力が伝わるという考えがない。エレセータの魔力は風に乗って空気中に広がるものだ。
「今年も去年も、この行事にはセレク王子がお一人でお出になったんです。でも、来年からはシルファーミア妃にもご一緒していただけますね」
 シルファは驚いて首を振った。
「私も?」
「もちろんです、王子のお妃ですから、セフィードの王族のお一人じゃないですか」
「でも、私には水の魔力がないのに」
「そんなこと関係ありませんよ。本当に魔力を伝えられるわけでもないですし。大事なのは、王族に触ってもらえたことを民が喜んでいることです」
 そういうものなのか。確かに、儀式だと思えば納得もいく。
 しかし、セレクと並んで民の前に立ち、彼らと手を握りあう自分の姿が、シルファにはなかなか想像できない。挨拶としての握手にさえまだ慣れていないというのに。
 不安そうなシルファの表情を見て取ったのか、リューネがにこりと笑って続けた。
「まだ先の話ですよ。これから雪の季節、水の季節、雨の季節と続いて、無の季節はその後ですから」
「……そうね」
「手を握り合うことに慣れないんでしたら、私も練習にお付き合いします。それに王子も手伝ってくださるはずですよ」
「手伝って……」
 シルファはリューネの言葉を繰り返しながら、自分の頬が熱を帯びていくのを感じた。
 想像してしまったのだ。祭りのための練習と称して、セレクと手を触れ合う自分の姿を。
「シルファーミア妃? お顔が赤いですけど、大丈夫ですか?」
 リューネが一歩前に出て、不思議そうにシルファの顔を覗き込む。
「ええ、大丈夫」
 シルファは気を取り直して答えた。
 触れ合ったことくらい何度もあるというのに、何を今さら恥じらうことがあるのか自分でもわからない。セレク本人のいないところで、一人で想像している自分が恥ずかしかったのだろうか。
 リューネの言った通り、祭りのための練習だと言えばセレクはいくらでも付き合ってくれるだろう。いつでも、何度でも、あの手に触れさせてくれるだろう。
「前からお聞きしたかったんですけど」
 リューネの言葉に想像を中断され、シルファは慌てて居住まいを正した。
「何かしら」
「セレク王子とシルファーミア妃は、仲良くしていらっしゃるのですか?」
「……仲良く?」
「あ、変な意味ではないですよ。お輿入れから半年も経ちませんけど、お二人が打ち解けていらっしゃるのはよくわかります。でも、最初からそうだっただけに、その先もあまりお変わりになっていないような気がして……」
 リューネは言葉の先を消し、我に返ったように顔の前で手を振った。
「すみません、出過ぎたことを申し上げました」
「いいえ、いいのよ」
 シルファは苦笑しながら答えた。
 確かに立ち入った質問ではあるが、リューネに言われるとなぜか不愉快にならない。
 それに言われたことにも一理あると思い、シルファはつい考え込んでしまった。
 セレクとは確かに初めて会った時から打ち解け、親しく話すことができた。結界の異変が原因で一時は溝ができたが、それを乗り越えることでかえって信頼が増したとも思う。よく知らない相手と結婚することは王族なら珍しくないが、早いうちからこの関係を築けるのは稀と言っていいだろう。改めて、自分は恵まれていたとシルファは思う。
 しかし、そこから先はどうだろう。リューネの言う通り始めから悪い関係ではなかっただけに、時間が過ぎてもあまり変化が見られないかもしれない。
 変化と言っても、何が変わらなければならないのかシルファにはわからないが。
「……焦ることはないと思うの」
 シルファはぽつりと声を出した。
「無理に急いで関係を進めようとしなくても、時間はいくらでもあるでしょう? 私と王子はこれから先、嫌と言うほど長く一緒にいるのだから」
 リューネの返事を待つ前に、シルファは自分の言ったことに驚いた。何気なく口にした言葉が、自分の素直な感情だと気がついた。
 このままでいいと思っているわけではない。けれど、無理をして関係を変えることがいいことだとも思わない。
 焦らず、急がず、毎日を大切にして、少しずつ関係を築いていけばいい。時間はいくらでもあるのだから。
「そうですね」
 リューネが短く答えた。腑に落ちたようにも、拍子抜けしたようにもとれる声だった。
「そうですよね。私ったら余計なことを言ってしまいました」
「いいえ。聞いてくれたおかげで私も自分の気持ちがわかったわ」
 シルファはにっこり微笑んだ。リューネは明るく屈託がないので、シルファも素直に自分のことを話すことができる。
「話がそれてしまいましたね。お話の続きをしましょうか」
「ええ……いいえ、その前に一つ」
 シルファは答えかけ、急にあることを思い出した。リューネに頼んでおきたいことがあったのだ。話の途中ではあるが、忘れないうちに伝えてしまおう。
「ギルロードどのにはよくお会いするの?」
 兄の名前を耳にした瞬間、リューネの肩がびくりと跳ねた。
 そんな反応が返ってくるとは思わず、シルファはきょとんとする。
「リューネ?」
「いえ……はい、いいえ」
「どうしたの?」
 リューネの表情を目にしたシルファは、驚かずにはいられなかった。リューネは明らかに怯えていた。兄に会うかどうか尋ねられただけで、なぜそんな顔をしなければならないのだろう。
「すみません、シルファーミア妃」
 リューネは強ばった表情のまま口を開いた。落ち着くように自分に言い聞かせているようだった。こんな様子のリューネは初めて見る。
「兄とは……以前は毎日のように会っていたのですが、最近は間が開きがちです。何かご用がおありでしたか?」
「ええ。お伝えしてほしいことがあるの。次にお会いした時で構わないから」
「何でしょうか」
 まだ怯えた様子のリューネを気にしつつ、シルファは続けた。
「水明宮に渡る時のことでご相談があるの。今は私と王子が交代で渡っているけど、どちらの時もギルロードどのが同行してくださるでしょう。なんだか申し訳ないような気がして」
「……兄はたぶん、シルファーミア妃のためにそうしているんじゃないと思います」
「え?」
 思いがけないことばにシルファは目を見開く。
 リューネは慌てて首を振り、答えた。
「いいえ。わかりました、近いうち必ず兄にお伝えします」
「ええ、お願い」
 シルファはうなずいた後、リューネの目を見て付け加えた。
「リューネ、大丈夫?」
 リューネが再び肩を震わせたのを見て、シルファは少し後悔した。気遣ったつもりだったが逆効果だったのだろうか。
 リューネはしばらく黙り込み、しかしゆっくりと微笑んでくれた。
「はい。大丈夫です」
「そう」
 シルファも倣うように微笑んだ。
 二人はお互いを無言で見つめた後、やがてどちらからともなく会話を再開した。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.