水晶の空 [ 4−1 ]
水晶の空

第四章 神話 1
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 シルファは寝台の中で目を覚ました。遠くから聞いたことのない、しかし不思議と懐かしい音がする。身を起こして耳を澄ませてみて、ようやくその音の正体に気がついた。
 雨の音だ。
「……雨だな」
 隣でセレクが起き上がり、シルファは慌てて目を戻した。
「おはよう」
「おはようございます。すみません、お起こししてしまいました」
「いや、私も雨の音で目が覚めた。久しぶりだな」
 二人はそろって寝台から降り、部屋の窓から露台へと出た。普段使いのフィーラを肩に掛けてきたが、雨音の響く露台はいつもより暖かい。
 シルファはセレクの隣に立ち、雨に包まれた水の都に見入った。
 細い糸のような雨が無数に降りてきて、リュークの街の水路や建物を覆いつくす。水の上に落ちた雨はいくつもの波紋を生み、石の上に落ちた雨は跳ね上がって靄をつくる。首都全体が白い幻影に包まれているようだった。
 雨音は地上の喧噪を消し去り、清めるように、絶え間なく続いている。
「驚きました。不思議な光景ですね」
「そういえばシルファは、セフィードに来てから雨を見るのは初めてか」
「はい。セフィードでは雨は少ないと聞いていました」
「確かに、季節によっては何十日と降らないこともある。水路が水を蓄えているので人の暮らしに支障が出ることはめったにないが」
 シルファは露台の手すりから腕を差し伸べ、雨の中にかざしてみた。剥き出しの手や手首に雨粒が当たって弾ける。エレッサは雨の多い気候だったのでこの感触には馴染みがある。
「冷たくないのか?」
 風変わりな遊びに興じる子どもをたしなめるように、セレクがシルファを見て面白そうに言った。
「冷たいですが、心地よいです。エレセータでもよく雨に降られていたので」
「そうか。あちらでは雨が多いのだったな」
「セフィードよりは。ですが、こんな雨の景色はエレセータでは見られませんでした」
 めったに見ることができないからだろうか。雨に包まれているリュークの光景は、この世のものとも思えないほど厳かである。
 シルファはよく目を凝らし、そして気がついた。王宮から見えるリュークの街には人影がまったくと言っていいほど見あたらない。通りを歩いている人もいない、水路を行く船も動いていない。雨に打たれるのを避けるためだろうか。
 シルファの疑問に気がついたらしく、セレクが隣で口を開いた。
「人が少ないと思ったか?」
「はい」
「セフィードでは、雨が降っている間は働いてはいけないことになっている。雨は天から降りてきた神の遣いだから、彼らが地上にいる間は人間は自分たちの営みを止めて静かに過ごさなければならない」
 シルファは驚いてセレクを振り返った。
「王族もですか?」
「王族もだ。雨のおかげで今日はゆっくりできる」
 セレクは笑った。
 王妃と王女たちが首都を去り、セレクが政務に戻った日から五日ほどしか経っていない。だから、セレクが政務に出ていかないのは久しぶりというほどでもないのだが、シルファは自分の心が弾んでいることに気がついた。
 セレクがシルファと一緒にいてくれる。少なくとも雨がやむまでは二人で静かに過ごすことができる。もしかしたらそれは、婚礼以来はじめてのことではないだろうか。
 二人は露台から部屋の中に戻り、寝室の隣の居間に移った。
「寒いだろう。火を入れさせるか?」
 フィーラを腕に巻きつけるシルファを見て、セレクがそう言ってくれた。
 シルファは首を振った。
「雨のせいでしょうか。いつもより暖かく感じます」
「それなら茶を淹れよう」
 セレクは居間の円卓に歩み寄り、そこにあった茶器を手に取った。雨が降っているのを見て、二人がくつろげるように女官が用意してくれたのだろう。
 シルファはセレクに頼み、茶の淹れ方を教わることにした。以前から覚えたいと思っていたのだ。リューネに聞いても良かったのだが、できればセレクに教えてもらいたかった。今日は時間があるのでちょうどいい。セレクも喜んで教えてくれた。
 二人で淹れた茶を一緒に飲むと、体がちょうどいい具合に温まった。
 それにしても、いくら雨が少ないとはいえ、降るたびに働くのをやめていて支障はないのだろうか。
 シルファがそう疑問を口にすると、セレクは説明してくれた。
 セフィードの人々は、日照りに備えて水を蓄えておくのと同じように、雨に備えて労働を蓄えておく。保存食を作り、暖をとるための薪を割り、商いの話をつけておくという風に。セフィードの雨は三日と続くことも珍しいので、普段から備えていればさほど難しいことでもないという。
 では、王族の務めである結界はどうかというと、雨が降っている間は魔力を使う必要がないそうだ。神の遣いである雨が代わりに地上を守ってくれるという。
「神の御使いというのは、神鳥セフィードのことですか?」
 話の途中から浮かんでいた疑問を、シルファは口にした。
「いや、そうではない。セフィードが地上を去った後、神が代わりに遣わしたのが雨だと言われている」
 セレクはそう説明し、自分の言ったことに驚いたように目を見張った。
「エレセータにも、やはり同じ神話が伝わっているのだな。そうだと聞いてはいたが」
「はい。私も今のお話を聞いて同じことを思いました」
 今は神話となっている神鳥の伝説は、セフィードとエレセータの建国と友好、そしてその決裂を現在まで物語る。
 両国が成って間もない二百年ほど前、神々は王族に結界をつくる魔力を与え、地上から去っていった。その際、二つの国を見守らせるために、自らの力を分け与えた姉弟の神鳥を残していった。
 姉の名はエレセータ、弟の名はセフィード。
 二つの国の名はこの神鳥に由来する。
 建てられたばかりの両国は穏やかな関係を保っており、姉弟もそれを見守りながら仲睦まじく暮らしていた。
 しかし、結界の力の差から瘴気が入り込む恐れが芽生えると、二つの国の住民は互いをひどく憎むようになる。
 悲しんだ神鳥たちはそれぞれの国を見捨て、神々のいる天上へと去っていってしまった。
 エレセータの子どもたちが、物心ついてすぐに教わる物語だ。シルファも乳母から語り聞かせてもらった。同じ物語をセレクが知っていたことで、やはり両国は同じ神話を持っているのだと実感する。
 二つの国の諍いが、シルファが思っている以上に長く、深く続いているのだということも。
「……シルファ? どうした?」
 茶器を手に黙り込んでしまったシルファを心配して、セレクが顔を覗き込んできた。
「ふと思ったのです。私たちはもしかすると、とてつもなく思い上がったことをしているのかもしれないと」
 セレクは目を丸くしたり、顔をしかめたりしなかった。シルファと同じことを考えていたのかもしれない。それも、シルファよりも早くから。
 セフィードとエレセータの間に生まれた溝は、建国の神話の時代まで遡るほど古いものだ。それほどまでに長い間、二国はお互いに背を向けてきたのだ。神の使いである神鳥が嘆き、絶望し、二国を見捨てて地上から去ってしまうほどに。
 シルファがセレクに嫁いだだけで、その溝が完全に埋まるとはとても思えない。
「もともと、この婚姻だけですべてが解決するとは思っていない」
 セレクは言い、シルファの手首のあたりに手をかけた。シルファも茶器を置き、セレクの手の上に自分のそれを重ねる。
「これはただの始まりに過ぎない。それは最初からわかっていた。エレセータに使者を送った時から」
「でも、必要な始まりでした」
 シルファはセレクの目を見て、はっきりと言った。
 セレクが一瞬だけきょとんとし、それからゆっくりと笑みを浮かべた。
「そうだな」
 シルファは答える代わりに、自分も笑みをセレクに返した。
 雨の音が二人を包み込むように続いていた。


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