水晶の空 [ 3−10 ]
水晶の空

第三章 少女 10
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「お姉さま、きっとアクシスにいらしてくださいね。お兄さまとご一緒に」
 シルファは小船に揺られながら、何度目からのシェリーザの言葉を聞いていた。
 王妃と二人の王女が王宮を去っていく日だ。シルファはセレクとともに三人を見送るため、小船に乗って都の果てに向かっている。同じ船にシルファとシェリーザの二人、後続の船にはセレクとアイネリア、そしてレアリスの三人。侍女や護衛を乗せた船にそれぞれ前後を挟まれている。王家の者がそろって水路を渡っていくのを一目見ようと、多くの民が建物の外や窓から顔を覗かせていた。
「ええ。きっと参ります、シェリーザ王女」
「今度お会いした時は、一緒に踊ってくださいね。約束ですよ」
 シェリーザは何度も同じことを言い、シルファを頷かせている。リュークを去らなければならないのがよほど惜しいようだ。シルファもまた、この人なつこい義妹と別れるのが寂しくなっていた。
 シェリーザは都を案内してくれた時と同じように、前向きの席をシルファに譲って自分はその向かいに座っている。だから、後から続くセレクたちの船はシルファには見えない。
 アイネリアからの伝言は、昨夜すべてセレクに話した。セレクはシルファの話の最後まで黙っており、聞き終えてしばらくしてからも『そうか』と呟いただけだった。シルファはセレクの隣に立ち、セレクの手を控えめに握った。そうしなければならないと思ったからだが、思うより先に体が動いていた。
 セレクはシルファの手を握り返し、小さく『ありがとう』と言ってくれた。
 今、アイネリアと同じ船に乗っているセレクは、義母とどんな会話をしているのだろうか。気になったものの振り向くわけにもいかず、また船と船がやや離れているので声を聞くこともできなかった。
 小船はリュークの水路を進み、やがてその終わりまでやってきた。水路の水は細い隙間を経て河へと続いている。ここで王妃と王女たちは船を降り、輿に移ることになっていた。シルファとセレクは乗ってきた小船で王宮へ引き返すので、ここが見送りの最後の場所となる。
 小船から降りて陸地に立つと、シェリーザがシルファに抱きついてきた。
「お姉さま、お元気で」
 シルファも笑って幼い王女の背中を抱いた。
「シェリーザ王女も」
 二人が離れると同時に、もう一方の小船から降りた三人が近づいてきた。アイネリアが先頭、その後ろにセレクと、彼に手を引かれたレアリスが続く。
 アイネリアはシルファの前で立ち止まると、目を見つめて意味ありげに微笑んだ。
「王子から聞いたわ。ありがとう」
 伝言をセレクに伝えたことを言っているのだろう。
 シルファは一瞬だけ、アイネリアの後ろにいるセレクに目を移した。灰色の双眸が細められるのを見て、シルファもほっとして笑みを浮かべた。
「後のこと、頼んだわね」
「はい、王妃」
「今度はあなたたちがアクシスに来てちょうだい」
「ぜひ参ります。王にもよろしくお伝えください。くれぐれも御身を大切にと」
「そうするわ」
 アイネリアは答えると、自分の脇にいたシェリーザと、背後にいたレアリス、二人の娘に交互に目をやった。
「さあ、ここでお別れよ。二人とも、お兄さまとお姉さまにご挨拶なさい」
 アイネリアが言い終えるや否や、シェリーザが振り向いてセレクに飛びついた。セレクは妹を抱きとめて言葉をかけている。それから兄妹は離れ、シェリーザはシルファを振り返ってにっこり笑った。
 レアリスは姉に比べると控えめで、おずおずとセレクに近づいて手を握った。セレクもその手を握り返し、同じ手でレアリスの髪を撫でてやる。別れの言葉は水路を渡ってきた時に交わしたのだろう。二人とも無言だった。
 シルファが二人を見守っていると、不意にレアリスが振り向いた。セレクの側を離れ、小さな歩幅でシルファに近づいてくる。母の言いつけを守って、義理の姉にも挨拶してくれるのだろう。シルファは自分の前にやってきたレアリスに合わせて、身を屈めて目線を低く下げた。
「レアリス王女。お会いできて嬉しかったです」
「わたしもです」
 レアリスは恥ずかしそうに俯いて、シルファと目を合わせなかった。
 シルファは気にしないように努め、微笑んだまま続けた。
「アクシスでもお元気でいらしてくださいね。いつか私からもお会いしに参りますから、その時はたくさんお話しましょう」
「はい、お姉さま」
 レアリスは素直に頷いた。まだ顔を上げず、微笑みも浮かべなかった。シルファもレアリスの頭を撫でたり、背中を抱きしめたりしようとはしなかった。
 言葉が途切れると、レアリスは俯いたままきびすを返し、シルファから離れていった。
 シルファはわずかな寂しさを覚えながら、その背中を見守る。
 急に、レアリスの足が止まった。シルファはもちろん、セレクも、アイネリアも、何事かという顔で目を向ける。全員の視線を浴びる中、レアリスは再び振り返り、駆け寄ってきた。――シルファの腕の中に。
 シルファは急に飛び込んできたレアリスを抱きとめた。何が起こったのかよくわからなかった。
 レアリスはやがてシルファから離れたが、今度はすぐには背を向けなかった。小さな顔を上げ、シルファの目をしっかりと見て、にこりと笑った。
 あまりにも突然だったので、シルファには笑い返す暇もなかった。目を丸くしているうちにレアリスは再び背を向け、今度こそ母と姉の元へ走り去っていった。

「――ご無理をさせてしまったのかもしれません」
 王妃と王女たちの一行が見えなくなると、シルファはぽつりと呟いた。セレクと並んで三人を見送っていたが、そろそろ小船に乗って王宮に帰る頃合だ。
 別れ際にレアリスがしてくれたことについて、シルファはずっと考えていた。
 大好きな兄の妃だから、仲良くしなければならないと思ったのだろう。そうすれば兄も母も、先にシルファに懐いた姉も喜ぶはずだと。シルファ自身が仲良くしていたがっていたことも敏感に感じ取っていたに違いない。本当はまだ慣れていなかっただろうに、可哀想なことをさせてしまった。
「そんなことはないだろう」
 セレクがシルファの隣で、ゆっくりと間を取って続けた。
「レアリスも、シルファとは仲良くしたいと思っていたはずだ。もう少し日数があれば実際にそうなっていただろう」
 シルファはセレクの顔を見上げて微笑んだ。
「またお会いできたら、その時は」
「そうだな」
 二人は小船に乗り、王宮から続く道を引き返した。出てきた時とは違い、今度は同じ船に乗る。セレクはシェリーザと同じく、前向きの席をシルファに譲ってくれた。
「シルファにも妹がいるのだったな」
「はい。フェルアリーナと言います」
 ちょうど妹のことを思い出していたシルファは、セレクが同じことを言い出してくれて嬉しくなった。フェルアリーナはセレクの妹たちより年上だし、二人のどちらにもあまり似ていないが、妹というだけで思い出さずにはいられない。
「シルファが嫁ぐことに決まった時、寂しがっていたのではないか?」
「そうでもありませんでした。妹は読むことが好きなのですが、里帰りの時にセフィードの書物を持ってきてほしいなどと言って。――おそらく、嫁ぐということがどういうことなのかわかっていないのでしょう」
「一緒にエレセータに行くことになったら、多くの書物を持っていこう。フェルアリーナ王女が喜んでくれるといい」
 セレクはシルファの言葉に笑ったりせず、穏やかに微笑んだまま言った。
 表情を変えたのは、シルファのほうだった。
 二度と帰れないと思って後にした、懐かしい祖国。セレクはそのエレセータに共に行き、シルファの妹に会うことを考えている。
「一緒に――エレセータに、行けるのでしょうか」
「しばらくは無理だろうが、こちらのことが落ち着いたら。シルファが私の親きょうだいに会ってくれたように、私もそうするのが当然だろう」
 夫婦なのだから。
 その言葉をセレクは口に出さなかったが、シルファにははっきりと聞こえた。
 セレクがシルファと共にエレセータに赴いてくれる。シルファの両親や姉妹、弟と会い、親しくなろうとしてくれる。実際にその日が来るのはいつなのかわからないが、少なくともセレクは必ずやってくる将来のこととして話している。
「――はい」
 シルファはセレクの目を見て答えた。
「いつか一緒に、エレセータに参りましょう。王子」
 セレクはそれまでと変わらずに微笑んでいた。


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