水晶の空 [ 3−9 ]
水晶の空

第三章 少女 9
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 夜になり、明日には都を去っていく王妃と王女たちのために、南の宮で宴が開かれた。
「お姉さま、一緒に踊りに参りませんか?」
 シェリーザが駆け寄ってきて、椅子に腰を下ろしているシルファに声をかけた。
「私は、踊り方がまだよくわかりませんので」
「教えてさしあげますよ」
「いいえ。私はここで見ていますので、王女は楽しんでいらしてください」
 シルファが微笑むと、シェリーザは名残惜しそうにしつつ頷いた。そのまま走り去って行き、広間の中心で踊りの列に加わる。
 セフィードの宴で行われる舞踏は、男女がそれぞれ列になって向かい合い、お互いの手をとったり回したりした後、隣にずれて相手を替える。特に難しい動きをしているわけではないが、慣れないうちは周囲の速さについていくのが大変そうだ。
 シルファは嫁いできた直後の宴でもこれを見ていたが、参加したことはまだ一度もなかった。セフィードの風習については学んできたつもりだが、言語や生活習慣が優先だったので、こうした遊技にまでは手が回らなかった。そもそも、エレセータの王宮では舞踏とは芸人が披露するもので、王族が自らそれに加わるということがなかったので、自分にそれができるのかあまり自信がない。
 しかし、音楽に合わせて元気に舞うシェリーザを見ていると、シルファの心も弾んできた。
 ふと視線を動かすと、舞踏の列とは反対の位置で、セレクがアイネリアと話しているのが見えた。近くには数人の重臣もいて、会話に参加している。
 厳密には今日まで休養中のセレクだが、義母と妹たちと過ごすために宴には出席している。具合は大丈夫なのかとシルファは密かに心配していたが、ここから見る限り問題はなさそうだった。
 広間には賑やかな音楽が続いている。
 シルファはふと気がついた。
 セレクのもう一人の妹、レアリスはどこにいるのだろう。広間を見回してみても小さな姿は見つからなかった。アイネリアともシェリーザとも一緒にいないとなると、どこかに一人でいるのだろうか。シェリーザに訊いてみようかとも思ったが、都にいられる最後の晩に、踊りを楽しんでいる彼女の邪魔はしたくない。
 少し考えた末、シルファは立ち上がった。
 一人でいると言っても王宮の中なのだし、各所に衛兵がいるのだから危ないことはないだろう。
 しかし、シルファはレアリスともう少し話したかった。明日にはアクシスに帰ってしまい、次はいつ会えるのかわからないのだ。
 広間を出て少し歩くと、シルファは足の痛みを覚えて顔をしかめた。セフィードの踵の高い靴にはだいぶ慣れてきたと思ったが、今日は宴のための正装なので普段とは勝手が違う。重い装飾品やフィーラを身につけて歩くのは楽なことではなかった。
 程なくしてレアリスは見つかった。南の宮から外に面した回廊で、水明宮のほうを向いて立っていた。
 シルファは驚かせないように横から近づき、レアリスが振り向いたところで声をかけた。
「レアリス王女。お一人でどうなさったのですか」
 レアリスは目に戸惑いを浮かべて、シルファを見上げていた。身をすくませ、しかし再び背筋を伸ばす。
「……水明宮が見たかったんです」
 小さな手が指し示す先を、シルファは目で追った。
 夜の水明宮は、暗闇の中に白い光を放っている。
「きれいですね」
 シルファが思ったままに言うと、レアリスはこくりと頷いた。
 二人は回廊に並んで立ち、しばらく水明宮を眺めていた。レアリスが何も言わないので、シルファも何も言わなかった。広間から聞こえてくる音楽はとても遠く、他には何の音も耳に入ってこなかった。
「明日でお帰りになるのですね、王女」
 シルファが再び声をかけると、レアリスは顔を上げた。
「……はい」
「寂しいです。また姉君と一緒にお帰りになってくださいね」
 レアリスは真剣な顔で頷いた。
「……はい」
 シルファは声を立てずに笑う。
 レアリスは打ち解けてくれたとは言い難かったが、少なくともシルファの言葉に返事をしてくれるようになった。今はそれだけで充分だ。
 シルファはそれ以上は何も言わず、レアリスとともに黙って水明宮を見つめていた。
「レアリス」
 急に静寂を破る声がして、シルファとレアリスは同時に振り向いた。
 シルファが来たのと同じ方向から、セレクが歩いて近づいてくる。
「義母上が探していた。広間に戻っておいで」
 レアリスは一瞬シルファを見上げた。しかしシルファの言葉を聞くよりも先に、セレクに頷いてその場から走り去った。
 遠ざかっていく小さな背中を、シルファはセレクと並んで見送った。
「レアリスと話していたのか?」
 レアリスが角を曲がって見えなくなると、セレクはシルファに向き直った。
「はい。明日にはお帰りになるので、少しでもと思って」
「話せたか?」
「はい。ちゃんとお返事してくださるようになりました」
 シルファが事実のまま伝えると、セレクは苦笑した。
「本当に時間がかかってすまない」
「そんな」
 シルファは強く首を振った。
「私、妹君のことは本当に気にしておりません。あのくらいの年の子は人見知りすることが多いですし、私は見慣れない者ですからすぐに打ち解けなくて当然です」
 むしろ、シェリーザがすぐに懐いてくれたのが稀有なことなのだ。
 シルファはそう思い、唐突に気がついた。そういえば、セレクも出会ってすぐにシルファと打ち解けようとしてくれた一人だった。あの時はただ嬉しいとしか思わなかったが、今考えれば驚くべきことでもあったのだ。
 思わず顔を見つめていると、セレクがにこりと笑った。シルファは気まずくなって目をそらしかけ、慌てて留まって自分も微笑む。
「お体は大丈夫ですか?」
「ああ。もうすっかりいい」
 セレクが穏やかに答えてくれたので、シルファはほっとした。
 明日になり王妃と王女を見送ったら、セレクは政務に戻っていく。この数日ほど穏やかに過ごせる時間は少なくなるだろう。今日まではシルファがセレクの寝室に付き添い、眠ったのを確かめてから自分も休んでいたが、明日からはまたセレクが帰ってこないうちに一人で眠るのだろうか。
 シルファは寂しさを覚えると同時に、静かに決意した。アイネリアからの伝言を伝えるなら今しかない。父王がもう政務には戻れないことをセレクに伝え、その場でシルファが支えてやらなければ。
「広間に戻るか」
 シルファの決意とは逆にセレクがそう言い、立っていた場所から歩き出そうとした。
「お待ちくだ――あっ」
 シルファは止めようとして向きを変え、前につんのめった。急に歩こうとしたせいで、靴の中に押し込んだ足がひどく痛んだのだ。
「大丈夫か?」
 セレクが振り向いて支えてくれたおかげで、シルファは床に叩きつけられずに済んだ。両腕に触れる手のあたたかさを意識しながら、姿勢を整える。
「申し訳ありません」
「足に怪我でもしたのか」
「セフィードの靴に慣れていないだけです。今日は衣装もいつもと違うので」
 シルファは精いっぱい微笑んで見せたが、セレクは表情を曇らせた。
「たまにはエレセータの衣装で過ごしてもいいのではないか? 今日のような宴の時は無理だろうが、人前に立つ必要のない日くらいは」
「いいえ。一日も早くこの国の装いに慣れたいのです」
 嫁いできてから何十日も経っているのに、いまだにこの靴で歩き回ると足が痛くなる。体の線が出る衣装には抵抗があるし、夜になるとフィーラだけでは肌寒い。髪をきつく結い上げるので頭が痛くなることもある。セレクが言ってくれたように故郷の装いで過ごすことができれば、いい息抜きになるだろう。
 だが、一度それを自分に許してしまえば、きっと甘えてしまう。楽なほうを選ぶことが多くなり、その分だけセフィードに慣れる日はどんどん遠ざかっていく。
「では、せめて、辛い時はそう言ってくれ」
 自分の足元に目を落としていたシルファは、セレクの声に顔を上げた。
 セレクは今も気遣わしげに眉を寄せ、シルファの目を見つめていた。
「私にしてやれることはそう多くはないが、話を聞くことくらいはできる。この国の風習に疲れたり、故郷が恋しくなったり――セフィードの人間の振る舞いに傷ついたりした時は、そう言ってくれ」
 セレクは少し身を屈め、シルファの顔を覗き込んだ。
「レアリスのことは本当に気にしていないのだろうが、他の者がとった態度は辛かっただろう」
 シルファの頭に甦ったのは、瘴気が入り込んだと聞いて北の宮に駆けつけた時のことだった。
 セフィードの文官たちの、シルファを見る目。結界の亀裂は別の魔力で創られたのではという言葉。一瞬だけ目を合わせてすぐにそらし、表だってはシルファを非難しなかった彼ら。
「シルファが弱いと言っているわけではない。ただ私は――」
「はい」
 急に言葉を加え始めたセレクを遮って、シルファは短く答えた。
「辛かったです」
 あの時、追ってきてくれたセレクには、平気だと答えた。笑顔をつくり、気にしていないと言い張り、自分に構わず戻ってほしいと勧めた。何もかも偽りだった。
 セレクの腕が明らかにためらった後、シルファの左右に伸びてきた。ゆっくりとした動作だったので、逃れようと思えばそうできただろう。だがシルファはそうしなかった。両腕に包み込まれた時もそれを解こうとはせず、黙ってセレクの胸に額を押し当てた。涙は出てこなかった。
 人をうまく頼ることができず、一人で重荷を背負い込んでいたのは、セレクだけではなかった。嫁いできて間もないというのに完璧な妃のような顔をして、いたわってくれるセレクに弱音を吐くことさえしなかった。それが大きな間違いだったのだ。
 盟友なら、どちらがどちらを頼ってもいいし、守ってもいい。
 セレクは無言のままシルファを抱きしめ、背を撫で続けてくれた。シルファはその腕の中で目を閉じた。
 やがて、どちらからともなく二人は離れ、目を合わせて同時にそらした。決して気まずいそらし方ではなかった。
「広間に戻って座ろう。歩けるか?」
 セレクがシルファの足を気遣い、手を取って導こうとする。
「お待ちください」
 シルファはその手を握り返し、その場にセレクを引きとめた。セレクがシルファの顔を見たので、再び二人の目が合った。
 今度は決して目をそらさず、大きく息を吸い込む。
「お話ししなければならないことがあるのです」
 シルファはセレクの手を握ったまま、王妃の伝言をセレクに話し始めた。


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