水晶の空 [ 3−6 ]
水晶の空

第三章 少女 6
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 船頭が櫓を動かすたびに速度が上がり、左右の景色が流れていく。
 どこまでも続く白い石造りの建物。今日は天気がいいので、青い空を背景にリュークの街並みの白がよく映える。小舟が浮かんでいる水路には、降り注ぐ陽射しが反射して輝いている。
「綺麗ですね」
 シルファのつぶやきに、景色を見ていたシェリーザが振り向いた。
 二人は同じ船で前後に向かいあって座っている。シェリーザが前部、シルファが後部だ。
「お姉さま、王宮からお出になったのは初めて?」
「いいえ、二度目です。でも、こんなにゆっくりと見ることはできなかったから」
 以前リューネが案内してくれた時は、結界とセレクのことが心配で、心から楽しむことができなかった。それより前に輿入れしてきた時にもこの景色を見ているはずだが、婚礼を前に緊張していたので、やはり街並みの美しさに見とれている余裕はなかった。
 今は穏やかな気持ちで、この都の隅々に目をやることができる。
「どの建物もきちんと同じ幅なのですね。高さもみんな同じ」
「王宮と同じでしょう? 街をつくる時にしっかり測量をして、水路の広さと建物の大きさと決めたんだそうですよ」
 確かに、この街はどこもかしこもまっすぐで規則正しい。建物の角も正しく直角で、水路の位置も一定の距離ごとに引かれている。建物はほとんどが二階までで、水面のように平たい屋根が続いている。
 草原の中に無造作に塔を置き、空を目指すように高く建てていたエレッサ――エレセータの首都とはまるで違う。
 以前なら祖国を懐かしんで寂しくなるところだが、今は純粋にその違いを楽しむことができた。
「エレセータのことも教えてください。王宮がすごく高いところにあるのでしょう?」
 シェリーザが前かがみになって顔を寄せてくる。
 後ろ向きに座って船に揺られて、気分が悪くならないのかと思ったが、この都で育ったシェリーザは慣れているらしい。前を向いて座れる席をシルファに譲ってくれた。
「そうですね。エレセータの建物は塔が基本なので。そのぶん幅はここのより狭いですよ」
「どのくらい高いのですか。セフィードの何倍くらい?」
 シルファはリュークの街の屋根を見て、記憶にあるエレッサの塔を思い浮かべた。
「五倍……くらいでしょうか」
「そんなに! いいですね、登ってみたい!」
 無邪気に喜ぶシェリーザを見て、シルファは思わず微笑んだ。
 エレセータで育ったシルファにとっては、高いところで過ごすことは生活の一部として馴染んでいる。しかしセフィード育ちのシェリーザには、塔に登るなどということは未知の経験なのだ。
「高いところってどんな感じですか? 怖くないのですか?」
「私たちは慣れているので」
「遠くまでよく見えるのですか?」
「見えますよ」
 わあ、とシェリーザは声を上げ、頬を紅潮させた。本当に明るい少女だ。
 シェリーザをエレッサに連れていき、シルファが住んでいた塔に登らせたら、どんなに喜んでくれるだろう。
 シルファはそう思うと同時に、胸が少し痛むのを感じた。シェリーザを連れて、シルファがエレセータに帰る。そんな日が訪れることがこの先あるのだろうか。
「お姉さま、今度アクシスにもいらしてください。お兄さまと一緒に」
 シェリーザの明るい声が続き、シルファは慌てて我に返った。シェリーザがせっかくシルファを楽しませようとしてくれているのだ。一人で暗い気持ちに浸っていてはいけない。
「そうですね。王にも……王子や王女の父君にもご挨拶しなければ」
「お父さまもお姉さまに会いたがっていますよ」
 セレクやシェリーザの父であるセフィードの王が病床についてから一年ほど経っている。まだしばらく王宮に戻れる見込みがないのなら、シルファたちが見舞いも兼ねて挨拶に向かうべきだろう。セレクが王宮を空けられない限り難しいかもしれないが。
「王のご容態はどうなのですか? 王女とお話なさることはあるのですか?」
 シルファはためらいがちに口を開いた。九歳の少女に訊くことではなかったが、シェリーザはにこりと笑って答えてくれた。
「毎日お話していますよ。少しずつ良くなっているとお母さまや侍医たちは言っていますし、わたしもそう思います」
 シルファはその言葉にほっとした。
 王が回復して王宮に戻ることができれば、セレクも今ほど無理をする必要がなくなるだろう。政務を一人で執らなくてもいいし、結界を張るための魔力も一人で使い続けなくてもいい。
「王が早く良くなられて、みなさまでここにお戻りになれるといいですね」
「ほんとうに!」
 シェリーザは力を込めて答えると、胸元に手を入れて服の下から何か取り出した。首飾りのようだ。細い革紐に何か石を結わえ付けてある。
 シェリーザはその石を手のひらに載せると、シルファの前に差し出して見せた。
「お守りなんです。お父さまが早く良くなりますようにと」
 その石はシェリーザの指先ほどの大きさの水晶だった。形はいびつだが、よく磨かれており丸みを帯びて輝いている。
 シェリーザの手の上では肌の色を透かしていたが、手を離すと空気に触れて透明になった。空や水の色を映しているようにも見える。
 何かに似ている。シルファはそう考えると、すぐに答えにたどり着いた。水明宮だ。
「水晶はセフィードでは最も尊ばれる石なんです。願いを込めて持ち歩くと、その願いを叶えてくれると言われています」
 シルファも聞いたことがある。水のような色を持つ水晶はセフィードでは魔力を持つ石と呼ばれ、高貴さの象徴でもあるので王族が正装の時によく身につける。シルファも婚礼の時、水晶のついた首飾りや腕輪をつけた。エレセータでは貴石を身に飾ることがほとんどないので、なかなか馴染めなかったが。
 シェリーザが見せてくれた水晶は、結界の一部を切り取ってきたかのようで、本当に魔力がありそうに見えた。願いを叶えてくれるというのは本当かもしれない。
「叶うといいですね」
 シルファが心から言うと、シェリーザはまた笑い、水晶を胸元にしまった。
「お父さまのご病気が治ったら、わたしもリュークに戻ってこられます。わたしも大きくなったら魔力を使えますから、お兄さまを助けて差し上げられると思うんです」
 シルファは思わず微笑んだ。家族思いの優しい子だ。セレクがあれほど可愛がっているのも無理はない。
 ふと、王宮に残してきた、セレクのもう一人の妹のことを思い出した。
 レアリスはセレクの側に残ったが、久しぶりのリュークを姉とともに見たくはなかったのだろうか。兄と一緒にいるほうがいいのだろうとシェリーザは言ったが、レアリス自身は一度も口を開かなかった。
 水に触れた時の波紋のように、シルファの胸に不安が広がっていく。
 レアリスはおそらく、セフィードの者ではないシルファが怖いのだろう。もともと内気な性格ではあるのだろうが、それに加えて見慣れない異国の人間に怯えているのだ。
「お姉さま、どうなさったの?」
 前に座ったシェリーザが不思議そうに声をかける。
 また沈んでしまっていたことに気づき、シルファは慌てて微笑んだ。
「なんでもありません。――シェリーザ王女、アクシスでのことをもっと話してくれますか?」

 半日ほどリュークの街を見物して、船上でたくさん話をして、シルファとシェリーザは昼前に王宮に戻った。シルファが案内してもらった礼を言うと、シェリーザも笑って楽しかったと言ってくれた。
 二人は東の宮で船を下りると、まっすぐセレクのいる寝室に向かった。
 しかし、回廊を歩いている途中で足を止めた。前方から背の高い女性が近づいてくるのが見えたからだ。女官を何人か従えて歩いてきたのは、王妃アイネリアだった。
「シルファーミア妃、お帰りなさいませ。リュークの街はお楽しみになりましたか?」
 立ち止まって礼をするシルファに、アイネリアは明るく声をかけた。
「はい。シェリーザ王女に案内していただきました」
「それは良かった。少しお時間をいただけますか? あなたとお話がしたいのです」
「もちろんです、王妃」
 シルファは即座に答えたが、内心では戸惑っていた。セレクの義母が話をしたいと言うなら、その内容は決まっている。エレセータから輿入れしてきたシルファにいろいろと訊ねることがあるのだ。
「シェリーザ、あなたはお兄さまのところに行っていなさい」
 アイネリアは娘だけを促し、さりげなくその場から外させた。シェリーザは素直にはい、と答え、二人に背を向けて歩き出した。
 その小さな背中が見えなくなると、アイネリアはシルファの顔を見て、にっこり微笑んだ。
「静かな場所でお話しましょう。私の居間にいらしていただけますか」


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