水晶の空 [ 3−5 ]
水晶の空

第三章 少女 5
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 王妃たちが王宮やってきた翌朝、セレクが寝台で本を読んでいると、二人の妹がシルファと共に現れた。シェリーザはシルファの腕を引き、レアリスは姉の隣を無言で歩いてくる。
「おはようございます、お兄さま」
「おはよう、シェリーザ。朝早くにどうしたんだ」
「三人で出かけるのでご挨拶に来ました。お姉さまにリュークを案内して差し上げるんですよ」
 セレクはシェリーザからシルファに目を移した。
 外出着に身を包んだシルファは、セレクの視線に気がつくと自然と微笑んだ。本当にこの数日はよく笑ってくれるようになった。それに、セレクの妹たちともいつの間にか仲良くなっていたらしい。
「お兄さま、うらやましいでしょう」
 シェリーザがなぜか勝ち誇ったように胸を張った。
 セレクは妹に目を戻し、素直にうなずいた。
「ものすごくうらやましい」
「だめですよ。おとなしく寝ていてくださいね」
 シェリーザの言葉に、隣で聞いていたシルファが吹き出した。再び顔を上げたセレクと目が合い、慌てて居住まいを正す。
「行って参ります、王子」
「ああ。楽しんで来てくれ」
 セレクが穏やかな笑みを見せると、シルファも改めてにっこりと笑ってくれた。
 シェリーザがきびすを返し、シルファを促して部屋から出ようとする。
 その時、傍らにいたレアリスが急に動き出し、姉とは反対の方向に駆けていった。寝台の上、セレクのすぐ側へ。
「レアリス、どうした?」
 セレクは声をかけてみたが、レアリスは首を振るばかりだった。寝台の端に座ったまま動こうともしない。
「レアリスはお兄さまと一緒にいるほうがいいのね」
 シェリーザが妹の意図を察してそう声をかける。
 レアリスが顔を上げ、シェリーザとシルファのほうを向いた。シルファと目が合うが、一瞬怯えたような表情を見せて、また俯いてしまった。
「レアリス、私はいいから一緒に行っておいで」
 セレクがそう声をかけても、レアリスは首を横に振り続けた。
「じゃあ、レアリスはここで待っていてね。お姉さま、参りましょう」
 シェリーザが再びシルファの腕を引く。
 シルファは気がかりそうにレアリスのことを振り返りながら、やがてセレクの寝室から出ていった。

 二人の姉が部屋から姿を消しても、レアリスはまだ顔を上げなかった。セレクの寝台の端に上ったまま、セレクとも口を利こうとしない。
「レアリス」
 心配になってきたセレクは、末の妹に声をかけた。
「本当に、シェリーザたちと行かなくて良かったのか?」
 レアリスは小さな頭でうなずいた。
 セレクの記憶にあるレアリスは姉のシェリーザのことが大好きで、シェリーザが行くところならどこへでもついて行きたがった。そのレアリスが、こうも頑なに残りたがるのは珍しいことだ。
 シェリーザの言ったとおり、レアリスはセレクと一緒にいたいと思ってくれたのだろうか。それとも、と考えるうちに、セレクの中にある懸念が広がる。
「レアリス」
 セレクは気を取り直して、再び妹の名を呼んだ。
 理由が何であれ、こうして妹と過ごせるのは嬉しいことだ。
「レアリス、一緒に茶を飲むか?」
 セレクの言葉にレアリスはようやく顔を上げた。ほんの少し赤みが差した顔で、こくりとうなずく。
 セレクもつられて笑顔になると、寝台から下りてレアリスを抱き上げた。
「王子、いけません」
 部屋の隅に控えていた侍従が、休養中のセレクの身を気遣って声をかける。
「このくらい心配ない」
「ですが」
「いいから。それより、女官に言って茶器一式を持ってこさせてくれ。それから蜂蜜と、何か茶請けになる甘いものを」
 セレクは妹を抱いたまま、隣にある居間へと歩いていった。
 侍従が心配したように体に響くようなことはなかったが、レアリスの身は前にこうした時よりも重くなっていた。次に会う時にはこうもたやすく抱き上げられなくなっているかもしれない。
 セレクたちの父王が倒れた時、レアリスはたったの五つだった。王妃と王女たちが静養の地に付き添う一方で、セレク一人だけが王宮に残った。つまり、レアリスが物心ついてから、兄妹として過ごせたのはほんのわずかな時間だ。レアリスがセレクのことを忘れてしまったとしてもおかしくない。しかし、レアリスは一年も会っていない兄のことを覚えていてくれた。
 円卓の側でレアリスを椅子に座らせると、セレクはその向かいに腰を下ろした。程なくして女官が茶器を運んできたので、セレクは妹のために丁寧に茶を淹れてやった。
「まだ熱いから、冷めてから飲むんだぞ」
 レアリスの前に茶器を置きながら、セレクは言った。
 レアリスはその言葉に従い、湯気を立てる茶器にすぐには触れようとしない。忠実な妹の態度を見て、セレクは思わず微笑んだ。
 皿に盛った茶請けを差し出すと、レアリスはその一つをおそるおそるつまんだ。穀物に蜂蜜を練り込んで焼いた簡単なもので、セフィードではどこの子どもも同じようなものを食べている。レアリスはその端をかじると、嬉しそうに無言で噛みしめた。
「アクシスでは毎日どんなことをしているんだ?」
 レアリスが茶を飲み込むのを待って、セレクは訊ねてみた。
 レアリスは茶器を口元に持ったまま、小さな口を開いた。
「シェリーザお姉さまと一緒にお勉強をしてます」
「そうか。どんなことを学んでいる?」
「読み書きと、音楽と、ものの測り方です」
「うまくできるようになったか?」
「たぶん。わからないところは、シェリーザお姉さまが教えてくださるので」
「王宮にいる間はシルファにもいろいろ教わるといい。姉上が二人になったのだから」
 セレクがさりげなくそう言うと、レアリスは口をつぐんでしまった。茶器を傾ける仕草も止まっている。
 セレクは苦笑した。レアリスがここに残りたがった時から、もしかしたらと思っていたのだ。
「レアリス。シルファが怖いか?」
 妹はびくりと肩を震わせた。俯いたまま顔を上げず、セレクと目をあわせようとしなかった。
 レアリスはもともと内気で、人見知りをしがちな子どもだった。両親と兄姉、馴染みの女官以外にはめったに打ち解けることがない。
 加えて、シルファはエレセータの出身だ。髪の色も瞳の色も、セフィード語の発音も、動いている時の雰囲気も、レアリスが見慣れている誰とも似ていない。昨日初めて顔を合わせたばかりでは、怖いと思うのも無理のないことだった。
 セレクは腕を伸ばし、妹の小さな手を握った。
「難しいかもしれないが、できれば仲良くしてほしい。あの方は私の……」
 セレクはそこで言葉を止めた。
 私の妃だ、と言おうとして、急にその言葉が出てこなくなった。
「私の……何だろうな」
 セレクは曖昧に笑い、妹の手を撫でた。レアリスは不思議そうに首を傾げていた。
 結局のところ、セレク自身がよくわかっていないのだ。シルファがセレクにとってどういう存在なのか。
 シルファはセレクが娶った妻であり、セフィードの未来の王妃だ。それは間違いない。だが、胸を張ってその地位を名乗れるほど、シルファはセフィードに馴染んでいない。セレクの配慮が至らなかったせいだ。
 そんな心もとない立場でありながら、シルファはセレクが倒れた時、できる限りのことをしてくれた。誰の助けもなしに水明宮に渡り、風の魔力で結界を作ってくれた。セフィードを守るためというより、おそらくはセレクを安心させるために。
 セレクはまだ、シルファに伝えていない。
 倒れた夜の遅くに再び目覚めた時、シルファがそこにいてくれて嬉しかったこと。手を握られただけで自分でも信じられないほどほっとして、その後は嘘のように穏やかに眠れたこと。
 なりふり構わず抱きしめて拒絶された時、セレクはしばらく動き出せないほど打ちのめされた。帰ってこなくても構わないと言われた時は、あまりの頑なさに苛立ち、その気性を憎みかけた。
 しかし、シルファはその手で水の都を守り、その手で倒れたセレクを癒してくれた。
 どんなに感謝しているか、セレクはまだシルファに言えずにいる。なぜ言えないのか自分でもよくわからない。
 こんな中途半端な気持ちのままで、妹にシルファと仲良くしてほしいなどとよく言えたものだ。
 セレクが自分に苦笑していると、急に何かが指を強くつかむのを感じた。
 見ると、レアリスがセレクの手を握り返し、セレクの顔を見つめていた。不思議そうに、どこか心配そうに。
 セレクは妹と目をあわせ、困った笑みを浮かべることしかできなかった。


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