水晶の空 [ 3−4 ]
水晶の空

第三章 少女 4
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 侍女が茶の準備を進めるのを、セレクは無言で見つめていた。さすがにこの時は、自分がするとは言い出せなかった。机を挟んで向こうの椅子には、久しぶりに顔を合わせた義母がやはり無言で座っているからだ。
 アイネリアは座るように促したきり口を開かず、侍女が手を動かしているのを黙って見つめていた。セレクもそれに倣うしかなかった。
 二つの椀から湯気が立ち、侍女が挨拶して去っていく。扉が閉まり、部屋には二人の他には誰もいなくなった。
「では始めましょうか」
 アイネリアがすぐに口を開いたが、セレクはうつむくでもうなずくでもなく、中途半端に首を傾けた。
「……義母上、私はこの秋で十九になったのですが」
「それが何ですか。そういうことは、口うるさく言われる理由がなくなってから仰いなさい」
 セレクは真顔で首の位置を戻した。どうやら年齢を盾に逃れることはできないらしい。観念して、潔く叱られることに決めた。
「詳しいことは迎えのお使者から聞いております。何日も続けて東の宮にお帰りにならないばかりか、少しも休まれない日もあったとか。その状態で、以前より増して魔力をお使いになったとか。本当ですか」
「……はい」
「王宮を離れる時、無理はなさらないようにとあれほど申したのに。私の話の何を聞いていらしたのですか」
「申し訳ありません」
「倒れるまで休もうとなさらないなんて、考えなしにもほどがあります。そういうのを自己管理ができていないと言うのです」
「その通りです」
 アイネリアは一度言葉を切り、視線を落とした。用意された椀を手に取り、またセレクを見る。
「王子もどうぞ。冷めてしまいますゆえ」
「はい」
 セレクは言葉に従い、自分も椀を手にした。しかし口に運ぶのはためらい、上目遣いで義母を見た。アイネリアは穏やかに椀を傾けている。
「もう終わりですか?」
 半日は延々と諭され続けることを覚悟していたのだ。まさかそれはないだろうと思っていたが、思い切って聞いてみた。
「ええ」
 予想外の答えに、セレクは言葉を失った。
「つまらないので、今日はこのくらいにいたします」
「はい?」
「何を申し上げても、王子はもうわかっているようなお返事しかなさらないんですもの」
 言われた意味が飲み込めず、手元の椀の中を見つめる。
 そういえば、今日はアイネリアに何を言われても大してこたえない。諭されるたびに今更という気がしていた。
 しばし考え込んでから、セレクは思い当たった。同じようなことをすでに言われたのだ。それも、倒れたその夜に。
 意識が戻ったばかりのセレクを説き伏せたのは、エレセータから嫁いできた王女だった。
「残念です。久しぶりなので張り切っておりましたのに」
 アイネリアは本当につまらなさそうに椀を置いた。
「よく似たことをすでに言われたのです」
 セレクが言うと、アイネリアはすぐ顔を上げた。
「お妃に?」
「――なぜおわかりになるのですか?」
「本来なら私ではなくお妃が申し上げるべきことばかりです。そうでしたか、あの姫君が」
 アイネリアは一人で何度もうなずき、自分の言ったことを確かめているようだった。
「それで、お妃とはいかがです」
「いかがと言うと……」
「仲良くしていらっしゃいますか?」
 セレクは返事をせず、黙り込んでしまった。
 今のアイネリアの質問は、かなり難しい。肯定しても否定しても偽りになってしまう。シルファとはそれなりに仲良くしているつもりだが、何一つ諍いがないとは言い切れないからだ。
「何も一言でお答えになる必要はございません」
 アイネリアがたしなめるように言い、セレクは顔を上げた。
「先ほどのご様子を拝見しても、少なくとも険悪な雰囲気ではありませんでしたから」
「そうですか?」
「敵国の姫と言えど、お互いに私怨があるわけではございませんものね」
 アイネリアは再び椀を手にして続けた。
「では質問を変えましょう。お妃はどのようなお方でいらっしゃいますか?」
「心優しい姫君です。それは相違ございません」
 今度は迷わずに即答できた。
「気立てが良く、正直で、裏表を使い分けるようなことは決してございません。セフィードのこともよく学んで、早く我が国に根を下ろせるよう努めております」
「では、未来の王妃として不足はないと、王子はお考えなのですね」
「はい」
「瘴気が入り込んだ時、お妃が疑われたとお聞きしたのですが」
 セレクは再び押し黙った。
 すらすらと流れていた言葉が一気に沈んでいく。顔色が変わったのが自分でもわかる。
「――しかし、シルファはその後――」
「ご自分から水明宮に渡り、結界を創ってくださったのでしょう」
 アイネリアは続けた。
「エレセータは古くからの敵国であり、シルファーミア妃はその王家の姫君。その方を迎え入れたとなれば、我々は敵の刃を内に抱え込んだということ。王子は、どうお考えですか?」
 セレクは視線を落としたまま、アイネリアの言葉を何度も噛みしめた。倒れた日から五日間、繰り返し考えてきたことだった。
 シルファは自ら魔力を使い、セフィードを守るための結界を創ってくれた。おそらく周りには、反対する者もいただろう。疑いを深める者もいたかも知れない。魔力が使えるかどうかも不安だったはずだ。しかし、シルファは水明宮へ向かった。
「――できることなら、信じたいと思っております」
 それに、結界が成功した後。再び意識を手放したセレクの側には、シルファが絶えず付いていたという。おぼろにではあるが、セレクも覚えていた。
 微かに目を開けた時、すぐ側でシルファが見つめていた。結界のことを告げ、休むように静かに諭した。そして手を握り、微笑んでくれた。
「いずれにしろ、私は王子のお考えに従いますゆえ」
 セレクは驚いて顔を上げた。
「王子のお目に適った姫君ならば、私は喜んでこの位を譲ることができるのです」
「私は、シルファをこの目で選んだわけでは」
「それはご婚礼前のお話でしょう。お互いを知る時間は、これからも十分にございます。本当に、嫌というほど。そうして、王子がシルファーミア姫を王妃にと仰るならば、私から異を唱えるつもりはございません。ただ……」
 アイネリアの声が急に落ちた。
「このご婚儀は、本当に今に相応しいものだったのですか? ただでさえご苦労の耐えぬこの時に、更なる危険を背負い込む必要があったのでしょうか」
 アイネリアはゆっくりと、言葉を選ぶように慎重に問いかけた。
 セレクはすぐには答えなかった。おそらく来るだろうと思っていた疑問だった。もしかしたら、アイネリアが本当に話したかったのはこのことだったのかも知れない。
「――ギルロードにも、よく似たことを言われました」
 セレクはやはり慎重に答えた。
「ですが父上がお倒れになり、妃をと急かす者がにわかに増えました。早く決めなければ、望まぬ相手をあてがわれることもあったかと」
「我が王家がエレセータと婚姻を結ぶことなら、王子ご自身である必要はないでしょう。あと五、六年お待ちになって、シェリーザをあちらに送るという術もございます」
 淡々と娘の名を出した王妃に、セレクは言葉を失った。
「義母上、今のはあまりにも……」
「例えばの話です」
 アイネリアは落ち着いて受け流し、居住まいを正した。
「とにかく、お迎えしてしまったものはもはや返せません。仲睦まじく、大切にお守りするのはご立派です。ですがそれも、ご無理のない範囲でなさいませ」
 結局、話はそこに戻るらしい。セレクは心の中で苦笑した。
「王子の責任感の強さはよく存じておりますが、どこまで実行にお移しになれるかは別の話です。どれほど有能な者であれ、やりたいこととやれることとが一致しているのはごく稀です」
「――厳しいことを」
「国に王宮、父君に妹君に、臣下の方々。そしてお妃と、王子には守るものが数多におありです。それらすべてを一度に抱え込もうとなさるのは危ういこと。無理が生じて、結果的に何一つ守れなくなってしまうこともございます」
 思わず息が止まった。
 アイネリアが話しているのは、今のセレクの状況そのものだった。倒れて休養を命じられたせいで、東の宮から一歩も出ることができない。水明宮に渡って結界を創ることも、北の宮で政務に取りかかることも叶わない。
「せっかくご休養なさっているのです。もう一度、これからのことをよくお考えになってはいかがです」
 アイネリアは続けた。
「けれど、あまり深く悩まれすぎることはございませぬよう。ゆっくりお休みになることが第一です」
「もうすっかり回復したのですが……」
「それでも休養中は休養中です。王子が政務にお戻りになるまで、私たちも王宮に残りますゆえ」
 アイネリアは立ち上がり、空になった椀を隅に寄せた。
「さて。久しぶりに東の宮でくつろがせていただきます」
「――義母上」
 その場を離れかけたアイネリアを、セレクは声で引き止めた。
 アイネリアは足を止め、振り返る。セレクは自分も立ち上がり、先を続けた。
「父上のご様子は。ご病気のほどはいかがですか」
 アイネリアは一瞬凍り付き、そのまま顔つきを険しくした。
「伝達の者に言付けた通りです。一進一退。大きな悪化はお見受けしませんが――ご回復の兆しも」
 セレクは肩の力を抜き、前にあった机に手をついた。
「そうですか」
「お妃にも申しましたが、一度お二人でアクシスへいらしてくださいませ」
 アイネリアは目を細めて微笑んだ。十と少ししか歳の変わらない、姉のような義母は、数ヶ月見ていない間にやつれたようだった。態度には決して出さないが、表情や仕草の端々に苦労の影が小さく覗く。
 セレクがうなずくと、アイネリアは満足そうにうなずき、その場を後にした。
 扉が閉まるのを確かめてから、セレクは再び椅子に腰を下ろした。アイネリアが下がらせたので、部屋には侍従も侍女も一人もいない。
 背もたれに身を任せると、急に全身が重くなった気がした。完全に回復したつもりでいたが、まだ疲れの芯が残っているのかもしれない。休養は今日を含めてまだ五日ある。それが終わるまでには本調子を取り戻さなければ。
 力を抜いて目を閉じながら、アイネリアに言われたことを頭の中で繰り返した。
 時間を使って考えごとをするのは、久しぶりだった。


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