水晶の空 [ 3−3 ]
水晶の空

第三章 少女 3
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 西の宮には何度か来たことがあるが、おそらくその回数は四宮の中で一番少ない。
 セフィードの富と財産を司る、王宮の心の臓。水明宮に次いできれいだとリューネが評した水時計もここにある。
 王宮の門は四宮それぞれに等しく設けられており、水路を巡って辿り着いた者は、もっとも近いところから中に入る。王妃と二人の王女は、都より西南に位置するアクシスからやってくるため、この西の宮から王宮に入ることになっていた。
 柔らかな日ざしを受けて輝く水路。そのはるか遠くに、軽く揺れる小さな船が現れた。
 シルファは深く息を吸い込んで止める。
 西の宮の入り口に多くの文官や兵士が並ぶ中、シルファはその最前列の中央に立っていた。休養中のセレクは東の宮から出られないので、現在の王宮の主はシルファということになっているのだ。後ろに控える者たちも、これからやってくる王妃もおそらくそう思っている。
 隣にいるギルロードだけが、微かに震えているシルファに気付いたようだった。
「シルファーミア妃、落ち着かれますように」
「は、はい……」
 小声で言葉を交わしているうちにも、船は近付いてくる。
 始めは小さく見えたが、近くに来てみるとさほどでもない普通の大きさだった。ただ、飾り気が少ないのでやや小さいように感じるのだろう。王族が、それも王妃と王女が使うにしては質素な船だった。
 その船が西の宮の前まで滑り込み、背の高い女性の姿が見えてくるまで、シルファは息が止まりそうなほど身を硬くしていた。
 船から降り立ったのを見て、これが王妃だとすぐにわかった。装いはシルファと同じようなセフィードの正装で、華美な装飾品はほとんど身に付けていない。しかし豊かな身の丈と、まっすぐ前を見据える迷いのない立ち姿で、青い衣装は恐ろしいほど映える。シルファにはこんな真似はとてもできない。
 金褐色の髪はこなれた風に結い上げられ、はっきりした目鼻立ちに華を添えている。その中でもひときわ美しい二重の双眸が、シルファをとらえると同時に細められた。
「貴女が、エレセータからいらしたお妃ですね」
 シルファは緊張から目を覚まし、慌てて頭を下げた。
「初めてお目にかかります。シルファーミアにございます」
「こちらこそはじめまして。セフィード王妃アイネリアです」
 王妃はにこりと笑顔になった。ややさばけた口調と、耳あたりの良い低めの声が、シルファの緊張を解いてくれた。
 アイネリアからやや遅れて、背丈の違う二人の少女が船から降り、シルファの前に並んだ。大きいほうははっきりと目を開いて、小さいほうは伏し目がちにシルファを見上げている。
「王子の妹君たちです。シェリーザ、レアリス。お妃さまにご挨拶を」
 アイネリアは娘たちの肩に手をやり、二人を前に立たせた。
 シルファは表情を和らげてから、少女たちの目線に合うよう軽く膝を曲げた。
「第一王女シェリーザにございます。お見知りおきを、お妃さま」
 背の高いほうの少女がはきはきと明るく述べた。アイネリアの幼少期を思わせるような、利発で愛らしい少女だ。
「こちらこそ」
 シルファは微笑み、隣の少女に視線を移した。
 小さな王女は姉の腕にしがみついて、その後ろからシルファを覗き見ていた。シルファはやはり微笑んだが、相手は表情を変えようとしない。何も言わずに見つめてくる瞳だけが、シルファを静かにとらえていた。こちらの王女のほうが顔だちが少しセレクに似ている。
「妹はレアリスです」
 黙り込んだ末の王女に代わって、シェリーザが口を開く。レアリスはやっと顔を出し、小さく頭を下げた。
「はじめまして、レアリス王女」
 シルファが改めて微笑むと、レアリスは驚いたように身を強ばらせ、再び姉の後ろに隠れてしまった。
「ご婚礼に出席できず、申し訳ないことをしましたね」
 レアリスを見つめていたシルファは、王妃の声に慌てて視線を戻した。
「いいえ。こちらこそ、ご挨拶にも伺わずご無礼をいたしました」
「アクシスは遠いんですものね。お暇があれば、王子とお二人でいらしてくださいな」
 アイネリアは明るく笑い、シルファもつられて笑った。
「ギルロードも変わりないようね。王が長く宮を空けられて、何かと大変でしょう」
「いいえ。まことにご苦労なさっているのは王子のほうです」
「そのようね」
 アイネリアは途端に笑みを引き、眉間に皺を寄せた。
 シルファはギルロードとセレクが話していたことを思い出した。そして、アイネリアが次に口にするはずの言葉を考えた。
 予想は外れず、王妃はしっかりと声に出した。
「さあ、王子のところへ連れていって」

 『ここ数日で一年分は眠』り、残りの休暇を持て余していたセレクは、王妃が到着する日も東の宮に閉じ込められていた。本人は出迎えに行けると主張したが、ギルロードが断じて許さなかった。
 シルファたちが部屋に入ると、セレクは正装に身を包み、寝台ではなく長椅子に座っていた。来訪に顔を上げ、すぐに立ち上がって姿勢を伸ばした。
「お兄さま、お久しぶりです!」
 シェリーザが真っ先に飛び出し、セレクに腕を伸ばした。セレクは満面の笑みになり、妹を抱きとめた。
「おかえり、シェリーザ」
 金褐色の髪を撫でた後、少し離れて立ちすくんでいた、もう一人の妹に目を移す。
「レアリスも元気にしていたか?」
 末の王女は口を開かずに、小さくうなずいただけだった。しかしセレクに手招きされると、弾かれたように走り寄って抱きついた。
「ご無沙汰しております、義母上」
 妹たちから顔を上げて、セレクはようやく王妃に目を向けた。
 アイネリアは先ほどシルファにそうしたように、明るく笑った。
「こちらこそ。遅くなりましたが、ご婚儀おめでとう存じます」
 言い終えると、笑顔のままでセレクに歩み寄り、王女たちを引きはがした。
「さあ、シェリーザ、レアリス。久しぶりに自分のお部屋に入りなさい」
「ここにいてはいけないのですか?」
「お兄さまとお母さまとでお話がありますから。後で遊んでいただきましょうね」
「はあい。じゃあお兄さま、お話が終わったら呼んでくださいね」
 シェリーザは残念そうにしながらも、素直にセレクから離れた。レアリスも無言でそれに続き、数人の侍女たちが従った。
 セレクは二人が部屋を出るまで、微笑を浮かべて手を振っていた。
 扉が閉まると同時に手は止まり、ゆっくりと下ろされる。
「では王子。いろいろとお話がございますが、よろしいかしら?」
「はい……」
 アイネリアとセレクは、お互いに微笑んでうなずき合った。セレクのほうは微笑が引きつっているように見えなくもなかったが、アイネリアは構わず侍女に茶の準備を命じた。
「では、私もこれで失礼いたします」
 シルファが二人に言うと、アイネリアは微笑んだまま振り向いた。
「お出迎えありがとう。しばらくこちらにお邪魔しますけど、どうぞお構いなく」
「ごゆっくりなさってくださいませ」
 シルファは頭を下げ、その場を後にした。

 扉を閉めて歩き出してからも、ふと笑みを浮かべてしまう。
 今ごろセレクは、義母である王妃に叱られているのだろうか。
 シルファ自身は、今日はさほど忙しくない。王妃と王女たちの部屋は昨日のうちに整えさせたし、夜会などを開く予定もない。水明宮へは昨日渡って結界に魔力を加えたので、今日はその必要はなかった。
「お妃さま、お妃さま」
 不意に幼い声に呼び止められ、シルファは振り向いた。
 シェリーザが足早に廊下を歩いてくる。レアリスも小走りになりながら、その後に付いてきていた。
「どうなさいました?」
「お尋ねしたいことがございます」
 シェリーザがシルファの前で立ち止まり、レアリスはその側に付いた。先ほどと同じように、妹は姉の影に隠れるように身を寄せた。
「はい?」
 シルファは微笑んで先を促したが、シェリーザは左右に目を配った。シルファの周りには、一緒に部屋を出た侍女たちがそのまま付き従っていた。
 シルファはそれに気付くと、手で合図を送り下がらせた。それから近くの扉に目をやり、そこが居間の一つであることを確かめた。
「こちらへどうぞ」
 シルファは扉を開け、二人の王女を中に招いた。
 居間に入って向き合うと、身を屈めて少女の顔を覗き込む。
 ところがシェリーザは、急に黙ってうつむいてしまった。シルファは微笑んで続きを待つが、なかなか口を開こうとしない。姉の腕にしがみついているレアリスは、相変わらずだった。
「どうなさいました?」
 できるだけ柔らかく声に出す。
 シェリーザは意を決したように、顔を上げると同時に切り出した。
「あの――」
「はい」
「お兄さまは、本当にご病気ではないのですか?」
 シルファは思わず笑みを消した。
 疑問を投げかけたシェリーザは、挑むようにまっすぐ見つめてくる。しかしその目は、今にも泣き出しそうだった。
 シルファはしばらく言葉を失い、そして不意に納得した。セレクが倒れたことは王女たちも知っていて、その原因まで伝えられていたのだ。病ではないから心配はいらないと。それが正しいということを、セレクの近くにいる者に証明してほしかったのだ。
 シルファは再び微笑んだ。
「お母さまはなんと仰っていましたか?」
「お仕事が大変で、少し疲れたから休んでいるだけだと」
「では、それを信じられませ。お母さまには王宮から、本当のことをきちんとお伝えしていますから」
「本当ですか?」
「ええ。私もずっとお側におりましたが、お兄さまはもうすっかりお元気になられました」
 涙を滲ませていた少女の目が輝き始める。
 シェリーザは笑い、涙を隠すように目元を拭った。
「お姉さまとお呼びしてもいいですか?」
「もちろんです。お二人とも、仲良くさせてくださいね」
 シェリーザはうなずき、そのまま抱きついてきた。
 シルファは驚いたが、胸に寄り添っている少女が小さくて温かくて、思わず腕を回して抱きしめた。
 シェリーザは九歳、レアリスは六歳になると聞いている。エレセータにいるシルファの弟妹も、ほんの少し前まではこのように小さかった。
 シェリーザを抱きしめたまま、ふとその向こうにいるレアリスと目が合った。シルファとシェリーザが話している間、一度も声を出さなかったが、姉の隣で真剣な顔をしてシルファを見上げていた。
 シルファはシェリーザの肩越しに、レアリスに向けてにこりと笑った。
 レアリスの肩が小さく波打つ。初めて顔を合わせた時のように、身を強張らせてうつむいてしまった。そのまま、シェリーザがシルファから離れるまで顔を上げなかった。


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