水晶の空 [ 3−2 ]
水晶の空

第三章 少女 2
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「これはシルファーミア妃。早朝からご苦労に存じます」
 セレクの部屋を出て、ギルロードと並んで廊下を歩いている時だった。向かいから歩いてきた壮年の兵士が、シルファを見るなり満面の笑みになり、二人のほうに近付いてきた。
「王子のご容態はいかがにございますか?」
「え……え。もうすっかり」
「それはようございました」
 笑顔を絶やさない兵士を見つめながら、シルファは慌てて記憶を探った。確かに見たことのある顔なのだが、名前と肩書きを思い出せない。
「結界のこともあり、心身ともに参っていらしたのでしょう。シルファーミア妃のお力添えがあって本当に幸運でした」
 頭二つ分も上から見下ろされて、やっと思い出した。セフィード王宮の近衛隊長だ。確か、輿入れの日に最初に迎えてくれたのも彼だった。
「いいえ。私はそのような大それたことをしたわけでは」
「奥ゆかしい方でいらっしゃる」
 兵士は豪快に笑い、シルファとギルロードにそれぞれ会釈して離れていった。
 シルファは名前も覚えていなかったというのに、相手のほうはまるで身内に対するかのような打ちとけ方だ。ギルロードに促されて再び歩き出したが、首を傾げたくなる気分がどうしても消えなかった。
「ギルロードどの」
「何でしょうか」
 思い切って口を開くと、ギルロードはすぐに振り向いてくれた。相変わらず愛想のない顔だが、背丈があまり変わらないのでその点では話しやすい。
「ここ数日で、王宮の方々が急に親しく接してくださるようになった気がするのですが」
「ああ」
 ギルロードはすぐに腑に落ちたようだった。
「シルファーミア妃が魔力をお使いになったことを、王宮の者は存じておりますゆえ」
 聞いている側から、数人の女官がすれ違いざま膝を折る。王族であるシルファに対する当然の仕草だが、その表情が以前とはまったく違う。誰もがシルファに対して、作らない笑顔を向けてくれる。
「侍医も感心しておりました。毎朝薬湯を取りにいらして、王子のご看病に勤しんでおられるでしょう。朝早くからよくお働きだと」
「それは……侍医どのは買いかぶっておられます」
 朝が早いのは努めてそうしているわけではなく、エレセータで育ったころからの習性だ。また、看病と言ってもセレクはすっかり回復しているのだから、何をしているわけでもない。
 結界のことといい、必要以上に賞賛されすぎているような気分になる。
「お気にかけず受け止められればよろしいのです。事実は事実にございます」
 シルファは驚いてギルロードを見た。先ほどのセレクの前でといい、今日は何かと持ち上げてくれるのが奇妙で仕方ない。
 だがそれも、次の言葉を聞くまでだった。
「これで完全に信頼を得られたわけではございませんので」
 シルファは押し黙り、そのまま歩き続けた。
 ギルロードの言ったことは正しい。
 結界のことと、ここ数日のことで、セフィードでのシルファの印象は変わった。だがそれだけで、シルファのすべてを受け入れてもらえたと思ってはいけない。ただ一度だけ魔力を使い、ほんの数日の間セレクの看病をしただけだ。
 これだけのことで未来の王妃が務まるとは思えない。
 そこまで考えて、シルファはこれから行く先を思い出した。ギルロードは王妃と王女を迎えるために、シルファに準備を手伝ってほしいと言ったのだ。
「ギルロードどの。王妃は今の王宮の様子をどこまでご存知なのですか?」
「結界の異変のことは、使者を通してお伝えしてあります。王子が倒れられたことは、ご帰還のお知らせを受けてお迎えの者を送りましたゆえ、ご到着の折にはすでにご存知かと」
「そうですか。ご心配なさっているでしょうね」
 義理の母でありながら、実子と同じほどにセレクを気遣っていると聞いた。王宮に一人残して国のことを任せていた上、過労で倒れたなどと聞けばそれは気がかりだろう。
 まだ見ぬ王妃のことを考えながら、シルファの脳裏にはエレセータの王宮が浮かんでいた。シルファもまた、両親とは離れた土地にいる。
「王妃はお気にこそかけられても、さほど驚いてはおられないでしょう」
 ギルロードが突然答え、シルファは軽く首を傾けた。
「なぜですか?」
「ここ数年は別として、以前は王子がお倒れになることはそう珍しくありませんでした」
 シルファはまばたきを繰り返した。驚いたというよりは、言われた意味が呑み込めなかった。それでも足を動かして付いていくと、ギルロードは再び口を開いた。
「幼いころは、あまり丈夫なほうではありませんでしたので」
「――そうなのですか?」
「今のように政務に没頭できるようになられたのは、かなりご成長されてからです。それ以前は無理がきかず、すぐに高熱を出して寝込んだりしておられました」
 シルファは答えに詰まり、そのまま黙って歩き続けた。先ほど部屋で話したセレクと、ギルロードの話の中の幼い王子とがうまく重ならない。だが心当たりがまったくないわけでもなかった。
 予想は当たっていたらしく、ギルロードがそれに近いことを話し始めた。
「にもかかわらず、昔から度を過ぎた負けず嫌いで。勉学にしろ魔術にしろ無理にでも努力して、お身体のほうが追いつかず倒れてしまわれるような方でした」
「――わかるような気がします」
「そうでしょう。今でも大してお変わりはありませんので」
「ええ。私もそのように存じました」
 シルファが思い出したのは、倒れたその日のセレクのことだった。意識が戻ったばかりだというのに、水明宮に渡って魔力を使うなどと言い出し、どれだけ言い聞かせても譲ろうとしなかった。あれは、負けず嫌い以外の何者でもなかったと思う。
「昔から、あのようでいらっしゃったのですね」
「ええ。というより、ここしばらくの間に更にひどくなっておられるようです」
「東の宮に閉じ込めておいて正解でしたね」
「まったくです。こう申しては何ですが、一度お倒れになってむしろ良かったのでしょう」
「ご回復なさるにつれ、また無理に動こうとされるのでは」
「間違いなく。すでにその兆しは見えておりました」
「七日の間は目を離してはなりませんね」
「その通りです」
 二人でうなずき合っているうちに、シルファはふと我に返った。いつの間にか東の宮の門まで来てしまっていたのだ。ギルロードとこれほど話し込んだのは初めてだ。
 侍従が船の準備にかかっている間に、シルファは隣の横顔を盗み見る。
 まだ話し続けられるかもしれないと思い至り、適当な話題を探して口にした。
「ギルロードどのは、幾年ほど王子にお仕えしていらっしゃるのですか?」
 先ほどの話からは、かなり昔からセレクのことを知っているように聞き取れた。
「十三年に及びます。王子が六歳の時からですので」
「長いのですね。ではもう、ほとんどご家族のようでしょう」
「そうですね。お仕えし始めたのは前王妃がお亡くなりになった直後で、東の宮も寂しい時でございましたので」
 ギルロードが言い終えると同時に、船が整ったと侍従が声をかけた。シルファは半分だけほっとしたが、残りの半分は残念だと思った。もう少し続けていれば、もっと話が弾んだかもしれないのに。
 しかし、セレクが休養している間は、シルファとギルロードが先頭に立って王宮をまとめることになるのだ。親しくなる機会はこれからもあるだろう。シルファはそう納得し、船に向かおうと歩き始めた。
 その時、差し出された手にやんわりと止められた。
 首を傾げて見上げると、ギルロードが斜め前に立ち、シルファの行く先を阻んでいる。その手はシルファの腕に控えめに添えられている。
「あの……?」
「今のうちに申し上げておかねばならないことがございます」
 ギルロードは言い、侍従にしばらく待つよう合図を送った。
 シルファはその手に導かれるまま、船の渡し場から離れ、東の宮の廊下の端に移動した。ギルロードがその前に立つ。ちょうど、外にいる侍従たちの目からシルファを隠すように。
 その石のような表情を見て、忘れていた恐怖感が蘇った。何を考えているのかわからない者は、あからさまに敵意を向けてくる者よりもよほど怖い。
 シルファは軽く息を吸って落ち着いてから、ギルロードの言葉を待った。
「ありがとうございました」
 シルファはしばらく、まばたきするのも忘れてしまった。
 閉じそうになっていた目を逆に大きく見開いて、前にいる副官を見つめる。無表情のまま口を開いたギルロードは、言い終えてからも無表情だった。
「驚かれましたか」
「え……いえ」
 実際は驚いたどころではなかったが、軽く首を傾げてごまかした。
 改まって言うことがあるなどと告げられ、人目に付かぬところに連れて来られれば、誰でも固まってしまう。それが親しみの薄い相手であれば尚更だ。その張り詰めた状態で聞かされたのは、あまりにも意外な言葉だった。
「感謝していただくようなことを、私が何かいたしましたか?」
 改めて見上げると、青い瞳がまっすぐシルファを見下ろした。
「それはもちろん」
「結界のことでしたら、すでに仰っていただきました」
「私が申し上げているのは、セレク王子を説き伏せられた時のことです」
 言われた意味がすぐに呑み込めず、シルファは再び押し黙った。
 セレクを説き伏せたと言えば、結界を創ったあの夜のことが浮かんだ。
 倒れたばかりだというのに、セレクは水明宮に渡ると言って聞かず、シルファはそれを止めようとして言い争った。次第に二人とも語気が強くなってきて、最後のほうはただの口喧嘩になっていたように思う。ギルロードがあのことを言っているのであれば、かなりきまりが悪い。
「あの、説き伏せたというのは」
「お察しの通り、王子が倒れられた後のことです。お見事でした」
 ギルロードが真顔で言い、シルファは頬が熱くなるのを感じた。
「聞いていらしたのですか」
「というより、聞こえて参りました」
「忘れてください……」
 真っ赤になってうつむきながら、消え入りそうな声を出す。
 あの夜のことは、できることなら自分でも思い出したくなかった。水明宮に渡った時と、その後セレクに付き添った時はともかく、それらの前はかなり感情的になっていた。セレクにはもちろん、ギルロードや他の臣下に対しても気が大きかった自分を覚えている。
 その時は、自分なりの筋があってそのように振る舞った。だが今になって思い出してみると、頭から記憶を追い払いたくなる。
「そのようにご謙遜なさる必要はまったくございませんが」
「謙遜しているのではありません……」
「恥じらわれる必要もまたございません。よくやってくださいました、シルファーミア妃」
 はっと顔を上げる。
 ギルロードの声にはそれまでと同じく、大きな変化は聞き取れなかった。しかし合わせた視線からは、初めて見る色がはっきりと伝わってきた。
「よく王子を止めてくださいました」
 ギルロードは視線を動かさず、シルファにまっすぐ告げた。
「おそらく私にはできぬことでした。心から感謝いたします」
 深々と頭を下げられる。
 シルファはしばらく呆然とし、そして不意に微笑んだ。自分でもよくわからなかったが、きっと照れ隠しなのだろう。忘れたかったことを指摘されたからではなく、苦手にしていた者から真摯な想いを語られたからだ。
 ギルロードに気に入られるためにセレクを止めたわけではない。けれどもあの行動が、結果として今の状況を生んだ。セフィードに来てから初めて、ギルロードが含みのない目で見てくれたのだ。
「あのようなことでお役に立てるなら、これからも喜んで」
「ぜひお願いしたく存じます」
 ギルロードはゆっくり顔を上げた。
 彼は相変わらず無表情だったが、シルファはにっこりと微笑みかけた。
「ところでシルファーミア妃」
「はい?」
「王宮の者の顔と名を、まだご記憶されていないようですが」
 シルファは微笑んだまま固まった。
 すぐに、最初に声をかけてきた兵士のことを思い出す。
「王子のお妃が、臣下を把握できていないとは好ましくありませぬ。せめて主だった位にある者だけでも、お早めにお知りおきください」
「はい……」
 心持ちうつむきながら、シルファは素直に答えた。
 セフィードで新たな顔ぶれを覚えることは、シルファにとって容易くはなかった。名前の響きも位の名称も、エレセータ育ちのシルファには耳慣れない。それに、ごく一部の見慣れた顔を除いては、異国の民は誰も同じような顔立ちに見えてしまうのだ。
 だがギルロードの言うことは正しく、シルファは反論しなかった。
「では参りましょう」
 ギルロードが平然と促す。
 少しだけ騙された気分になった。
 これから数日間、ギルロードとは行動を共にすることが多い。おそらく彼は何かとシルファに気を配り、ためになる意見をこまめにくれるだろう。意地が悪いのではなく、あくまで王子の妃を教育するために。
 わずかに足が重くなったシルファを、セフィードの空が迎えてくれた。
 今日は本当にいい天気になりそうだ。


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