水晶の空 [ 3−1 ]
水晶の空

第三章 少女 1
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 セフィードの秋は短い。霜の季節と呼ばれるこの時期はエレセータではまだ温暖だが、セフィードでは朝夕など真冬が来たのかと思うほど冷え込んでいる。それも一日一日格段に増していくので、昨日と同じ備えで済むと思えばひどい目にあう。
 祖国から連れてきた側近たちに、体調に気を配るよう言わなければ。シルファはフィーラに身をくるみながらそう思った。
 侍女が渡してくれた水差しと椀を抱え、部屋の扉を開ける。東の宮にある寝室の一つだ。
「失礼いたします。おはようございます、王子」
 一礼して中に入ると、セレクが寝台の上でこちらを向いた。身を起こし、膝の上で頬杖をついている姿からは、疲れはすっかり消えている。しかしその表情はシルファを見ても少しも変わらず、機嫌が良さそうには見えなかった。
「おはよう」
「起きていらしたのですか」
「日の出より前に目が覚めた。ここ数日で一年分は眠ったからな」
 当てつけるように言うセレクに、シルファは少し笑ってから手を動かし始めた。
 セレクが倒れ、シルファが代わりに水明宮に渡った日から、今日で三日が経つことになる。あの夜からセレクは再び意識を失ったように眠り続け、丸一日以上も目を覚まさなかった。昨日の朝になって目覚めたかと思うと、すぐに政務に戻ると言い出して侍医に止められ、七日間の休養を命じられた。ギルロードが注意して書類の一枚も東の宮には近付けないので、セレクは完全にすることがない。仕方なく寝台の上でおとなしくしていた甲斐あって、今ではすっかり顔色も持ち直している。
 その様子を見て、思わず微笑んでしまうシルファとは逆に、セレクは無表情だった。
「病でもないのに、七日は長すぎると思わないか? シルファ」
「侍医どのが定められたことゆえ、間違いはないかと存じます」
「しかしこの通り、もうすっかり回復した」
「そうですね。ではこの機会にごゆっくりなさってはいかがでしょうか」
「ゆっくりと言っても、何をしたらいいのか……」
 うなだれるセレクを見てくすりと笑い、シルファは水の入った椀を差し出した。侍医のところでもらってきた、薬草を煎じたものだ。セレクは一度中を覗き込んだ後、受け取った。
「今日は寒いですが、いいお天気になりそうです」
 窓を控えめに開けながら言う。
 外の空気は冷たいが、紫がかった青空は遮るものもなく澄んでいた。午後になれば、柔らかい日の光が水の都を包むだろう。
「こんないい日に宮の中に閉じ込められていれば、逆に疲れが増しそうだ」
 不機嫌なセレクの声に、シルファは思わず吹き出した。
「笑いごとではなく切実なのだが」
「失礼しました。でも先ほどから、王子はそればかり」
 いけないとわかっていたが、シルファはつい声に出して笑ってしまった。
 セレクは軽く目を開いて寝台から見上げていた。だが不意に目を細め、微笑みかけた。
 反対にシルファは笑うのをやめた。
「どうなさいました?」
「いや……」
 セレクは一度視線を離し、間を置いて再びシルファを見る。
「久しぶりに笑顔が見られたと思って」
 シルファは完全に固まり、黙ってセレクを見つめ返した。
 視線だけが重なったまま、二人を沈黙が包む。
 シルファは何と返せば良いのか途方に暮れた。セレクも静かに微笑むだけで黙っている。だが決して、気まずい間ではなかった。
 確かに、セレクと笑って話すのは久しぶりだ。セレクと一緒の時に限らず、身構えることなく笑顔になることがしばらくなかったように思う。シルファにとっても、セレクの笑顔を以前に見た記憶はとても遠い。それを思うと、今この時が不思議と大切に思えてくる。
「――王子、シルファーミア妃」
 突如に声が割り込み、二人は見つめ合ったまま叫びそうになった。何の前ぶれもなく第三者に声をかけられるとは思っていなかったのだ。
 沈黙が破れ、慌ててお互いから目を離す。行き場を失った視線を声のほうに向けると、小柄な副官が立っていた。何も言わないが、その目は探ろうとするかのように鋭い。
 激しく波打った胸を落ち着けてから、シルファはギルロードに向かって笑みをつくった。
「おはようございます、ギルロードどの」
「おはようございます。――と、先ほどから何度か申し上げていたのですが」
 ギルロードはいつになく落ち着いた口調で言った。含みのある言葉とは裏腹に、表情には何の変化も見られない。
「番兵が話しかけ辛いと申すので、ご無礼ながら取り次ぎなしに入らせていただきました。仲睦まじいのは結構ですが、声をおかけする隙くらいは残しておいていただきたいものです」
「……失礼いたしました」
 シルファは素直に謝った。どういうわけか、無性に居心地が悪かった。
 隣を盗み見ると、セレクは頬杖を突き直して横の壁を見つめている。
「おはようございます、王子。お邪魔したことはお詫びいたしますゆえ、ご機嫌は損ねられませぬよう」
「……損ねられていない」
「それは結構でした。では、ご報告を申し上げます」
「それでは私は……」
 シルファがその場を離れようとすると、ギルロードの声が制した。
「いえ、シルファーミア妃もお聞きください」
「はい?」
「アクシスから急ぎの使いが参りました。昨日の昼間、アイネリア王妃があちらを経たれたとのこと。明日の朝には王宮にお着きになります」
 シルファとセレクは、示し合わせたかのようにそろって言葉を失った。
 アクシスという地名は、シルファも耳にしたことがある。リュークより西南にある、気候が穏やかな小さな街。セフィードの王が一年前から療養している土地だ。王妃と二人の王女も共に参ったことは聞いている。
「経たれたのは昨日と言ったか」
 シルファより先に、セレクが我に返った。
「義母上に私のことは……」
「倒れられたなどとは一言もお知らせしておりません。ゆえに、時期が重なったことは偶然でしょう」
「狙ったとしか思えない……」
 セレクは頬杖を離してため息をついた。
 話が見えないシルファは、セレクとギルロードを交互に見比べた。ギルロードが先にその視線に気付き、シルファに説明してくれた。
「王妃は王子にとって義理の母君ではありますが、実の御子と同じほどに王子のことをお気にかけていらっしゃるのです」
「過労で倒れたなどと知られたら、たっぷり半日は絞られる……」
 セレクがそう補足した後、更に深いため息が続いた。
「それで、お帰りになるのは義母上お一人か」
「いえ。王女がたもご一緒とのことです」
「シェリーザとレアリスも帰るのか」
 セレクはうつむけていた顔を上げ、打ってかわって目を輝かせた。
「ご報告は以上です。シルファーミア妃には、王妃と王女をお迎えする備えにお力添えいただきたいのですが」
「はい。お手伝いさせてください」
「王子は東の宮からお動きになりませぬよう」
「そうです。侍医どののご判断にございますゆえ」
「はい……」
 副官と妃にそろって諭され、セレクはおとなしくうなずいた。
 シルファはそれを見て、それとわからぬ程度に微かに笑う。
 まだ休養中とは言え、セレクの様子は見違えるように明るくなった。倒れた直後、仮眠室の寝台で微動だにせず眠っていた者とは別人のようだ。更に、これから数日は無理に動く必要もなく、この東の宮に留まっていてくれる。
 本人は退屈がっているが、シルファにはそれが嬉しくて仕方なかった。
「ギル、それで外の様子は」
 セレクが問いかけると、ギルロードは軽く眉を寄せた。
「お動きにならぬようにと申し上げたばかりですが」
「様子を聞くくらいいいだろう」
「特に問題はございません。王子が倒れられたことは王宮の外には漏らさぬようにしておりますし、結界にも今のところ異変は見られぬようです」
 言った後、ギルロードの視線がシルファに移った。セレクもそれを追うかのようにシルファを見る。
「シルファには改めて感謝しなければならないな」
 急に話題の中心に据えられて、シルファは慌てて首を振った。
「いいえ。ただの一度、魔力を使っただけのことです」
「そのただ一度に、セフィードは大きく救われました」
 シルファは返す言葉もなくまばたきを繰り返した。
 セレクにはともかく、ギルロードにこれほどはっきり肯定されたのは初めてだ。この鋭い目は常にシルファを見張り、奥の奥まで探ろうとしていたというのに。
 シルファはためらいながら、セレクのほうに視線を流した。
 寝台の上のセレクはそれに気付くと、うなずく代わりに微笑んでくれた。
「あれから一度も水明宮には渡っておりませんが」
 見つめられるのが少しくすぐったくなり、シルファは話題を元に戻した。
「結界は変わりないようですね」
「その前から王子が、かなり強い魔力を何度もお使いでしたので。従来も数日に一度で結界は保たれていたのです」
「では、異変も起きませんし、これからも日ごとに創りなおす必要はございませんね?」
「私はそのように存じますが。王子」
 ギルロードがセレクに視線を移し、シルファもそれに倣った。
 セレクはかすかに眉を寄せて、視線を下に落としている。しばらく返答はなかった。
 シルファが懸念し始めたころ、ようやくセレクは険しい顔を上げた。
「わかった。とりあえず一日おきで様子を見よう」
「ご休養の間は、私が代わりをさせていただいてよろしいですか?」
「ああ。頼む」
 シルファは思わず満面の笑みを浮かべた。セレクが自らの負担を減らしたことと、自分に使命を与えてくれたことと、二重の意味で嬉しかった。
 セレクは驚いたのかわずかに目を開き、やがて表情を緩めた。
「ではシルファーミア妃。よろしいでしょうか」
 ギルロードに促され、シルファは我に返った。
「はい、参ります。では王子、ごゆっくりお休みくださいませ」
「わかっている」
「失礼いたします」
 シルファとギルロードは交互に頭を下げ、セレクの側を後にした。離れる寸前、視界の端に映ったセレクは、もう一度シルファに微笑んでいるように見えた。
 シルファの胸が、ゆっくりとあたたかくなっていく。
 あの夜、水明宮で魔力を使い、北の宮に戻ると、セレクは再び深い眠りに落ちていた。シルファが結界を創ったとの知らせを受け、安心したのだろうと侍医が言っていた。その言葉通り、眠っているセレクは穏やかで、苦痛の色は消えかかっていた。
 目覚めた時に自分の口から状況を知らせたかったので、シルファはその夜は仮眠室に付き添った。長椅子と毛布を用意させ、セレクの寝台の側で休めるようにしてもらった。
 朝まで目を覚まさないだろうと思っていたが、深夜になって、セレクは薄く目を開けた。眠らずに寝台の傍らにいたシルファは、すぐに言葉をかけた。
『王子? 私がおわかりになりますか?』
 前に目覚めた時と同様、セレクはぼんやりとしていたが、シルファの声にゆっくりとうなずいた。
『結界は大事ございません。もうご心配は要りませんから、今度こそお休みくださいませ。お疲れが完全に癒えるまで』
 用意していた言葉を伝えると、シルファは少し戸惑った。王宮育ちで両親も健在だったシルファは、病人の付き添いなどしたことがなかった。状況を説くことはできても、その後どうすればいいのかはまったくわからなかった。
 だが安心してもらいたかった。疲れきってぼんやりしているセレクを、どんな心配ごとからも遠ざけて休ませたかった。言葉だけでは足りないような気がした。
 自然に手が動き、シルファはセレクの毛布をかけ直していた。そして、寝台の上のセレクの手を自分の両手で包んだ。驚いたのか微かに目を開くセレクに、シルファはためらいがちに微笑んだ。そのまま見つめていると、セレクは静かに、再び眠りに落ちていった。
 今になって思い出してみると、特に大したことをしたわけではない。だが実際にはかなりの思い切りが必要だった。自分のしたことでセレクが安心してくれるのか不安だった。
 今でも確信しているわけではない。シルファが手を握った後にセレクは寝入ったが、もともと意識がはっきりしていなかったので、何もしなくても変わらなかったかも知れない。それどころか、側に他人が、それも嫁いできて間もない敵国の王女がいて、かえってゆっくり眠れなかったかも知れない。
 だが今になってみると、そんなことはあまり気にならなくなっていた。シルファがどう思われていようと、セレクが元気になってくれたのは確かなのだから。


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