水晶の空 [ 2−11 ]
水晶の空

第二章 結界 11
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 北の宮から外に出ると、すでに空には白い星たちが光っていた。夜に屋外へ出るのはセフィードに来てから初めてだった。水の都を見下ろす星空は冴えきっていて美しい。
 東の宮からここまで乗ってきた船は、すでに下がらせてあった。だが新しい船を頼む必要はなかった。人の出入りの多い北の宮には、常に何艘もの船が待機している。
「シルファーミア妃」
 船の位置を認めたところで、背後からギルロードの声がかかった。
「本当に水明宮にお渡りになるのですか」
「ええ。ギルロードどのも了承してくださったではありませんか」
「しかし、今すぐに結界が保たれなくなる可能性は低いと存じますが。朝にも王子が魔力をお使いになりましたゆえ」
「それでも今すぐ参ります」
 シルファは振り返り、ギルロードと向き合った。
「そうでなければ、王子はお休みになってくださいませんもの」
 ギルロードは黙ってシルファを見つめ返していた。
 シルファは彼から目をそらし、その向こうにいる侍従たちに告げた。
「どなたかお一人、別の小船で付いてきてくださいますか。そして私が水明宮で結界を創り終えたら、その船でこちらに戻り、王子にお伝えしてください」
 侍従の中の長らしき者が一礼し、指示を出し始めた。
「ギルロードどのも一緒にいらしてくださいますか?」
 シルファは視線を戻す。
「はい。シルファーミア妃は水明宮の勝手を詳しくご存知ではないでしょう」
「ええ、助かります」
 なぜあれほどギルロードが苦手だったのか、今では思い出せない。彼の言葉に答えながら、シルファは微笑んでみることさえできた。
 仮眠室のセレクには、数人の侍従と侍女が付いてくれた。侍医も近くに控えているはずだ。ギルロードとシルファが目を離しても心配はないだろう。
 何も言わず飛び出してきた東の宮には、ギルロードが側近を通じて連絡をしてくれた。
 シルファはそれらのことを確認すると、ギルロードと共に船に乗り込んだ。
 水明宮に向かうのは、セフィードに来たその日以来だ。あれからも宮の姿は何度も目にしてきたが、その中に足を踏み入れた日のことはよく覚えている。水盤から広がった波紋がシルファの足元を通り、天井へと抜けていった。空を創っていると思った。その空が、この国を、民を守っているのだと。
 創っているのは、シルファが嫁いだ敵国の王子。父王に代わって一人で国を統治し、誰も成し遂げられなかったエレセータとの和平にも踏み切った。シルファはただ彼に守られていることしかできなかった。
 先ほど言い争ったことを思い出すと、まだ叫び足りないほど怒りがこみ上げてくる。しかし水明宮に近付くにつれ、その怒りはセレクではなく、自分自身に向き始めていた。
 セフィードに嫁いできてから、自分にできることは何もないような気がしていた。見知らぬ国で見知らぬ人々に囲まれて、自分がとても小さな存在のように感じた。だから、セレクの優しさに甘えることしかできなかった。セレクがいらないと言えば何もせず、セレクが大丈夫だと言えば心配の言葉も止めてしまった。それに逆らって行動を押し通せば、ひどく的外れなことをしてしまいそうで怖かった。
 なぜそれほどまでに恐れていたのだろう。敵国の王子と言っても年齢はシルファと二つしか変わらず、まだ即位もしていない。父王から預かった国を必死で守り、追いつめられても誰かを頼ることができず、倒れるまで自分の無理に気付かない青年。
 シルファがそれを見抜いていれば、セレクは今日のようにならずに済んだかも知れない。
 シルファは顎を持ち上げ、近付いてきた水明宮を見据えた。
 硝子でできた天球型の宮を、夜に見たのは初めてだ。四宮と違いここには明かりを持ち込めないらしく、月と星を頼りにするしかなさそうだ。入り口で船を降りるまでは侍従が手蝋で案内してくれた。
「ギルロードどの」
 冷たい扉に触れながら振り返る。
「中まで来てくださいますか」
「よろしいのですか?」
「確かめていただきたいのです。私がこの国に、害を成したりはしないということを」
 側にいた侍従は呆然としてシルファを見たが、ギルロードは冷静だった。
「承知いたしました。お供いたします」
「お願いします」
 二人は侍従を下がらせると、水明宮の中に入った。
 ギルロードはすぐに立ち止まったが、シルファはゆっくりと中央に歩み寄った。
 先には背の低い台に支えられた水盤がある。あの日、あの場所にセレクは立っていた。その指先から波紋が生まれ、水明宮からセフィードの空へと広がっていった。まるで水の中にいるようだった。
 水の中。そう、ここは水の国セフィードだ。水明宮の周りには恵み豊かな水路が広がり、セレクの結界も水の力を借りている。
 シルファはここで魔力を使うのだ。空に浮かぶように背の高い王宮で、風が塔を撫でていく音を聞いていた、あのエレセータで覚えた魔力。シルファがそれを使ったのは、祖国でもほんの数回に過ぎない。
 シルファは水明宮の中央で立ち止まった。
 エレセータで初めて結界の魔力を使ったのは、十五の時だった。すでに使いこなしていたウィンリーテが、その方法を教えてくれた。
『従えるのではなく、寄り添うの』
 姉の声がシルファの中によみがえる。
『風を操れると思ってはいけないわ。風は自由な生き物で、誰にも従ったりしない。私たちは、その力を借りるだけよ』
 シルファは右手を持ち上げ、目の前の宙を切った。水明宮の空気が揺れる。
――ここにも風はある。
 以前にも思ったことをもう一度繰り返すと、すぐに心が落ち着いた。
 失敗は許されない。シルファは今、セフィードの結界を傷つけたのではないかと疑われている。和平のためとは言え敵国から嫁いで来て、いつでもこの国に刃を向けられる場所にいるのだから当然だ。これから失敗すれば、根付いた不信はますます深くなる。
 更に今のシルファは、セフィードの王族でもある。セレクが倒れたのなら、シルファが代わって結界を創らなければ民を守れない。シルファの失敗はそのままセレクの治世の欠陥になり得てしまう。
 結界が守るものは一つではない。
 そこまで考えるまでもなく、シルファ自身が知っていた。自分が何よりも守りたいものが何なのか。
 大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
 水明宮の中央で、シルファは風を紡ぎ、結界を創り始めた。


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