水晶の空 [ 2−10 ]
水晶の空

第二章 結界 10
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 眠っていた顔が微かな動きを見せる。
 錯覚かと思うほどわずかなものだったが、シルファは見落とさなかった。改めて見入ると、セレクの瞼がゆっくりと動き、やがて持ち上げられた。灰色の双眸が、薄くではあるが確かに開いた。
「王子……?」
 寝台を覗き込み、小さな声で話しかける。
「目を覚まされましたか?」
 問いかけてもセレクは答えず、ぼんやり宙を見つめていた。顔色が悪いのは相変わらずで、開いた瞳も光がなく弱々しい。まだ意識がないのだろうかと考え始めたころ、首がようやく動いてこちらを見た。
「……シルファ?」
 視線が噛み合うと同時に、かすれた呼びかけが返ってきた。
「はい。おわかりになりますか?」
「……ここは……?」
「執務室の隣のお部屋です。王子は執務室でお倒れになりました。覚えておられますか?」
 一言一言ゆっくりと話しかけたが、セレクは聞いているのかもわからないおぼろな目でシルファを見ていた。
 だが、しばらくして突如に目を見開き、小さいがはっきりした声で口を開いた。
「――どのくらい眠っていた?」
「……え?」
「あれから、どのくらい時間が経っている?」
 王宮に時計と言えば、西の宮の水時計しかない。シルファは慌てて考え込んだ。
 シルファがここに来た時はまだ外がほのかに明るかったが、今はおそらく完全に日が沈んでいる。部屋は暗くなり、侍女が持って来てくれた蝋燭で寝台を照らしている。
「一の刻と少し……二の刻は経っていないかと思います」
「まだ同じ日なのか」
「はい。霜の季節第三十六日です」
 怪訝に思いつつも、念のため日付まで述べて確認した。セフィードとエレセータでは暦が違うので、シルファはいつもその日の日付を頭で覚えている。
 それを聞くや否やセレクは深く息をつき、強張っていた顔から力を抜いた。
「王子? ご気分はよろしいのですか?」
 シルファは少しためらったが、聞くべきことを思い出して聞いた。奇妙に会話がすれ違っている気がしたが、今はセレクの具合が最優先だ。
「大したことはない。すまない、心配をかけた」
 少しずつしっかりしてきた声で、セレクは答えた。
「北の宮まで来てくれたのか」
「はい。倒れられたと聞いて驚いて……」
「また心配させてしまったな」
「いいえ……」
 話しているうちに、シルファは居心地が悪くなってきた。セレクが目を覚ましたら自分から声をかけて安心させるつもりだったのに、実際は逆になっている。気が付いたらセレクに謝られてしまった。
「ギルたちは?」
 問われて、シルファは我に返った。
「別のお部屋で待機なさっていると思います。侍医どのもご一緒に。王子が倒れられてすぐに呼ばれていましたから」
「ああ」
「過労……だそうです。ここずっと無理をなさっていましたから」
 セレクは真上を向き、目を閉じてため息をついた。
「確かに、少し疲れた……。急に気が遠くなって驚いた」
「昨夜もほとんど眠っておられないのでしょう? 今日はこのまま、ゆっくりお休みください」
「いや。まだ水明宮に行っていない」
 セレクが何と言ったのか、一瞬わからなかった。
 シルファは固まったまま、目の前のセレクを見つめた。血の気の失せた顔で寝台に横たわっているのは変わらない。憔悴してはいるが、これだけ会話ができるのだから意識ははっきりしているはずだ。
 しかし今の言葉は、まともな頭で考えた結論だとはとても思えなかった。
「え……?」
「二の刻足らずで意識が戻って幸いだった。目覚めた時、倒れてから何日も経っていたらと思うとぞっとした」
「あの……」
「まだ少し辛いが、しばらく休んだら予定通り水明宮に渡る。ギルにそう伝えてくれるか」
「王子、それは無理です」
 どうやらセレクは本気で言っているらしい。それを悟ったシルファは、慌てて制そうとした。
「無理ではない」
「いいえ、無理です」
「今すぐに行くわけではない。もう少し休めば起き上がれるようになるし、魔力も使える」
「やめてください! 今度は倒れるだけでは済まなくなります」
 多少休んだところで、疲れきったセレクがそう早く回復できるはずがない。現に顔色はまだまだ悪く、寝台の上の身体はぐったりとしている。本当は話すのも辛いのではないだろうか。
 そんな状態で起き上がり、魔力を使えばどうなるか。誰にでもわかることだと言うのに、セレク自身はわかっていない。
「大丈夫だ。過労は病ではないのだから」
「それでも、無理をしすぎれば大事に至ります。実際に倒れられたではありませんか」
「だから少し休んでいくと言っている」
「少し休んだくらいで治るものではございません」
「これまでは少し休めば十分だった」
「ですから、そうして無理を重ねられたからお倒れになったのです」
「無理か否かは自分が一番よくわかっている」
「そんな顔色で何を仰られても説得力はございません」
「動けると言ったら動ける」
「負けず嫌いの子どもみたい」
 半ば怒鳴り声になって言い争った後、シルファは寝台の上のセレクと睨み合った。次第にくだらない口論になってきたような気がしたが、自分の頭を冷ます余裕は今のシルファにはなかった。
「倒れた人間の側で大声を出すのはやめてくれ」
「倒れた人間ならおとなしく休んでいたらどうですか」
「そなたに説教される覚えはない」
「大いにございます。私はあなたの妃なのですから」
 シルファは屈んでいた身を起こして、寝台の側に立ち上がった。
「シルファ?」
 セレクが寝台から問いかける。
「ギルロードどのにお知らせして参ります」
「何を」
「王子が目を覚まされたことと、このままお休みいただくことです」
「勝手なことを伝えるな。私は」
「もうお話はやめてください。起き上がることもできないのに、どうして魔力が使えるのです。そのように無理を続けて、いつか本当に起き上がれなくなった時はどうなさるおつもりですか」
「それは」
「これ以上は申しません。今日は何があろうと寝室からお出ししませんのでそのおつもりで。そうすることが私の義務です」
 セレクは目を見開いてシルファを見つめている。
 完全に言い負かしたことを悟ったシルファは、寝台に背を向けた。
 それまで思い悩んでいたことが、一瞬でどうでも良くなった。ここが敵国の王宮だということも、セレクに信じてもらえなかったこともセレクを信じられなかったことも、すべてシルファの中から抜け落ちていた。
 これほど呆れたのは生まれて初めてだった。

「シルファーミア妃」
 部屋から出ると、小柄な副官が目の前に立っていた。別室にいたはずだが、様子を見に仮眠室に入ろうとしていたようだった。
「どうなさいました」
「王子が目を覚まされました」
 扉を閉めてから、まっすぐ向き合って告げた。ギルロードが怖いという気持ちも、すでにどこかへ飛んでしまっていた。
「何か言い争っておられるようでしたが」
 ギルロードは片眉を吊り上げた。
「ただの口喧嘩です」
 言い捨てて、すっと声を落とす。
「ギルロードどの。結界はこの先、どれほど持つでしょうか」
「結界?」
「はい。王子に魔力を使っていただくことは、しばらくは無理かと存じますゆえ」
「王子が最後に水明宮に渡られたのは、今日の早朝にございます。以前は日に一度の魔力で十分でした。しかし幾度かの異変が起きた今は、何とも申し兼ねます」
「瘴気が入り込んだ後、王子は水明宮にどのくらいお渡りでしたか」
「それ以前の倍に」
「日に二度、朝と夕ですね」
「御意」
「ですが今日はまだ一度しか渡られていない」
「御意にございます。その寸前にお倒れになりました」
 ギルロードはシルファの問いに一つ一つ丁寧に答えていたが、次第にその目がシルファを探り始めていた。
 シルファは気にせずに礼をし、一度口を閉じた。
「シルファーミア妃?」
 ギルロードが視線を低めて伺う。
「いずれにしろ、王子が倒れられた今は結界のことはどうにもできません」
「いいえ。私が参ります」
 ギルロードの顔が凍り付いた。無表情なのは変わらなかったが、シルファを見透かすように向けていた視線が勢いを失った。
「何と……?」
「私は、エレセータの王家の生まれです」
 シルファはギルロードをまっすぐに見据えた。怒りと呆れで昂ぶっていた気持ちが、次第に落ち着いてきていた。だが、消えてしまった恐怖が戻ってくることはなかった。
「王族は結界を作る魔力を備えております。私が王子の代わりに、水明宮に渡ります」


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