水晶の空 [ 2−9 ]
水晶の空

第二章 結界 9
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 重たい音を立てて、椀が机上に置かれた。中に入っていた茶が大きく揺れたが、こぼれなかったかどうか確かめる余裕はシルファにはなかった。椀に手をかけたまま、側に来たばかりの侍女をじっと見つめた。
「倒れた……?」
 真っ白になった頭で、いま聞いた言葉を繰り返す。
「はい。つい先ほど、北の宮の執務室で」
 あちらの女官が話しているのを聞きました、と侍女は付け足した。静止したまま声を出さない主を気遣ったのか、それ以上は何も言わなかった。
 シルファは宙を見つめたまま、椀から手を離した。
 最後にセレクと会ったのは、つい昨夜のことだ。多忙な日が続いたセレクが、何日ぶりかに東の宮に帰ってきた。明かりが少なく顔はよく見えなかったが、ひどく疲れていたのは確かだった。しかしそんなことは一言も口にせず、何度もシルファに謝っていた。
――あの時、私は何と言った?
 一日も経っていないのに、遠い昔のような気がする。目の前にいたセレクが手の届かないところに行ってしまったような、自分の意思でどうにでもできた小さなことが手元からすべり落ちてしまったような、焦りと後悔にとらわれる。
「シルファーミア妃?」
 侍女が声を上げたのは、シルファが急に立ち上がったためだった。
 彼女に答えてから動き出すべきだとわかっていたが、シルファの足は勝手にその場を離れ、居間の扉へ向かった。
「シルファーミア妃!」
 そのまま、扉を開けて外へ飛び出した。

 日は沈み空は暗くなりかけていたが、衛兵に声をかけるとすぐに船を用意してくれた。髪の色とセフィード語の発音でシルファだと気付いたのだろう。驚いていたが、急ぐと告げたら何も聞かずに応じてくれた。シルファはありがたく小船に乗った。
 北の宮に来たのはこれで二度目だ。一度目は、結界に異変があったと知らせを受けた日だった。あの時のギルロードや文官たちの反応は、決して好意的とは言えなかった。セフィードでは、王子の妃が執務室に飛び込んでくるなど考えられなかったのだろう。しかし、今のシルファは引き返そうとは思わなかった。
 長い裳裾とかかとの高い靴は、相変わらず歩きにくくて仕方ない。シルファは転ばないように気をつけながら、できる限り足早に廊下を進んだ。
 セレクの執務室の場所は覚えている。記憶に従って足を進めると、辿り着く前に見覚えのある人物を見つけた。ギルロードが扉の一つを閉めながら、その前で別の者と話をしていた。彼もシルファに気付いたらしく、顔を向ける。
 シルファが歩み寄っていくと、ギルロードは側にいた人物に声をかけ、離れさせた。
「いかがなさいました」
 抑揚のない声で問われ、シルファは立ち止まった。
「王子が……」
 上がった息を整えながら、やっとそれだけ言えた。ギルロードは十分に汲み取ったらしく、すぐに答えた。
「ご心配には及びません。ただの過労ですから」
 ある程度、予想していた答えではあった。しかし実際に聞いてみると衝撃は大きく、シルファは片手で口元を覆った。
「過労……」
「瘴気が入り込んでより、まともに眠らないことが続いた上、日ごとに魔力を使っておられましたゆえ。倒れずに済むほうがどうかしています」
 シルファは息を弾ませながら、何も答えることができなかった。
「すぐに執務室の隣の仮眠室に移し、侍医を呼びました。先ほど容態を聞いていましたが、しばらく安静にさせておけば心配はいらないとのこと。倒れたというより、休養が足りないので身体が勝手に休んだだけのことです。当分は寝室に閉じ込めておけばよろしい」
 ギルロードは言い捨てるように説明した。
 シルファはしばらく彼を見つめていたが、やがて呼吸が落ち着くと、しっかりした声で聞いた。
「ずっとここで休んでいただくのですか?」
「いえ。しばらくのことです。意識が戻られ、動けるようになられましたらば東の宮にお移しすればよろしいかと存じます」
「目を覚まされるまで、お側に付いていても構いませんか?」
 ギルロードはわずかに目を細めた。色素の薄い水色の瞳が、シルファは苦手だった。だが目をそらすことなく、黙って答えを待った。
 やがてギルロードは、表情を変えることなく口を開いた。
「もちろんです。王子のお妃でいらっしゃるのですから」

 セレクが眠る部屋は執務室の隣にあったが、以前シルファが休んだ場所とそっくりだった。飾り気のまったくない内装に、簡素な寝台と机。
 数人ずついた侍従と侍女は、ギルロードが命じて下がらせてくれた。シルファは一人になると、セレクの眠る寝台に歩み寄った。
 少しだけ長い銀の髪が、無造作に流れている。
 覗き込むと、セレクは固く目を閉じて微動だにせず眠っていた。顔色は、一目見て眉をひそめるほどひどかった。
 シルファはセレクを見つめたまま、寝台の側に身を屈めた。
 恐る恐る手を伸ばし、指の甲でセレクの頬に触れる。熱はないようだ。顔色の悪ささえなければ、ただ深く寝入っているだけのように見える。
 シルファはできるだけゆっくりと指を離した。セレクは相変わらず動かなかった。先ほどもシルファと侍従たちは言葉を交わし、何人もが足音を立てて動いたが、セレクが目を覚ます気配はなかった。思わず呼吸を確かめてしまうほど深い眠りだ。
 寝台に沈んだ身体は、人形のように静かに横たわっている。表情どころか瞼の一つも動かない。
 本当に疲れていたのだろう。瘴気が入り込んだ日から十数日、足りなかった休みを取り戻すかのように、今はただ眠り続けている。
 侍従が椅子を置いていってくれたが、シルファは座ろうとせず、側でセレクの顔を見つめていた。
 セレクとはここしばらく、ゆっくり話すことはできなかった。結界のことがあってからだと思っていたが、よく思い出せばそれ以前も、共に過ごせる日は多くなかった。東の宮で朝夕それぞれ顔を見ることができたのは、婚礼から数日の間くらいだった。
 それでも、セレクが忙しくしていることはよく知っていた。政務にしろ結界にしろ、その役目を負える人間がセフィードに一人しかいないことも知っていた。瘴気の侵入があり、今まで以上に無理をしていることもわかっていた。
 シルファとて心配しなかったわけではない。だから昨夜セレクが帰ってきた時は、驚いたと同時にどこかで安心もしていた。直に様子を確かめることができたからだ。顔も見ず想像だけで気にしているのは、かえって辛かった。
 どうしてそれを行動に表せなかったのだろう。あの時セレクに何と言うべきだったかは、考えるまでもなくわかりきっていた。それにも関わらず、シルファが口にしたのは正反対の言葉だった。
 あの後セレクがどうしたのか、シルファは知らない。少なくとも、朝まで休む時間はあるようだった。東の宮にはいくつも部屋があるが、そのどれかを選んで使ったのだろうか。今のセレクの顔色を見ると、昨夜十分に眠ったとはとうてい思えない。シルファと別れてすぐ、北の宮に引き返していたのかも知れない。そう考えると、全身から血の気が引いた。
 セレクのことは怖かったし、心から信じることはできなかった。けれども、こんなことになるのを願っていたわけではなかった。
 今のセレクは、ただ眠り続けている。シルファが側にいることにも気付かず、その考えていることなど思いもせず。
 シルファは言葉を飲み込み、代わりにセレクの毛布をかけ直した。セレクはやはり目を開かず、動きもしなかった。
 周りを見回し、部屋の温度を確かめる。じきに暗くなるので明かりも用意しなければならない。眠りを妨げないよう、ほんの小さなものが良さそうだ。
 セレクがいつ目を覚ますかはわからない。覚ましたらしばらく動かないように言葉をかけ、侍医とギルロードに知らせに行くつもりだった。それまでは側にいて、できる限りゆっくり休ませようと思った。
 敵国の王女が付き添っていても、かえってセレクは安心できないかも知れない。
 それでも、今のシルファはセレクの側を離れようとは思わなかった。


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