水晶の空 [ 2−8 ]
水晶の空

第二章 結界 8
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「――王子!」
 宙を切り裂くような鋭い声に、一瞬で現実に引き戻される。軽く頭を振って前を見ると、ギルロードが眉をひそめて見つめていた。
「どうなさいました。ご気分でもよろしくありませんか」
「いや――大事ない。ぼんやりしていた」
 我に返って見渡すと、執務室にいた数人の文官がそろってこちらを伺っていた。相当長く心ここにあらずだったことに気付き、セレクは苦笑する。
 正直に言って、気分は最悪だった。連日の政務漬けで疲れているにも関わらず、昨夜もほとんど眠れなかった。そのまま今朝も早くから執務室に入り、目まぐるしい一日を過ごして夕方を迎えた。いい加減にしないと身体が先に音を上げる。
 集中力が途切れがちな時に昨夜のことが重なり、気が付くと物思いにふけってしまっていた。
 昨夜は久しぶりに東の宮に帰ることができた。シルファの顔を見るのも、瘴気が入り込んだ翌日以来だった。
 シルファはほとんど口を開かなかった。まともに聞いた言葉は、はっきりとセレクを見上げて口にしたただ一つ。
『ですから、お帰りにならなくてもよろしいのです』
 静かだがよく通る声で告げた時の目に、迷いは見られなかった。
『いつ寝首をかくか知れない妃の側では、お疲れは癒えないでしょう』
 隠していた醜いものを、すべて見透かされたような気がした。
 自分からこの婚姻を望んだというのに、シルファを疑う側近を抑えられなかった。和平のためにも心から受け入れる覚悟だったのに、どこかに隙間があった。ギルロードや文官たちのことは責められない。
 シルファはそんなセレクのことを見抜いたのだろう。だから、気にかけるセレクの言葉をことごとく跳ね除けた。
 あの時のことを思い出すと、自分を笑いたくなってくる。
 信用されていないのはシルファだけではない。シルファのほうでも、セレクに気を許してはいない。おそらく、セフィードに来たその日からずっと。国と国のために嫁がされた敵国の王子を、シルファはずっと恐れていた。そんな当たり前のことに気付かないふりをしていた自分が憎くて仕方ない。自分の表面的な気遣いが、シルファをどれだけ傷付けていたか計り知れない。
 父王が倒れてから一年経ち、瘴気の侵入を許してしまった。シルファの輿入れの直後だっただけに、王宮や都の混乱はひどかった。そしてシルファ自身もこの国に打ち解けずにいる。
 守ると誓った多くのもののうち、セレクは一つも守れていない。せめてシルファだけは、何があっても傷付けたくなかったのに。和平の求めに応じて敵国から嫁いで来てくれた王女は、この手で守りたかったのに。
「王子! 大事ございませんか?」
 再び呼び起こされる。
 今度はギルロードではなく、その隣にいた別の文官だった。
 セレクはもう一度頭を振って、筆を握り直した。
「ギル、続きは……」
 言い終わらないうちに気が付いた。文官たちが書類を回収し始めている。目を落とすと、机の上も整然と片付けられていた。
「区切りが良いところです。今日は切り上げてよろしいかと存じます」
 セレクは大きく息を吐き出し、机にもたれかかった。終わったと思うと、疲れが一気に押し寄せてくる。
「助かる……。水明宮に渡る前に休む暇ができた」
「王子、水明宮にお渡りになるのですか?」
 声を上げたのは、離れたところにいた若い文官だった。驚いたのは彼だけではなかったらしく、部屋中の視線が再びセレクに集まった。
「もちろん。いつも明るいうちに行っていただろう」
「ですが、今日は相当お疲れのご様子です。明け方にも一度お渡りでしたし、今日はもうよろしいのでは」
「そうです。結界にはあれから異常は見られませんし、無理に魔力をお使いにならずとも」
「無理はしていない」
「しかし、日に二度も結界をお創りではありませんか。政務やその他の問題ごとも多いでしょうに」
「私は王の代理だ。この程度のことをこなせねば勤まらないだろう」
「ですがお顔色が」
「大事はないと言っている!」
 執務室の空気が波打ち、文官たちは押し黙る。
 静まり返った中、セレクはゆっくりと顔を上げた。驚きと懸念を宿した側近たちの目が、辺りに並んでいた。
 息苦しいような沈黙がしばらく続く。ギルロードでさえ、わずかだが表情を崩してこちらを伺っていた。
 セレクは息をつき、再びうなだれた。
「……すまない。今は休ませてくれ」
 自分にさえやっと聞こえるほどの声だったが、文官たちの耳は確かに拾っていた。部屋の中に、再び書類を集める音が響き始めた。
 セレクは下を見たまま、何度目かのため息をついた。
 とにかく今は貴重な休憩時間だ。せっかく側近たちが暇をつくってくれた。休めるうちに休んでおかなければならない。
 暗くなる前に水明宮に渡り、それから時間があれば久しぶりに都に出よう。国王の療養が長引き、ただでさえ民は不安になっている。瘴気が入り込んだことがそれを深くした。
 もう二度と、結界に異変を来してはならない。魔力を使える者が一人きりの今は、セレクがセフィードを守るしかない。
「王子」
 セレクの思考は、低い声に破られた。うなだれて目を閉じたままでも、すぐにギルロードだとわかった。声というより気配のためだ。
「休ませろと言っただろう」
 他の側近に聞こえぬよう、声を落として話す。
「もちろんそのつもりでございます。しかし、お休みになるなら東の宮へお移りください。もしくはせめて仮眠室へ」
「そんな時間があるか。少し休んだら水明宮に渡るのだから、ここで十分だ」
「今日は魔力をお使いになるのはもう無理です。すぐに部屋を移してお休みください」
「大事ないと言っただろう」
 声は抑えるようにしたが、苛立ってくる気持ちはどうしようもなかった。ギルロードが平然と言い返してくるのはいつものことだが、今日は殊の外、一歩も退こうとしない。
「部下としてではなく、恐れながら昔馴染みとして申し上げます。あなたは今すぐにお休みになるべきです」
「何を決め付けている」
「鏡をご覧になると良い。ご自分の顔色をおわかりでないから、子どもじみた強情を張れるのです」
「誰が子どもだ……」
 セレクは低く呟き、副官を下から睨んだ。
 自分が疲れていることはよくわかっている。だからこそ今こうして休み、魔力を使えるように備えているのだ。
 水明宮に渡るのを取りやめることはできない。結界で国を守るのは、何よりも優先すべき使命なのだから。
 セレクは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「水明宮に渡る。ギル、口を出すな。これは命令だ」
 ぴしゃりと告げると、ギルロードはかすかに目を細めて押し黙る。その様子を確かめると、セレクは執務机に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
 その瞬間、視界が斜めに傾いた。
 まずいと思った時にはもう、床に叩き付けられていた。
「王子!」
 側近の誰かが近くで叫んでいる。しかし、その光景が見えない。
 早く目を開けて起き上がらなければ。
 その思いに逆らい、セレクの意識は一気に遠ざかっていった。


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