水晶の空 [ 2−7 ]
水晶の空

第二章 結界 7
[ BACK / TOP / NEXT ]


「シルファーミア妃、そろそろお休みになりませんか?」
 リューネの声に顔を上げたシルファは、窓の外が暗いことに驚いた。本を読み始めた時は、まだほのかに明るい夕方だったはずなのに。
「日が短くなってきたのですね」
 本を閉じながら、シルファはぽつりと呟いた。
「ええ。それもありますけど、シルファーミア妃もずいぶん熱心に読んでおられましたよ?」
「内容がわかるようになってきましたので」
 読んでいたのは、セフィード語を学ぶシルファにセレクが持ってきてくれた本だった。始めは文字を追うことに集中していたので気付かなかったが、短い叙事詩を集めたものだった。何度も読み返すうちに言葉はすっかり頭に入ってしまったので、ここ数回は内容にまで気を配れるようになってきた。
 他にも何冊かあったが、どれも同じくらい読み込んだ。他にすることがなかったからだ。昼間は王宮内を歩いて時間を潰したが、日が沈んでからは本を相手にするしかなかった。その甲斐あってセフィード語の読み書きにもかなり慣れてきたと思う。
 シルファは膝の上に載せた本を、そっと撫でた。表紙は厚みのある皮でできている。中身は草を原料にした色の濃い紙だ。
「他にもっと本があればいいんですけど……」
 リューネの言葉に、シルファはにこやかに答えた。
「いいえ、これで十分です。セフィードでは、書物はとても貴重なのでしょう?」
「はい。製紙の技術がまだとても低いので。エレセータではもっと質のいい紙が作れるんですよね?」
「質がいいかどうかはわかりませんが、たくさん作られていることは確かです。王宮に蔵書を集めた部屋があるくらいですから」
「わあ、すごい」
 輝いた目をしてリューネは手を打ち合わせた。どうやら読むことが好きらしい。だがセフィードには、若い女官が私有できるような安価な本はなかった。
 シルファが繰り返し読んでいるこの本も、実はかなり価値のあるものなのだろう。これを持ってきてくれた人物のことを考える。今日ももう終わるが、また東の宮には帰ってこないのだろうか。
「もう休みましょうか」
 はい、とリューネが答える。
 もともと寝室で本を読んでいたので、眠る準備はほとんど必要なかった。リューネが寝台と明かりを整え、不寝番の確認を済ませたらいつでも休める。
「では、お休みなさいませ」
 リューネは一礼した後、主の寝室から立ち去った。
 一人になってからも、シルファは寝台には移らなかった。
 輿入れからずっとこの寝室で休んでいる。セレクが帰らない日が続いても、他の部屋を使うことはなかった。東の宮には他にいくらでも部屋があったが、セレクと使うために用意された場所を、一人で使い続けていた。
 今日もおそらく一人だろう。
 シルファは椅子に腰かけたまま、読み終えた本に再び目を落とした。
 リューネの言うとおり、エレセータでは製紙の技術がかなり進んでいた。本が貴重であることは変わらないが、王宮では読むものに困らないほどには蔵書が豊富だった。シルファもそうだが、末の妹フェルアリーナはもっと読書が好きだった。特に物語を綴ったものがあると喜んで、作法の勉強を放り出して読みふけっては、両親や教師に叱られていた。
 その様子が目の前によみがえって、一人くすくすと笑う。
 シルファの輿入れが決まった時、妹は『お里帰りなさる時は、セフィードの本をもらってきてください』などと言っていた。敵国に王女を送るという緊張の中、末娘の無邪気さは王宮の誰もを和ませた。今でもきっと、シルファがいなくなった分を補って余るほど元気にしているだろう。
――私がいなくなっても……。
 両親と姉と弟妹たちは、今も変わらずエレセータの王宮にそろっている。
 しかしシルファは、このセフィードにたった一人だ。
 信頼できる側近は付いてきてくれたし、セフィードの女官であるリューネとも仲良くなれた。しかし、家族と呼べる者はいない。
 本を見つめる目の焦点が揺らぎ、表紙に綴られたセフィード文字が読めなくなった。シルファは慌てて目をこすった。そろそろ休んだほうがいいだろう。
 寝台に腰かけた時、その音が耳に飛び込んだ。誰かが扉を叩いている。入り口を守っている番兵だろう。緊急のことでないならば、リューネが何か忘れ物をして戻ってきたのかも知れない。
 シルファはフィーラを腕にかけながら、扉に向かった。
「どうぞ。何用ですか」
 シルファが歩み寄ると同時に扉が開く。
 目の前に現れた人物を見て、シルファは立ちすくんだ。
「遅くにすまない。もう休んでいたか」
 彼はシルファを見ると、微かに笑みを浮かべた。
 シルファはしばらくぼんやりした後、首を振りながらセレクに言った。
「……お帰りとは思いませんでした」
「久しぶりに政務が早く片付いたから」
 早くと言っても、今はほとんど深夜だ。それでもここ数日に比べたらずいぶん早いほうなのだろう。シルファが休む前にセレクが帰ってくるのは、本当に久しぶりだった。
 シルファは声をかけようと口を開きかけた。伝えなければならないことは、いくつもあるはずだった。だがセレクの顔を見ると、言葉は浮かんだそばから消えていく。重たい沈黙だけがそこに残った。
「元気にしていたか」
 逆に沈黙を破られ、シルファは居心地の悪さに目をそらした。
「何日も放っていてすまなかった」
「いいえ」
 放っておかれたと言っても、シルファは側近に守られて気楽な日々を送っていた。政務に追われて何日も帰れないセレクのほうが、ずっと大変だったはずだ。
「結界のことでも心配をかけた。だがあれから異変は見られないし、大丈夫だ」
「ええ。わかっております」
 瘴気が入り込めば、再び水が狂って王宮や都に牙を剥く。しかしシルファがこうしていられるのだから、セレクの結界は確かに地上を守っている。
 むしろシルファは、セレクこそ大丈夫なのかと問いたかった。政務に追われて疲れている身で、以前にも増して魔力を使えばかなり消耗はひどくなる。
「この国に来てくれて間もないのに、構ってやれないばかりか不安な思いをさせて本当にすまない」
 セレクの声は真摯だったが、シルファはうつむいたまま言葉を返せなかった。
 それより、セレクをいつまでもここに立たせていてはいけない。中に入るよう促して、疲れた身体を休めるようにすすめなければならない。北の宮から出られないほど忙しかったセレクが、何日ぶりかに帰ってきたのだ。リューネを下がらせたばかりで、部屋の準備も整っている。
「――シルファ?」
 沈黙を続ける妃をいぶかしんだのか、セレクが身を屈めて覗き込んだ。シルファはほぼ反射的に引き下がった。同時に顔を上げたので、セレクと視線がぶつかった。
「シルファ――」
「お疲れさまでした」
 呼びかけを遮って、シルファは口を開いた。これ以上セレクの声を聞くのが辛かった。
「結界のことでお忙しかったのでしょう。私は大事ございません。ですから」
 続きを言ってはいけないと、頭の中で自分の声を聞いた。しかしそれは、口に出した言葉に一瞬で打ち消された。
「ですから、お帰りにならなくてもよろしいのです。いつ寝首をかくか知れない妃の側では、お疲れは癒えないでしょう」
 セレクの顔が凍り付くのが、はっきりとわかった。
 それでもシルファは、目をそらさずに見つめ続けた。明かりを落とした薄暗い部屋の入り口で、二人は黙って向き合っていた。その短い時間が、永遠のように果てしなく思えた。
 これ以上、ここに立っていたくない。
 シルファがはっきり思ってからしばらく後、その願いは聞き届けられた。
 凍り付いたセレクの表情が、ゆっくりと動き出した。視線から力が消え、シルファを見る目は底なしの暗い色に変わった。ゆっくりと息が吐き出され、唇が動き始めた。
 彼が何を言おうとしているのか、シルファは知っていた。
「わかった」
 予想していた言葉は、聞いたこともないような低い声で呟かれた。今見ている光景が現ではないように思えた。
 しかしセレクははっきりとした現実の声で、言葉を続けた。
「他のところに行って休む。起こしてしまってすまなかった」
「いいえ」
 シルファは目をそらすまいと、動かずに立っていた。
「おやすみなさいませ」
「ああ。おやすみ」
 セレクは静かに答え、顔を背けた。最後に見たその表情は、もう笑っていなかった。
――行ってしまった。
 遠ざかっていくセレクの後ろ姿を、シルファは黙って見つめ続けた。やがてその背中が暗い廊下の奥に消えても、扉を開けたまましばらくそこに立っていた。
――本当に、行ってしまった……。
 呆然と見つめた後、自分が失望していることに初めて気が付いた。
 はやくセレクから離れたいと思う一方で、それが聞き届けられないことをどこかで期待していた。セレクがシルファの言葉を否定し、説き伏せてくれるのを待っている自分がここにいた。
 しかしセレクは行ってしまった。帰らなくてもいいという、シルファの言葉をそのまま受け止めて。
 シルファは自ら扉を閉め、部屋の奥に戻った。
 二人用の寝室は不自然に広く見える。先ほどまでも一人でいたはずなのに。
 誰もいない空間を見つめて、シルファはぼんやりと立っていた。
 また傷つけた。嫁いできた自分を誰よりも気遣い、守ろうとしてくれた人を、ひどい言葉で振り払った。
 セレクが自分を信じようとしているのはわかっていた。北の宮で受けた文官たちの視線は冷たかったが、セレクだけはシルファを受け入れようとしていると知っていた。だがセレクはセフィードという国の上に立つ王子であり、セフィードは決してシルファをあたたかい目では見ていない。
 セレクだけは違うという願望に、いつまでも甘えてはいられなかった。現にセレクは、シルファを信じていない。だからシルファの言葉を否定せずに行ってしまった。
 シルファは寝台に腰を下ろし、そのまま横になって顔を伏せた。何もかもどうでも良くなった。セレクが行ってしまったことも、この国に受け入れてもらえないことも。
 偽りなく言えば、シルファもセレクを心から信じてはいない。シルファはずっと怖かった。会ったその日に嫁ぐことになった、敵国の見知らぬ王子。気遣ってくれているとわかっていても、側にいて完全に落ち着けることはなかったし、異国語での会話はひどく疲れた。
「姉上」
 シルファは目を閉じ、この場にいない姉を呼んだ。セフィードの光景を視界から消せば、懐かしい風の国を再び見ることができた。
「リーテ姉上。私は、約束を守れません」
 責務は忘れ、王子に愛されて幸せになりなさい。
 嫁ぐ前の日、ウィンリーテはそう言った。シルファも心からうなずいた。姉を安心させたかったこともあるが、自分でも同じことを願っていた。セフィードの王子と支え合って互いの国を結び、自分自身も幸せになりたかった。
 だが、そんな願いは幻想でしかない。
 シルファは声には出さず、何度も姉に謝った。
 ウィンリーテに会いたい。お里帰りの時は、と明るく送り出してくれた妹に会いたい。シルファと違い、世継ぎとしての使命を果たしているだろう弟に会いたい。初めて我が子を見送る時、見たこともない優しい顔を見せてくれた両親に会いたい。美しい旗が風と遊んでいる、あの暖かい国に帰りたい。
 寝台に顔を押し付けたまま、寝入ってしまえたら楽だった。しかし、眠りさえもすぐにはシルファを助けに来てくれなかった。
 この見知らぬ地上で、シルファは自分が一人になってしまったような気がした。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.