水晶の空 [ 2−6 ]
水晶の空

第二章 結界 6
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 早朝、セレクはまず水明宮に渡る。以前は一日に一度きりだったが、結界に亀裂が入り、瘴気が水を狂わせた日から、渡る回数は倍以上に増えた。結界の無事を何度も確かめ、また新たに魔力を加える。
 それから北の宮に戻って政務に手を付け、時間があれば王宮内や都を見回る。そしてまた水明宮に渡る。その繰り返しだった。
「王子。区切りのいいところでお休みください」
 文官の一人が声をかけてきたのは、夜も更けたころだった。
「――まだ始めたばかりではないか?」
「四の刻ほど机に向かっておられました」
 我に返って窓のほうを見ると、暗いと思っていた空が少しずつ明るみ始めている。執務机に向かったのは、まだ王宮が寝静まっていないころだった。セレクは思わず今日の日付を数えてしまった。時間の感覚がなくなってきているらしい。
 水明宮に渡る回数を増やせば、政務の時間がどうしても夜まで及んでしまう。瘴気のことがあり、対処しなければならない問題も増えた。更に各地の混乱を鎮めるため、文官の何人かを地方に送っている。時間も人手も足りない状態だ。
 その日の執務が終われば文官たちは帰していたが、セレク自身は北の宮から出ることはなかった。出ても数時間で戻ることになるし、水明宮にも渡らなければならない。近くにある仮眠室で休めば十分だった。
「日の出まで、わずかですが時がございます。今のうちに少しでもお休みください」
「ああ――これを片付けたら仮眠室に移る。皆は先に休め」
「しかし」
「私のほうもすぐに終わる。二の刻後に再び集まってほしい。それまでしっかり休んでおいてくれ」
 セレクが明るく告げると、部屋にいた文官たちは代わる代わる頭を下げて立ち去った。皆、セレクより十も二十も年長の者だ。一年前までは父王の下で仕えていた。
 ギルロードを残し、すべての文官が立ち去ると、セレクは手にしていた書類を机上に置いた。おそらく今日は、この執務室で夜明けを見ることになるだろう。
「王子」
「何だ」
「アクシスから伝達の者が参りました」
 セレクは俯けていた顔を上げた。
「義母上か。内容は?」
「王のご容態は一進一退。風が冷たくなりましたゆえお住まいを移された他は、特にお変わりはないと。王女がたもお元気なようです」
「……そうか」
 アクシスは首都リュークより西南にある小さな街だ。一年前から、セフィードの王はそこで療養生活を送っていた。後妻であるアイネリア王妃と、二人の王女も一緒に。
「返事を送ろう。後で書くものを持ってこさせてくれ」
「政務に関するご連絡は」
「すでに書類にまとめた」
「今回の件に関してはいかがいたしましょう」
 セレクはすっと表情を凍らせた。
 ギルロードが言うのはもちろん、結界の異変のことだ。
「使者の口上で、義母上には伝えさせよう。父上のお耳には入らないようにしてくれ」
「かしこまりました。ところで、お妃のご様子はいかがですか」
 セレクはわざと大げさに顔をしかめた。
「おまえのほうがよく知っているだろう」
「私は妹から報告を受けているのみでございます」
「侍女からの連絡なら私も聞いている。顔はもう何日も見ていないが」
 瘴気が入り込んだ日から、セレクはほとんど東の宮に戻っていない。まれに空いた時間に足を運ぶこともあるが、不規則な時刻なのでシルファとはすれ違ってばかりだった。嫁いで来て間もない妃は、王宮の中を渡り歩いて時間を潰しているようだ。
「ギルロード」
 セレクは久しぶりに、副官を正式な名で呼んだ。
「シルファは我が国に刃を向けたりはしない」
「……まだ何も申しておりませんが」
「おまえは目がいつも語っている」
「こちらが申し上げる前にわざわざ否定なさるのは、ご自身がそれを信じたくないからでは?」
 淡々とした口調だったが、セレクは副官を睨んだ。
「今の言葉は、おまえでなければ不敬罪で罰していたぞ」
「地位を盾に言い返されるとは珍しい」
「シルファは和平のために来てくれた。セフィードの仇となることなど何もしない」
 思わず声を上げたセレクを、ギルロードは表情も変えずに見つめている。この副官はいつもこうだ。淡々と言葉を返してくるだけなのに、なぜかこちらの神経を逆なでする。だが声を荒げてしまうのはセレクのほうだけだ。
 セレクはため息をつき、自分を落ち着かせるために口を閉ざした。
 ギルロードはシルファがやってきたその日から、エレセータの王女に目を光らせていた。敵国から和平のために嫁いできた妃を、最初から疑っていた。
 それはギルロードだけのことではないと、今回のことでセレクは初めて気が付いた。セフィードの人間がシルファに向ける目には、猜疑と恐怖、そして異質なものを疎む心がはっきりと浮き上がっていた。
 そんな視線を、あの時シルファに直接触れさせてしまった。結界の異変を聞いて、見知らぬ北の宮まで自ら来てくれた妃に。
「リューネからの報告によれば、目の届く範囲ではシルファーミア妃に疑わしい点はお見受けできないようです」
「ではなぜ根拠もなく疑うんだ」
「王子こそ、なぜ根拠もなく敵国の王女を信じられるのです」
「私はシルファと何度も話している。まっすぐで優しい姫だ」
「シルファーミア妃ご自身は善良なお人柄をお持ちかも知れません。しかし王子は、その後ろにエレセータという国があることをお忘れですか」
「……国」
 久しぶりに聞く敵国の名を、セレクは噛みしめた。セレクの訪れたことのない国。そこでシルファは十七年間も暮らしてきた。考えてみれば、嫁いで来る前のシルファのことはあまり聞いたことがない。
「和平のための婚姻と仰いますが、エレセータが花嫁と偽って刺客を送り込んでいるのではないと言い切れるでしょうか」
 首筋に氷を当てられたような気がした。
 そして、そのことに愕然とした。
「生まれというものは、個人が思っているよりもはるかに根深いものです」
 追い討ちをかけるように、ギルロードの言葉が響く。
「あなたはエレセータを敵として育ち、シルファーミア妃は我が国を敵として育たれた。ただ婚姻を結んだだけでそれらを覆せるとお思いになるのが間違いなのです」
「……もういい」
 セレクは副官から目をそらし、低い声で呟いた。
「おまえも一度休め。義母上への返事は後でいい」
「は」
 ギルロードは一歩下がり、一礼してセレクに背を向けた。扉に向かう途中、一度だけ振り返り、思い出したように付け加えた。
「王子も少しはお休みになったほうがよろしいと存じます」
 そのまま、主の返事を待たずに出て行った。
 一人になったセレクは、開け放たれた木戸から外を見た。
 シルファは東の宮にいる。いくら早起きでも、さすがにまだ起きてはいないだろう。二人に用意された寝室で、一人で休んでいる。目を覚ましてもおそらくこれと言ってすることはない。
 心細い思いをしていないだろうかと考える。時間に余裕があれば、少しでも側にいて言葉をかけてやりたい。だが一方で、セレクがいないほうがシルファは気楽かも知れないと考える。
 セレクが帰らずとも側近たちが付いている。彼らは皆、祖国から共にやってきた者たちだ。
 セレクは我に返り、前に置いた書類の束を見た。
 どちらにしても、当分は東の宮に向かうことができない。通常の政務に瘴気の問題が重なり、やるべきことは山のようにある。守らなければならないのはシルファだけではない。
「……しっかりしろ」
 ぼんやりした頭を横に振る。
 文官たちが戻るまでにこの仕事を片付けなければならない。その後は水明宮に渡るつもりだ。
 セレクは再び、書類の文字を目で追い始めた。


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