水晶の空 [ 2−5 ]
水晶の空

第二章 結界 5
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 結界に亀裂が入り、その翌日には、瘴気が入り込んで王宮を襲った。その事実は瞬く間に都中に広がり、セフィードの民を震えさせた。
 セフィードが王国という形を成してから、三百年近くが経とうとしている。その間、王族は、神鳥から託されたという魔力で、瘴気から民を守ってきた。
 人々の記憶にある限り、それが崩れたことは今回が初めてだった。
 セレクはそれから数日の間、一日に何度も水明宮に渡り、結界の様子を確かめ、それに力を加えた。その合間に北の宮に向かい、いつも通りの政務をこなす。少し時間ができれば、王宮内や都を見回り、混乱が起こらぬよう対処する。東の宮に戻り、シルファに顔を見せることはほとんどなかった。
 シルファの過ごし方は、異変が起こる前とほとんど変わらなかった。外出こそ抑えられたが、王宮内であれば好きに出歩けるし、時間も限られていない。セフィード語の本を読み、リューネたちと話して時間をつぶしていた。王族としての公務は何もなかった。

 今日もシルファは暇を持て余し、日が高くなる前に東の宮を出ることにした。瘴気が入り込んだ日から八日経つ。セレクが持ってきてくれた本は、一通り読んでしまった。もともと会話をかなり叩き込んでいたので、セフィード語の読み書きを覚えるのはそう難しくなかった。
 日課をなくしてしまったシルファは、久しぶりに外に出たくなった。王宮内は自由に歩いていいと言われたが、結界に異変が起きて以来、東の宮から出ることはなかった。セレクに会いに北の宮まで渡ったあの日を除いては。
「どこに行きましょうか?」
 外出着に着替えたシルファに、リューネが隣に来て声をかけた。
 エレセータの侍女たちも以前と変わらず仕えていたが、ここずっと率先してシルファに付いているのはリューネだった。シルファがセフィード語でしか話さないようにしているためだろう。祖国から連れてきた側近のほとんどは、シルファほどセフィードの言葉に慣れていなかった。
「特に決めていないのです。リューネはどこか良いところを知っていますか?」
「ええと……王宮の中で、ですよね」
 小柄な侍女は歩きながら、真剣に考え込んでいた。
 シルファは首を動かし、数歩後から付いてくるラウドに目を移した。あまり大勢を連れ歩きたくなかったので、今日の共はこの二人だけだ。本当ならリューネだけでもいいくらいだったのだが、ラウドが護衛は必要だと主張し、リューネや他の侍女たちもそれに賛同した。
「あ、西の宮の水時計はどうでしょう。まだご覧になっていませんよね?」
「水時計」
「ええ。王宮で一番きれいな場所だと思います。あ、一番は水明宮でしょうから、二番めですね」
「では、そこにしましょう」
 シルファがうなずくと、リューネははいと返事して小船の手配に向かった。
 東の宮の出口で待つように言われたシルファは、ラウドと並んで立っていた。正確に言うと、ラウドは歩いていた時と同様、シルファより数歩下がった位置にいた。
 ラウドと二人きりになるのは久しぶりだ。最後はおそらく、船でリュークを観に行った日。結界に異変が起きたと最初に連絡を受けたのもその時だった。
「シルファーミアさま」
 始めに口を開いたのはラウドだった。
「大丈夫ですか」
「……何のこと?」
 わざとラウドのほうを振り向かず、短い言葉だけを返した。聞き返さずとも、ラウドの言いたいことはよくわかった。
「ごめんなさい。ラウドも何か言われたのね?」
「……いえ」
「隠されてももう知っているわ」
 瘴気が入り込んでから八日。不安に苛まれる王宮や都の人々は、それをもっともぶつけやすい相手にぶつけた。セフィード王宮にいる敵国の者。エレセータから嫁いで来たシルファと、その側近たちだ。
 セレクの魔術に欠陥さえなければ、結界が崩れるのは内側から故意に傷付けた時だけになる。そんなことを進んでしたがる人間はいない。もしいるとすれば、嫁いで間もない敵国の王女。セフィードの人間がそう考えるのは自然なことだった。
 最初に疑いの目を向けたのは、北の宮にいたあの文官たちだった。それは瞬く間に王宮中に広がり、シルファだけではなく側近たちにまで及ぶようになった。ラウドは王子の妃の護衛として近衛隊に所属しているが、その中での居心地は決して良いものではないだろう。
「ごめんなさいね。ラウドにまで辛い思いをさせて」
「私のことはいいのです。ただ、シルファーミアさまがこのような目に遭われるのはやり切れません」
 ラウドは声を高めた。いつの間にか彼はシルファの隣に来ていた。
「祖国を捨て、生涯を犠牲にして、敵国に嫁がれたのは二国のためだと言うのに。それをこの国の者は理解せず――」
「やめて。私は犠牲になったのではないと言ったでしょう」
「しかし」
「それに、ここの人たちの気持ちもよくわかるわ。彼らにしてみれば、敵国から来た見知らぬ者たちを内に入れているのですもの。いつ危険を及ぼされるかも知れず、とても不安でしょう」
「危険という点では我らも同じではありませんか。いえ、その程度を申せば我らのほうが不利でしょう」
「……どういうこと?」
「セフィードはたった数人の敵を抱えているのみです。ですが我々エレセータの者は、周りを敵に囲まれています。我々がセフィードに害を成すことができるのと同様、セレク王子とて、人質を盾にエレセータを攻めることが――」
「やめて! 言わないで!」
 ラウドは押し黙り、しばらくそのまま立ち尽くしていた。
 シルファは声を鎮めると、ゆっくりと息を吐き出した。だが、震えは治まってくれなかった。
 ラウドの言ったことは事実だ。自分が人質も同様であることは、嫁ぐ前からわかっていた。エレセータの王女を手に入れたセフィードは、いつでもそれを利用することができる。
 わかっていたが、わかっていないふりをしたかった。
 セレクはこの婚姻を和平のためだと言い、敵国から来たシルファをあたたかく迎えてくれた。あらゆる不安や危険から守ろうとしてくれた。そこに偽りや打算はないと、信じたかった。

 リューネが用意した小船に三人で乗り込み、西の宮に向かう。水路の途中から水明宮が見えた。婚礼を迎える前に、シルファはセレクに招かれてあの中に入った。セフィードに来た最初の日だった。もう遠い昔のことのようだ。
 セレクは今は北の宮の執務室にいるのだろうか。小船は水明宮の南側を進んでいるので、ここからその場所を見ることはできなかった。
「王子は大丈夫でしょうか」
 静かに呟く。
「ええ、心配ですね。とてもお忙しいようですし」
 リューネが同調してくれたが、シルファの耳にはほとんど入っていなかった。独り言に近い自分の声だけが、水明宮に向かい、その先の北の宮に届くことなく消えた。
 セレクは今も結界のために魔力を使い、その合間は政務に追われている。今夜も東の宮に帰ってくることはないだろう。
 できるなら力になりたかった。だがシルファはもう、それを申し出ようとは思えなくなっていた。
 ただ時間を持て余し、ここからは見えない北の宮のことを想うだけだった。


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