水晶の空 [ 2−4 ]
水晶の空

第二章 結界 4
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 ギルロードがシルファに用意した部屋は、北の宮にある仮眠室の一つだった。
 東の宮にある寝室の半分ほどの広さ。室内には簡素な寝台と、小さな机があるだけだ。壁や床には何の装飾もない。
 シルファは寝台の端に座り、見慣れぬ部屋の朝の風景を見つめていた。
 大きな窓から差し込む光は遮られずにすべて中に届く。その明るさが、かえって部屋を殺風景に見せていた。
 政務を夜通しで行うことも少なくないらしく、この宮にはこういった部屋がいくつもある。シルファが案内されたのは二階の端の間だった。
 セフィードに嫁いでから、自分の寝室以外で眠ったのは初めてだ。昨晩が眠ったうちに入ればの話だが。
「シルファーミア妃」
 扉を叩く音とともに名を呼ばれた。細い声や、衛兵も介さずに入ろうとするところを考えると、浮かぶ顔は一つしかない。
「どうぞ」
 促すと扉が開き、リューネが入ってきた。片手に水差しと器を抱え、もう片方の手は大きな包みを載せている。
「おはようございます。お着替えなどを持ってきました」
「ありがとう。助かります」
「よくお眠りになれましたか?」
 シルファはゆっくりと首を振った。
 まだ頭がぼんやりしている。明らかに疲れが抜けていないが、再び横になろうとは思えなかった。眠ろうとしてもすぐに目が覚めてしまうのだ。昨夜もずっとそうだった。慣れない国の更に慣れない部屋と、昨日の間に起こった様々なことのために。
「急にこんなことになって大変でしたね。でも、もう宮の外に出ていいそうですから」
 明るく微笑むリューネに、シルファは軽く目を開いた。
「本当ですか?」
「ええ。だから私はここに来られたんです」
「結界は……? もう大事ないのですか?」
「はい、もうすっかり! セレク王子が直してくださいましたから」
 セレクの名を聞くと、一瞬だけ身体が震えた。
 リューネはシルファに背を向けて、水を器に注いでいる。シルファはそれに感謝しながら、懸命に震えを止めた。
「北の宮は殺風景で気が滅入りますよね。お支度したら東の宮に戻りましょう。私も早く帰りたいです」
 こんな時でも、リューネは明るくしゃべり続けている。聞き入っているうちに水を張った器が差し出された。
 シルファは水面に映る自分をじっと見つめた。仮眠室の窓は閉まっているので、外の様子がどうなっているか確かめることはできない。
 以前、亀裂が入っただけでも、セレクは夜明け前まで帰れないほど多忙だった。瘴気が入り込んだとなるとどうなるのだろう。
「この水は襲いませんよ」
 あてもなく考えていると、リューネの声に我に返らされた。顔を上げると、侍女は控えめに苦笑を浮かべている。
 慌てて器を置き、その中に手を浸す。程良い冷たさに頭も身体も冴えてきた。
「他の侍女たちはどうしていますか?」
 手を浸けたまま、シルファはリューネに聞いた。
「東の宮で待っています。シルファーミア妃のことを心配していました。北の宮には来づらいようなので、私が来ましたけれど」
「心配をかけました。勝手なことをしてごめんなさいね」
「いいえ。異変を聞いてすぐに駆けつけるなんて、さすがセレク王子のお妃です」
「――何もできなかったのに?」
 シルファは声を低めた。
 リューネは一瞬だけ表情を引いたが、すぐに微笑して首を振った。
「セフィードに来られて十日も経たないのに、北の宮に向かわれただけで素晴らしいです」
 セフィードの侍女は愛らしい顔をほころばせ、てきぱきと仕事を進めた。シルファはその手元を漠然と見つめていた。小さな手がシルファのために衣装や飲み物をそろえている。
 リューネはセフィードに来て初めて気兼ねなく向き合えた相手だ。だが彼女はあのギルロードの妹で、何よりセフィードの人間だった。この北の宮でシルファは落ち着かず、エレセータの侍女たちも来るのをためらったのに、リューネは何の屈託もなく過ごしている。意識していなかったことが急にのしかかってきた。
「リューネ」
「はい?」
 振り向いたリューネのあどけない目を見て、シルファは声を押し込めた。
「いいえ。何でもありません」
 小さく首を傾げるリューネに微笑み返したところで、再び扉を叩く音がした。
「はい」
 リューネが小柄な身体を弾ませて扉に向かう。
 番兵との取り次ぎが行われている間に、シルファは器の水面から手を取り出した。手巾はまだ用意されていなかったが、それらしき物が目に付いたので取り上げて手を包んだ。
「ええ。もうお目覚めですから、どうぞお入りください」
 手巾を再び置いた時、リューネの声がした。
 シルファは身を硬くしながら立ち上がった。
「どなたですか?」
「セレク王子です」
 予想通りの答えが返ってきた後、やはり予想通りの姿が現れた。
 セレクは政務の時の衣装のままだった。休んでいないのだろう、顔色は良くなかったが、足取りはしっかりしている。リューネに会釈した後、立ち上がったシルファの前に歩いてきた。
「おはようございます」
「おはよう。眠れたか」
「ええ……」
「こんな場所に引き止めてすまなかった。ここは仮眠のための部屋だから殺風景だろう。北の宮には女官もほとんどいないし、不自由をかけた」
 セレクは軽く身を屈め、目の高さをシルファに合わせてゆっくりと話した。いつもの彼ならば、明るく笑いながら軽口を交えて話す。気遣っていることを表に出さないように。しかし今のセレクは表情を強張らせ、一つ一つの言葉を確かめるように紡ぎ出した。
 シルファは顎を引き、視線を少しだけ落とした。セレクと目を合わせることが、どうしてもできなかった。
「いいえ……。王子こそ、休んでおられないのでは」
「私は慣れているから大事ない。結界も無事に直せた。まだ油断はできないが、今なら外に出ても安全だ」
「良かったですね。東の宮に戻りましょう」
 横から、リューネの声が飛び込んだ。
 シルファはようやく顔を上げ、侍女に向かって小さくうなずいた。だが、セレクを見ることはやはりできなかった。
「船は用意させてある。準備ができたら、外にいる護衛に言ってくれ」
「王子はどうなさるのですか?」
「このまま北の宮に残る。昨日はほとんど政務に手を付けられなかったから」
 二晩も続けて眠っていないのに、まだこの王子には山ほどの仕事があるのだ。政務にしろ結界にしろ、この王宮に彼の代わりができるものはいない。
 できることがあれば力になりたかった。だがシルファには、もうそれを申し出ることはできない。
「本当に心配をかけた。東の宮に戻ったらゆっくり休んでくれ」
 セレクが柔らかい口調で語る。彼こそがおそらく、ゆっくり休まなければならない顔をしているはずだ。
 シルファが黙ってうなずくと、セレクは安心したのかそれ以上は言わなかった。そのまま、シルファから離れて歩き出し、部屋を出て行った。
 シルファは一度も、セレクと目を合わせられなかった。
――ひどいことを言ったのに。
 抱きしめられた時のあたたかさは、一晩経ってもはっきりと覚えている。しかしシルファはそれを振り払った。
 自分が何のためにここにいるのかわからなくなった。本当にここにいていいのかすら、今のシルファにはわからなかった。


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