水晶の空 [ 2−3 ]
水晶の空

第二章 結界 3
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 侍従に案内されたシルファは、セレクの執務室に向かって歩いていた。北の宮に来たのは初めてだ。政の中枢であるこの宮では、王族や文官が政務を執っている。
 やや足早に通路を横切り、小さな扉の前に辿り着いた。侍従が取り次いだ後、扉を開けてシルファを促してくれた。シルファは室内に向かって、深く頭を下げた。
「シルファ?」
 声を上げたセレクは、右手にある執務机の側に座っていた。
「失礼させていただきます」
 執務室にはセレクだけでなく、数人の文官や侍従もいた。彼らの視線が集まるのを感じながら、シルファは中に進み入った。
「……来てくれたのか」
 セレクが立ち上がりかけながら言う。
 シルファはこくりとうなずいた。
「侍女から知らせを受けました。ご無事だと聞いていますが、本当ですか?」
「ああ。私も部下にも怪我はなかった」
「何が起こったのでしょうか……?」
 問いかける声が沈んだ。
 セレクが執務室で危険に襲われたと聞いて、思わずここまで来てしまった。だが詳しいことは聞かされていなかった。危険というのがどういう状態だったのか、シルファは何も知らない。
 問われたセレクは、少し間を置いて目をそらした。
「シルファーミア妃、まずはお座りください」
 隣から声とともに、小さな椅子が差し出された。ギルロードが落ち着いた様子で側に立っていた。
「すぐにお飲み物も用意させますので」
「ありがとう。でもこのような時に、構わないでくださって結構です」
「お妃が執務室までお越しになる必要はありませんでしたが」
 ギルロードは素っ気なく言った。
「王子」
 侍従がセレクの前に来て膝を折った。
「王宮と都の全域に伝令を送りました。今の段階では異変が起きたという知らせは届いておりません」
「わかった」
 侍従を労って下がらせると、セレクは立ち上がった。
「水明宮に渡る。ギルはここを頼む」
「かしこまりました」
 ギルロードや文官たちが動き出す中、シルファは椅子の側で取り残されていた。セレクに声をかけようと近づくと、彼のほうが振り向いて言った。
「すまない、シルファ。これから水明宮に行ってくる。私が戻るまでここで待っていてほしい」
「ここで、ですか?」
「執務室が居辛ければ、他の部屋に移ってくれてもいい。とにかく北の宮からしばらく出ないようにしてほしい」
「何があったのですか?」
 思わず聞き返さずにいられなかった。
 セレクはシルファを見つめたまま、声を落とした。
「……まだ憶測だが、おそらく瘴気が入り込んだ」
 シルファは無意識に息を止めた。
 セフィードに来てからの短い期間はもちろん、エレセータにいたころもこんな事態には出遭わなかった。エレセータでは父と姉が、セフィードではセレクが結界を張り、それぞれの国を守っているはずだった。それが崩れるなど、シルファには想像できないことだ。
「……それで、先ほどは……」
 必死で自分を落ち着かせながら、シルファは疑問の断片しか口に出せなかった。
「――水が突然暴れ出した。とっさに魔力で鎮めたが、それが失敗したら無事では済まなかっただろう」
 瘴気はそれ自体が有害なわけではない。恐ろしいのは結界を破って入り込むと、地上の自然秩序を狂わせてしまうことだ。流れていたものが滞り、安全なものが危険になり、盾であったものが剣となる。
 今回は、セフィードにとってもっとも神聖なものである水が、王宮に牙を剥いた。
「だからシルファ、心配がなくなるまで動かないでほしい。私の側近から護衛を付けるから、この宮を出ないようにしてくれ」
 シルファは震えを抑えてうなずいたが、セレクが離れていこうとすると、我に返って引き止めた。
「何か私にできることはありませんか? お助けさせてください」
「シルファ。今はいいから待っていてくれ」
「私だけ守られているのは耐えられません。せっかく北の宮まで参ったのですから、私にもご命令をくださいませ」
「……ここにいて自分の身を守ってくれ。それが命令だ」
 セレクは背を向けて再び動き出した。口を挟む間もなかった。
「ギル、シルファを別の部屋へ。侍従と衛兵を数人ずつ付けろ」
「かしこまりました。シルファーミア妃、しばらくお待ちを」
 ギルロードが一礼して、執務室を出て行った。近くにいた文官がシルファに座るようすすめてくれる。その間もセレクや部下たちは慌しく動いている。
 シルファはその光景を、黙って見つめていることしかできなかった。促されるままに椅子に腰かけたが、落ち着いて座れる気がしない。膝の上で軽く手を握りしめる。ここにこうして座っている自分は嫌だが、立ち上がってもどうすることもできない。
「瘴気が入り込んだのは、やはり昨日の亀裂が原因でしょうか」
 文官の一人がセレクに聞いていた。
「おそらくそうだろう」
 セレクは声を低める。
「魔力を加えておいたが、まだ足りなかったようだ」
「しかし王子。それほど容易く結界が壊れましょうか」
「そうです。王がお倒れになってから二年経ちますが、一度とてこのようなことはございませんでした」
 その場にいた者が口々に続ける。
 すぐにでも部屋を出ようとしていたセレクは、改めて向き直り、まっすぐ彼らを見た。
「どういう意味だ」
「結界の亀裂は自ら生じたのではなく、別の魔力によって創られたのではと」
 しばらく間を空けて、セレクは苦笑した。
「瘴気を好んで招き入れようとする者がどこにいる?」
 部下たちは答えなかった。
 この沈黙を、シルファは椅子の上から見守っていた。どう読んでいいのかわからず、口を挟むこともできなかった。
 だが不意に、セレクの前にいた部下の一人が、首だけ動かして視線を向けた。一瞬のことだったが、シルファと彼は確かに目を合わせた。
――私はしていない。
 思わず叫びそうになった言葉をかろうじて飲み込む。疑いを告げられたわけでもないのに、反論することはできない。だが、セフィードの文官たちが何を考えているかは手に取るようにわかった。
 セレクはシルファと部下たちを見比べた後、口を開きかけた。
 それを遮ったのは、扉を開いたギルロードの声だった。
「部屋の準備が整いました」

 北の宮の通路を侍従に付いて歩き、ギルロードが用意してくれた部屋に向かう。後ろからセレクが付いてきているのはわかっていたが、シルファは黙って歩き続けた。
「シルファ」
 呼び止めるセレクの声は無視していた。というより、応えることができなかった。いつもの顔で振り向き、いつもの声で聞き返す自信がなかった。
「シルファ」
 部屋の前に着いた時、セレクが再び呼んだ。シルファは振り向かずに中へ進む。セレクもそのまま後を追ってきた。
 部屋には侍従も兵士もいない。案内してくれた者も、セレクが下がらせたのか入ってこなかった。この場にいるのはシルファとセレクだけだ。
「シルファ、返事をしてくれ」
 セレクがとうとうシルファの腕をつかみ、振り向かせる。しかし口調は決して強くはなかった。
「申し訳ありません……」
 シルファはそれだけ言ってうつむいた。セレクの顔を見ることができない。自分がどんな目をしているのか想像したくもない。
「シルファ、先ほどのことは……」
 セレクが言いかけたが、シルファは首を振って遮った。
「気にしておりません。私は平気ですから、お構いにならないでください」
「すまない。あんな場所に立たせるつもりはなかった」
「ですから平気です。どうぞお行きください。水明宮へ急がれるのでしょう」
「彼らも本気でシルファを疑っているわけではない。瘴気のことがあって動転していただけだ」
「わかっています。疑われても仕方がありません。私は……この国の者ではありませんから」
 うつむいたまま、シルファは語り続けた。一度口を開くと、抑えていたものまでが溢れ出す。言うべきではないとわかっていても止められない。
「私はエレセータの人間ですから。王子の妃として、何の役にも立っていませんから」
「すまない、本当に……」
「ですから、気にしておりません! 早く水明宮へ。私にお構いになる必要はございません」
「シルファ」
「早くお行きください――」
 なぜ途中から言えなくなったのか、一瞬わからなかった。
 気が付くと視界が遮られていた。セレクの姿が見えない。
「すまない……」
 かすれた声が真上から聞こえる。シルファは自分が、セレクの腕の中にいることを知った。
 堰を切ったように流れていた言葉は、一瞬でどこかへ消えた。
 回された腕は、壊れものを抱くようにシルファの背を包み込んでいた。静かで、あたたかい。守られていることを全身で感じられる。
「シルファ」
 そのまま目を閉じそうになっていたシルファは、セレクの声に呼び戻された。腕を外し、逃れるように一歩退く。
「慰めているおつもりですか」
 見開いているセレクの目を見上げ、はっきりと告げる。
「あなたに慈しまれるために、敵国から嫁いで参ったのではございません」
 その時のセレクの表情は、シルファが一度も目にしたことのないものだった。顔つきそのものはほとんど変わっていない。閉じられた口元は怒りも微笑も表さず、言葉を紡ごうともしない。
 しかし、動かない表情の中で、灰色の瞳だけが痛いほどシルファに訴えていた。
 傷つけてしまったと、はっきりわかった。
 シルファは無意識に口元を覆った。手が震えている。
「申し訳……」
 言葉は声にならなかった。代わりに、両目に積もった涙が目の前を曇らせた。
 霞んで見えるセレクが手を伸ばし、近付こうとする。シルファはとっさに一歩下がった。セレクの手が止まる。
――泣いてはいけない。
 必死で自分の目に言い聞かせる。息を殺し、手の下で唇を結ぶ。
 セレクの前でだけは泣きたくなかった。エレセータの王女として、二国の和平のために嫁いで来たのだ。セフィードの王子とは対等に向き合い、互いのために力になりたかった。
 だからこそ、今もこうして北の宮まで来た。だがシルファは安全な場所に留め置かれ、セレクの負担を増やしただけだ。何の力にもなっていない。それどころか、セフィードに害を成したと疑われてさえいる。
 それも当然なのだろう。セフィードの者から見れば、数日前に嫁いで来たエレセータの王女など、得体の知れない小娘に過ぎない。信頼され、助けを期待されると思うほうが間違っているのだ。
 ここは生まれ育った祖国ではない。
 婚礼の前、気遣いを沿えて送り出してくれた姉を思い出し、シルファは自分を責めた。幸せになってほしいと、ウィンリーテは言った。シルファはそれにうなずき、同時に自分の立場の重さも心得たつもりだった。だが実際はこうだ。
 姉の顔が胸に浮かんだ瞬間、熱くなった目から涙がこぼれ落ちた。
「シルファ」
「行ってください!」
 セレクから顔を背ける。こらえていたものが堰を切り、涙が溢れ出た。
 セレクはもう、シルファに触れようとはしなかった。ただ離れたところで立ち尽くし、泣き続ける妃を黙って見守っている。
 その距離がどうしようもなく遠く見えた。
 シルファはセフィードに来て初めて、息を詰まらせて泣いた。


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