水晶の空 [ 2−2 ]
水晶の空

第二章 結界 2
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 日が昇ってから、セレクは北の宮の一階で政務を始めた。
 国王の執務室は二階にあるが、そこは空けてある。二年前に統治を任された時、セレクはその真下に自分の執務室を用意させた。
 ほとんど眠っていないので早朝は辛いと思ったが、少し時間が経てば逆に頭が冴えてきた。徹夜は珍しいことではないし、そのたびに今のような状態になる。心身ともに慣れているのだろう。
「王子」
 一段落したところで、ギルロードが声をかけた。
「今日も都を見回られますか?」
「ああ。政務が終わってからだが」
「現在のところ、混乱や異変の報告は受けておりません」
「そうか」
 侍従が隣に来て、水の入った硝子の杯を差し出した。セレクは礼を言って受け取った。
 執務室は小さな部屋だが、そこにセレクとギルロードの他、四人ほどの文官が集まっている。
 セフィード王宮は水の上に建つ宮だ。水明宮と四宮の間にも水が広がり、一階の部屋はそのまま水の道に続いている。北の宮の外側に位置するここもそうだ。
 外に続く壁には大きな木戸があり、昼間それは開け放たれている。その向こうには、静かに満ちた水の大地が見える。部屋の床と水面の高さにはそれほど差がない。まさに水上の宮だ。
 今日は日差しが柔らかい。セレクは光を散らす水を見つめながら、杯を机の端に置いた。
 結界に亀裂を見つけてから一晩が経った。今のところ大事には至っていない。今夜いつものように魔力を加えれば、もう安心していいだろう。政務の後、念のためにもう一度都を見回り、その足で水明宮に向かうつもりだった。
「ギル」
 ふと思いついて、セレクは副官に声をかけた。
「書類はどのくらい残っている?」
「いつもと同じほどの量ですが」
「後に回せる分があれば明日にしてくれ。今日は早めに切り上げよう」
 執務室全体に言うと、そこにいた文官は皆、顔を上げた。
「珍しいことを仰る。都に出られるためですか?」
「それもあるが、今日はできるだけ早く東の宮に帰りたい」
 目を丸くしている彼らに、セレクは微笑んで見せた。
「妃が心配してくれている」
 部下たちの表情が目に見えて変わった。
「エレセータの王女は優しい姫だ。きっと良い王妃になってくれる」
 押し付ける気はなく、柔らかく言ったつもりだったが、部下たちは困ったように顔を見合わせた。ギルロードだけは例外で、セレクの言葉を聞いても顔を動かさない。この副官は他者の前で王子に意見することはまったくなかった。セレクは微かに苦笑した。
 その時、視界の端が歪んだ気がした。
 執務机に向かったセレクは、右手にある壁に目をやった。開いた木戸の向こうにある水面で、目に見える変化が起きていた。静かに光を受けていた水が小刻みに揺れ始め、やがて小さな波を生んでいく。
 セレクが立ち上がったのとほぼ同時に、一筋の水が宙に線を描いた。セレクは外に続く壁に走り寄った。目の前に水の矢が迫ってきた。
 一瞬の差でそれをよける。水の矢は開けられた木戸の端にぶつかり、飛沫をあげた。
 体勢を戻すと、再び水面から矢が放たれる。
「下がれ。部屋の外へ出ろ!」
 木戸を閉めようと隣に来た部下に、セレクは叫んだ。二本目の矢が部下の喉を狙って飛び込んできた。セレクが彼を引き倒すと、その上を矢がすり抜けた。
 背後で凄まじい音がした。振り向くと、執務机の上で水が弾けている。再びそこに矢が差し込んだ。水の矢は端にあった杯にぶつかり、硝子を貫いてその先で止まった。杯は岩のように砕け散った。
 執務室にいた者たちは、矢の行く先を見つめながら木戸の向かいに集まっていく。セレクは側にいた部下を立ち上がらせてそちらへ促すと、床の縁に立って水面に向かった。その間も水の矢は休みなく放たれる。
 部下たちの叫びを背に、セレクは矢を生み出す水面を睨んだ。水明宮にいる時のように、神経を一つに集中させる。
 数本の矢が肩先をすり抜けていった後、波がやんだ。宙に飛び出した矢は凍ったように静止する。そのまま空中で砕け散った。
 部下たちがいっせいに駆け寄ってきた。
 凶器を生んだ水面は、何事もなかったように静かに空を映している。異変が起こる前と変わらない、柔らかい光がその上に降り注ぐ。
 執務室の中では、水の矢を受けた木戸や机が傷つき、床の上には砂のようになった硝子が散らばっていた。
 側に来た部下たちがセレクの無事を確かめる。
 しかしセレクはそれに答えることもなく、水面を前に立ち尽くしていた。


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