水晶の空 [ 2−1 ]
水晶の空

第二章 結界 1
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 塔の上で揺れている旗たちが見える。彼らを動かす風の手が、そこに在るようだ。そう思うだけで、優しい風に包まれているような気持ちになれる。
 シルファは気付かぬうちに微笑んでいた。
 しかし、次第に旗たちがかすんでいく。風の手がシルファから離れていく。
――もう少しだけ――。
 必死で留まろうとしているうちに、視界が入れ変わった。いい加減に見慣れてきた低い天井。ここは故郷とは違う国なのだ。
 かすむ視界を見つめていると、突然、物音が耳に飛び込んだ。何かが揺れてぶつかるような音。一瞬で目が覚めて、寝台から身を起こす。
 少し離れた場所に、小さな机と椅子がある。その椅子に座ったセレクが机の上に顔を伏していた。
 シルファは寝台から飛び下り、その側に駆け寄った。その間にセレクは顔を上げていた。
「すまない。起こしてしまったか」
「いいえ――。いつお戻りになったのです?」
 結界に異変があったと知らされた昨日、セレクは東の宮に帰ってこなかった。いつもは先に休むシルファも、この日は遅くまで待っていた。結界のことを聞きたかったからだ。しかし、夜が更けてもセレクは姿を見せなかった。
「夜明けの少し前だ。シルファが起きるまでここで待とうと思ったのだが、つい眠ってしまった」
 椅子の上で背を伸ばしながらセレクは笑った。明らかに眠りが足りない顔つきだ。
「休んでおられないのですか?」
「執務室で少しは眠った」
「お忙しかったのですね」
「結界を直した後、都を見回りに出ていたから。それから政務にかかっていたら夜になってしまった」
「お疲れさまでした」
「いや。帰れなくてすまなかった」
 セレクは改めて居ずまいを正した。
「結界のことは、何か聞いているか?」
「心配はないとだけ、ギルロードどのが……」
 あの無愛想な副官は、シルファの居間まで来てそれだけ言い残していった。
「魔力が少し弱かったようだ。だが瘴気は入り込まなかった。結界にはすぐに力を加えておいたし、問題はない」
「そうですか……」
 肩の力が一気に抜けていった。
 一晩中気になっていたことだ。ギルロードの言葉だけでは、何があったのか推し測ることはできなかった。
 エレセータにいたころは、結界に異変が起こるなど考えられないことだった。父と姉の魔力で国は完全に守られていた。だから少しでもひずみが生じれば、ただごとでは済まされないような気がしてしまう。
 結界を張れる者が一人だけというのは、とても危ういことなのだ。セレクに何かあればセフィードはまったくの無防備になってしまう。
「大事がなくて良かったですね」
 シルファが呟くと、セレクは下を向いて笑った。
「本当にそうだ」
「でも、王子はお辛くありませんか? ただでさえお忙しいのに、何度も魔力をお使いになられて」
「心配はいらない。一人で国を守るようになって二年も経つのだから」
 セレクの笑顔に、シルファの気持ちは引き下がった。そう言われてしまうと何も言葉が返せない。セレクが一人で過ごしてきた二年間を、シルファは知らない。
 俯いてしまったシルファに、セレクはもう一度笑いかけた。
「気遣ってくれてありがとう」
 灰色の目がすっと細められる。
 シルファは微笑み返したが、どこかいたたまれなかった。本当に気遣われているのはシルファのほうだ。覚悟して敵国に嫁いできたのに、この王子は徹底して守ってくれる。
 できるならその優しさに報いたかった。だがセレクはそれを許してくれないし、シルファもまだ自信があるとは言い難かった。
 シルファの考えを読み取ったのか否か、セレクはゆっくりと立ち上がった。向かい合うと、やはりかなりの身長差がある。
 しかしその長身が、シルファの前でわずかに揺れ動いたように見えた。すぐに姿勢を取り戻したが、その顔から疲れの影は消えていない。
「王子」
 少し迷った後、シルファは口を開いた。
「……今日は、できるだけ早くお帰りになってください」
 精いっぱい言葉を探したが、言えたのはそれだけだった。何を言っても的外れか出すぎた口になってしまいそうだった。再びいたたまれなくなったシルファは、少しだけ俯いた。
 セレクはしばらくの間、口を開かずシルファを見つめていた。顔を見なくても、目を丸くしているのは雰囲気でわかる。そのままシルファの前に歩いてきた。
 向かい合って立つと、シルファは再び顔を上げた。セレクは黙って見下ろしている。やがて、その目元が少しだけ柔らかくなった。
 不思議に思ったその時、セレクの顔がゆっくりと近づいてきた。
 その次は一瞬だった。
「……ありがとう」
 再び離れたセレクは、二度目となる言葉を呟いた。シルファはその温かい声と視線を受けながら、呆然と立っているだけだった。
 セレクはそれを見て改めて微笑み、「着替えてくる」と言い残してシルファの前から消えた。
 足音が遠のき、扉が開いて再び閉まる音がしたところで、シルファは我に返った。手を持ち上げて、額の端にそっと触れてみる。
 頬が少しだけ熱くなった。そしてそのことに気がついて、慌てて首を振った。冷静になってもう一度考える。
 エレセータとセフィードでは風習が違う。一つの表情、一つの音声、一つの仕草を取っても、国が違えば時にはまったく異なる意味を持ったものとなる。だからセレクがしたことを、エレセータの感覚そのままで受け止めてはいけないのだ。
 今ここで起こったことは、エレセータでは愛情の表現である。セフィードではどういう意味を持つのだろう。
 シルファは同じ場所に立ったまましばらく考え込んだ。
 しかし、時間をかけても結論は出ず、途方に暮れることしかできなかった。


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