水晶の空 [ 1−9 ]
水晶の空

第一章 盟友 9
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 硝子でできた広い床と高い天井。時間さえ止まっているように感じられる、静かな空間。水明宮はいつもそんな空気に満ちている。
 セレクは中央の台の傍らに立ち、水盤を覗き込んでいた。
 王族は、結界を創る魔力を備えている。同時に、自分の創った結界の状態を感じ取ることもできる。
 セレクが結界に異変を感じたのは、北の宮での政務の最中だった。すぐに水明宮に渡り、こうして水盤と向き合っている。国内のすべての結界と繋がっている場所だ。
 セレクは水の上に手をかざし、目を閉じた。暗くなった視界に魔力を流す。セフィードを守る結界が目に視えるように。
 突然、水明宮に別の気配が差し込んだ。
 セレクは目を開けた。音を立てずに入ってきた影に、先に尋ねる。
「伝令は送れたのか」
 ギルロードは数歩離れた後方で立ち止まった。
「はい。無事に伝えました」
「王宮や都の様子は?」
「大きな混乱はないようです。伝令に従って屋内で待機するよう呼びかけていますが、瘴気が入り込んだという報はございません」
 セレクは微かに息を吐き出した。静かな水面から顔を上げ、ギルロードの方へ振り返る。
「――結界に亀裂が入っていた」
 低い声で言った。
「位置はリュークの上空。ほんの小さなものだ。瘴気が入り込む恐れはほぼないだろう」
「そうですか。ではもう一度伝令を送りましょう」
「そうしてくれ」
「亀裂の原因はおわかりに?」
 セレクは目を伏せた。
「そこまではわからない」
「二つに一つでありましょう」
「――私の魔力が及ばなかったか。あるいは、別の魔力が破壊しようとしたか」
 結界は外側は強固だが、内側は呆気ないほどもろい。王族でなくとも、少しの魔力を持つ者なら簡単に傷つけることができる。
「下がれ。これから結界を張り直す」
 セレクは再び水盤に向かった。
「伝令を送ったら、都の様子をしばらく見張らせろ。混乱がひどければ報告してくれ」
「かしこまりました」
「北の宮にはすぐ戻る。執務室で待機していろ」
「はい」
 深く一礼して、ギルロードは引き返す気配を残していった。
 セレクは水盤の水を眺めていたが、しばらくして顔を上げた。
「待て、ギル」
 小柄な副官は、無駄のない動きで振り向いた。
「まだ何か」
「シルファーミアには私から話す。結界のことは何も言うな」
 ギルロードはまったく表情を変えなかった。ただ抑揚のない調子で言葉を返した。
「しかし、異変の伝令はシルファーミア妃にも届いたはず。ご心配なさっておられるでしょう」
「大事のないことだけ伝えておけ。詳しいことは私から話す」
「ご伝言では不都合がおありでしょうか」
「おまえがシルファーミアにどう話すかが心配だ」
 セレクはわざと目を細めて見せた。
 しかし、ギルロードは真顔のままだ。
「おまえが妹を使って、私の妃を見張らせていることは知っている」
 水明宮の空気が凍りついた。
 セレクは何も言わず、ギルロードも黙っていた。副官の水色の瞳は、暗い場所ではより冴えて見える。セレクはそれを射るように見つめたが、ギルロードはそらそうともしなかった。
「お隠しするつもりはございませんので」
「疑うのは勝手だ。だが何の危害ももたらしていない者を傷つけるな」
「よく心得ております。ご婚礼以来、王子はそればかりですので」
 含みのある言い方に、セレクは睨むことで返した。ギルロードは相変わらず表情を変えなかった。ただわずかに鋭くなった視線をセレクに向けた。
「敵国の姫をお守りするのも結構ですが、少しはご自分のこともお考えになってはいかがですか」
「考えている。確かにこの手で守ってみせる。妃も、自分も、この国も」
 ギルロードは言葉を返さず、黙ってセレクを見つめていた。しばらくすると一礼し、背を向けた。
 副官が広間から消えると、セレクは改めて水盤の前に立った。見下ろせば、鏡のように水が横たわっている。
 初めてこの水を操ったのは、四年前。セレクは十五で、父王に導かれて魔力を使った。この水は宮から放たれ、セフィードを守る空となる。
 あの時のセレクは、守られる少年だった。導いてくれる父王も、継母とは言え心から気にかけてくれる王妃もいた。幼い妹たちも愛らしく、王宮は常に明るくあたたかかった。
 しかし、東の宮に帰っても彼らはそこにいない。今のセレクの帰りを待つ者は、敵国から来た年若い妃一人だ。
 シルファの姿が浮かび、セレクは現実に引き戻された。早く東の宮に戻り、シルファに事情を話さなければならない。その前に片付けるべき政務も山のように残っている。
 セレクの手は、再び水面の上を辿りはじめた。


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