水晶の空 [ 1−8 ]
水晶の空

第一章 盟友 8
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 水の都はこの日も静かに澄んでいた。
 セフィード王宮は、周囲を常に水で満たしている。互いの宮への行き来には小船を使うのが普通だ。その水路はそのままリュークの街に通じている。
 シルファが東の宮を出ると、セフィード風の船がすでに待っていた。王家のものだろう。決して華美ではないが、白い船体と銀の装飾が美しい。
 しかしシルファは船よりも、その前にいる人物に目を引かれた。
「ラウド?」
「お久しぶりです。……シルファーミアさま」
 輿入れ以来、数日ぶりに会う幼馴染は、丁寧に礼をした。詰襟の上着にフォートという、セフィードの衣装を纏っている。色は緑がかった茶色で、エレセータ特有の栗色の髪を持つラウドにもよく似合う。
 シルファは彼に駆け寄った。熱を出して寝込んでいると聞いたきり、連絡は受けていなかった。
「具合はもういいの? お見舞いに行けなくてごめんなさいね」
「いいえ……大切な時に倒れてしまい、護衛ができず申し訳ありませんでした」
 ラウドはたどたどしく言い切った。彼に丁寧な口調で話されるのは、やはり慣れない気がする。エレセータでは王女も兵士もなく対等に接していたのだ。
「今日は一緒に来てくれるの?」
「はい。お供いたします」
「良かった。では参りましょう。新しい侍女もいるから紹介しなくては」
 シルファは笑い、ラウドを促して船上に移った。

 セフィードに来てから一番と言って良いほどの快晴だった。遮る雲がない時、水の都の空は果てしなく高く見える。すべての水面に注がれるまっすぐな太陽の光。
 シルファを乗せた船は、東の宮から北へ抜けて王宮から街へ出た。この地に根を下ろした民たちが、変わらぬ光景を生み出し続ける場所。シルファには何もかもが目新しかった。
「あ、見てください! あれが水上の市ですよ」
 高い声とともに、リューネが人差し指を突き出した。その示す先には、重たげにゆっくりと水路を進む船がある。それもそのはずで、船には大量の陶器が積み上げられているのだ。その間に埋もれるようにして、老夫婦が岸辺に声をかけていた。
「今年初めての市ですよ。霜の季節にしか造れない上等の器がありますよ」
「お気に召したらすぐ呼び止めてくれなくちゃ。この通りは一度しか回らないからね」
 商品を乗せた船で水路を巡り、陸上の人々に売って回るのだ。進んでいくと、同じような船と何度もすれ違う。作物だったり衣料だったり宝石だったり、積み上げられたものは様々だが、市の形はたいてい同じだ。
 この船上で唯一のセフィード人であるリューネは、その他にも街の光景を見つけては指差して解説してくれた。水路の辻を通る時の決まり、家々を造っている白い石の名、街中に点在する小さな噴水の由来など。エレセータの侍女たちは喜んで聞き入っていた。
 シルファは彼女たちを見て微笑んだ後、静かに船の後方に下がった。ラウドが一人で座っており、シルファに気付くと小さく頭を下げた。
「お気になさらず……どうぞ侍女の方々とお話しください」
「いいの。ラウドと話したかったから」
 シルファは言うと、少しだけ顔を傾けた。そして「エレセータ語で」と小さく呟いた。ラウドは心から恐縮した様子を見せた。
「すみません。シルファーミアさまに比べて私は勉強不足で」
「私だってまだまだよ。特にリューネは少し早口だから、聞き取りにくいことがあるわね。侍女たちはさっそく慣れたようだけど」
「……私も努力します」
「焦らなくて大丈夫。それより、本当に具合はもういいの?」
 シルファは真顔に戻って聞いた。
 久しぶりのエレセータ語での会話は、とても心地良かった。自分がセフィード語に疲れていたことを思い知らされる。
「大事ございません。この国に来て早々、用心が足りませんでした。気候の違いを甘く見ていたようです」
「私もここの寒さは辛かったわ。王子が気遣ってくださらなかったら、私だって倒れていたかも」
 ラウドの顔が微かに強張ったように、シルファには見えた。
「……セレク王子は、お優しい方ですか?」
「ええ」
 シルファはうなずいた。
「大切にしていただいているわ。……まるで、お客さまのように」
 ラウドが眉をひそめたのを見て、シルファは我に返った。無意識のうちに皮肉めいたことを言ってしまった。同郷の者に弱音を吐くことだけはしたくなかったのに。
「ごめんなさい。今のは忘れて」
「いえ……」
「セレク王子は、本当に私を気遣ってくださるの。今はそれだけだけど、私も早く王子のお役に立てるようになるわ」
「私では頼りになりませんか」
 シルファは驚いて、ラウドの顔をまっすぐ見つめた。
 ラウドはぎこちなく視線をそらした。
「シルファーミアさまが、セフィードに馴染むために同郷の者を頼るまいとされるのはわかります。しかしそれでは、私が何のためについて参ったのかわかりません」
「ラウド」
「お困りの時は頼ってください。主と従の信頼は決して馴れ合いではないと思います」
 ラウドはいつの間にかシルファの正面と向き合っていた。本人もそれに気付いたのか、勢いづいた声が急に静かになった。
「……ですから、お困りの時は力を添えさせてください。私にも使命を果たさせてください」
 うつむいて小声で話すのは、我に返って照れた時のラウドの癖だ。この仕草が出るということは、それだけ懸命になっていたということ。幼い時から変わっていない。
 短い沈黙の後、シルファは微笑んだ。
「ありがとう、ラウド」
「いえ」
「本当はとても心細かったの。望んで来たとは言え、知らない土地ですもの」
 まっすぐ見つめると、ラウドも再びシルファを見た。
 シルファは今度は、にっこりと笑う。
「だから……」
 言いかけた時だった。
「シルファーミア妃、大変です!」
 リューネが声を上げた。その左右で、エレセータの侍女たちが顔を見合わせている。
「どうしたのです?」
「噴水の水が猛っています。非常の合図です!」
 リューネの指先を視線で追う。先ほどまで静かに湧き出ていた水が、狂ったような勢いで宙を突いていた。王宮から街に送られる伝令だ。
「水路を引き返しましょう。すぐに王宮にお戻りに!」
「いったい何があったのですか?」
 噴水の伝令は、その水の様態によって異なる意味を表すという。しかしセフィードに来たばかりのシルファには、それを読み分けることはまだできない。
 ふと辺りを見回してみると、都の民たちもただならぬ様子で動き出していた。水路から船が消え、岸辺から人が消える。短い時間に人の姿はほとんど建物の中に吸い込まれてしまった。
「結界に異変が起こったようです!」
 船上に、リューネの声が響いた。


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