水晶の空 [ 1−7 ]
水晶の空

第一章 盟友 7
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 朝、目が覚めて、ここはどこだろうと考える時間は短くなった。肌寒い空気や、引きずるように長い夜着や、低い寝台や天井にも慣れてきた。しかし隣に他人が眠っているのは、やはり落ち着かない。
 婚礼から七日も経つと、シルファは自分がかなり早くに目覚めていることに気付き始めた。寝台で目を開けると、セレクはいつもまだ寝息をたてている。セフィードはエレセータより朝が遅いようだ。
 今日も王子は、まだ半分眠っているような目でシルファを見つけた。
「本当に早起きだな」
「おはようございます。お起こししてしまいましたか?」
「いや、私も起きる時間だ。わざわざ居間に移ったのか」
 早朝に空いてしまった時間を、セレクを起こさずに埋められるように考えた結果だ。まずは物音を立てないように寝室から居間に移る。そして、たいていは本を広げる。セフィード語で書かれた簡単な本だ。内容よりも、まずは言葉を読み取ることに神経を集中させる。輿入れ前はとにかく会話を優先して学んだので、読み書きのほうはあまり進んでいなかった。
 そうして没頭しているうちに、いつの間にか日が昇ってくる。セレクが目を覚ましてシルファを見つけに来るまでが読書時間だ。
 セレクはそれを知ると、語学の習得に向いた読みやすい本を何冊か持って来てくれた。早朝からの公務がない日は、シルファの質問に答えて読みづらいところを教えてくれたりもした。
「起こしてくれれば最初から付き合うのに」
「いいえ、今でも十分に助かっております。お疲れですのにこれ以上ご迷惑をおかけできません」
「別に疲れてはいないが」
「でも、ご政務がお忙しいのでしょう?」
 起きるのはシルファのほうが早いが、床に入るのもシルファが先だった。セレクが日の沈む前に帰ってきたのは最初の二、三日ほどだ。それ以後は執務室のある北の宮に渡ったきり、夜も更けてからしか戻らなかった。先に休むよう言われたシルファはその言葉に従ったので、セレクがいつ政務を終えているのかも知らない。
 そして、王族の務めは政務だけではない。水明宮に渡り、国を守る結界を張る使命も持っている。
 結界を張る力は、魔力の中でも特に心身を激しく消耗させるという。そのため二国では、ある程度の年齢に達している者だけがこの使命を負う。それでも気をつけなければ、命を削ることになる。
「結界を毎日というのは多すぎませんか? もう少し間隔を空けても……」
 ためらいがちに聞いたが、セレクはあっさりと笑って首を振った。
「私は王ではなく、その代理だから。王の何倍も務めに徹さなければ国を守れない」
「では、私にお手伝いをさせてくださいませ。今すぐにでも」
 シルファは思わず声を強めた。輿入れから数日間、ずっと考えていたことだった。
 この婚姻は二国が和平を結び、結界の力で双方を守るためのもの。シルファがエレセータの魔力でセフィードを助けるのは、欠かせない核心であるはずだ。
 しかし、セレクは首を振った。
「シルファはまだ来てくれたばかりだ。無理に魔力を使うよりも、まずこの国に慣れることから考えてほしい」
 穏やかに言われてしまうと、返すことができなくなる。セレクが心からシルファを思いやってくれているのがわかるので尚更だ。
 確かに、今すぐセフィードで結界を張れる自信はない。エレセータでも魔力を使い始めたのは、今から二年足らず前のことだった。実際に結界を張ったのはほんの数回に過ぎない。加えて、セフィードのあらゆるものにまだ慣れていない。風の魔力がここで正しく働くのかもわからない。
 黙っているシルファを推し量ったのか、セレクは明るく笑った。
「今日は都を観に回るのだろう」
「はい」
「一緒に行ってやれなくてすまない。ゆっくり観てきてくれ。シルファにはこの国のことを少しでも多く知ってほしい」
 セレクは覗き込んでいた顔を上げた。シルファがうなずくのを認めると、では行くと言って離れていった。
 扉が閉まる音を聞きながら、シルファは手元の本に目を落とす。セフィード語で書かれた本に。
 セフィードの王子は、もったいないほどシルファに優しく接してくれる。祖国の姉が聞けば泣いて喜んでくれるだろう。
「あの……」
 不意を突くように、小さな声が割り込んだ。
 空耳かと思ったが、シルファは反射的に顔を上げた。視線をずらすと、セレクが消えた方向に、見知らぬ娘が立っている。
「――どなたですか?」
「あ、あの……」
 娘は一瞬うつむいた後、小さな足どりでシルファの近くに歩いてきた。前まで来ると足を止め、ぺこりと上体を傾ける。
「はじめまして。王宮女官のリューネと申します。本日よりシルファーミア妃にお仕えさせていただきます」
 シルファは小さく首を傾げた。輿入れから七日経つが、シルファの側近にセフィードの者は一人もいない。近いうちに加えられるだろうと思ってはいたが、あまりにも急だ。セレクとの会話を振り返ってみたが、それらしきことを言われた覚えはなかった。
「顔を上げてください、リューネどの」
 声をかけると、リューネは言われたとおりにした。年齢はシルファと同じくらいだろう。しかし女官という地位に似合わず、物腰はどこか幼く心もとない。シルファを見つめる瞳は緊張で揺れている。
「シルファーミアです。はじめまして」
「は、はい……」
「私に仕えてくれるとのことですが、それは侍女の一人になるということですか?」
「はい、そうです」
 相手が怯えていることに気がついたシルファは、笑顔をつくって椅子から立ち上がった。
「ごめんなさいね。あなたを詰問するつもりではないのです。ただ、侍女を付けていただくとは聞いていなかったものだから」
 リューネは少し顎を引き、黙ってうなずいた。
 そんな仕草と同じく、顔立ちもやや幼いようだ。ぱっちりした両眼に対し、小さくまとまった鼻口。その不均衡さがどこか愛らしい。赤茶けた金色の巻き毛もあどけなさを引き立てている。
 そして、立ち上がって向き合ってみると、リューネはシルファよりわずかに背が低かった。セフィードでは珍しいことだ。
「リューネと呼んでもいいですか?」
「は……はい、もちろんです!」
 リューネは輝いた瞳を向け、ようやくその頬に微かな笑みを浮かべた。
「私、嬉しくて。シルファーミア妃にお会いできるのを楽しみにしていたんです。エレセータの姫君がどんな方なのか気になって……だって行ったことのない国ですもの。それに、セレク王子がやっとお迎えになったお妃ですし!」
 細い声で流水のようにまくしたてるリューネを、シルファは苦笑混じりに見守った。リューネは我に返り、赤くなった頬を手で押さえて続けた。
「ご、ごめんなさい。私、一人でしゃべりすぎですね」
「いいえ? お話相手ができて嬉しいです」
「……お出かけまで少し時間がありますね。お茶を淹れますか?」
「ええ、頼みます」
 リューネは嬉しそうに笑い、茶器を手に取った。
 早く起きているせいで確かに時間が余っていた。新しい侍女とゆっくりくつろいで話す暇はありそうだ。
 エレセータから連れてきた侍女たちも、今日の観覧には同行する。リューネなら彼女たちとも気がねなく接してくれそうだ。
「セフィードのお茶はもうお召し上がりになりましたか?」
 シルファは微笑んで、椅子に腰を下ろした。
「ええ。何度かいただきました」
 湯を注いだ茶瓶に蓋をするリューネの手元を見つめる。
「淹れるのは難しいそうですね」
「そうなんです、葉がとっても繊細で。お湯の量や注ぎ方に気をつけないと、味も香りも台無しになります」
 止めどなく流れる言葉を一度切り、リューネは茶瓶の様子を見た。それから再び視線を戻すと、はにかみながら付け加えた。
「セレク王子はお上手ですけど……」
「そうですね」
「淹れていただいたことがおありですか?」
「何度かあります」
「まあ、もう仲良しなんですね! 和平のためのご婚姻だったのに」
「敵国とは言え、王族同士に私怨はありませんもの」
 シルファは心から微笑んだ。
 リューネは茶瓶を持ち上げると、椀の上でゆっくりと傾けた。琥珀色の茶が湯気を上げて落ちていく。それが途切れると、リューネは椀を差し出してくれた。
「では、仲良くやっていけそうですか?」
「そうですね。お優しい方のようですし……」
 シルファは受け取った椀を持ち上げ、覗き込んだ。婚礼の次の朝、これを淹れてくれたセレクのことを思い出す。
「少し変わっておられますけど」
 リューネは吹き出した。
「兄と同じことを仰いますね」
「あなたの兄上と?」
「はい。兄は王子にお仕えしているんです。ギルロードと言います」
 シルファは手にした椀を取り落としそうになった。
「……あの、王子の副官のギルロードどの?」
「はい! ご存知なんですね」
「あの方があなたの兄上?」
「ええ」
 明るく笑う侍女の顔を、シルファは思わず見つめてしまった。愛らしい童顔は、記憶の中にあるギルロードとは似ても似つかない。あの副官は常に眉間に皺を刻んでいたように思う。共通しているのは小柄だという点だけだ。
「似ていないでしょう? よく言われます」
 シルファは我に返った。
「ごめんなさいね、見つめたりして」
「い、いいえ! シルファーミア妃になら大歓迎です。私も、ずっとお側でお話してみたかったんですもの」
 リューネは頬を染めながら、首をすくめて微笑んだ。本当に可愛らしい娘だ。セフィードに来て、これほど含みのないまっすぐな歓迎を受けたのは初めてではないだろうか。
 シルファと話してみたかったと、リューネは言う。エレセータの人間で、セレクが迎えた妃だからと。このセフィードで暮らした年月はリューネのほうがはるかに長いというのに、シルファを主として、セフィードの王族として扱ってくれている。
「ありがとう、リューネ」
 不意に声をかけると、リューネは慌てて姿勢を正した。
「ど、どうなさったのですか?」
「嬉しかったからです。あなたが私を、エレセータの者をこんなに温かく迎え入れてくれて」
 シルファは微笑んで、ゆっくりと先を続けた。
「私はまだ嫁いできたばかりで、セフィードの王族として何もできません。それなのに仕えてくれて、ありがとう、リューネ」
「そんな……私は、ずっと思っていたことを口にしただけで」
 リューネは言いながら、何度も首を振った。大きな緑の瞳は、まばたきもせずシルファを見つめている。
 このまっすぐな目に、セフィードの人間となったシルファはどう映ったのか。それを思うと、ここにただ座っている自分がもどかしかった。


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