水晶の空 [ 1−6 ]
水晶の空

第一章 盟友 6
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「ここで待っていてくれ。すぐに引き返すから」
 水明宮で船を降りたセレクは、振り向いて侍従に声をかけた。いつもならば船はセレクを残して四宮に下がり、結界を張り終えるころに再び迎えに来る。今日は早めに戻るつもりだったので、下がらせずに待ってもらうことにした。
 夜の水明宮は、暗い水路の上に浮かんでいる。月明かりを受けて硝子がほのかに光っている。
 この二年間、セレクは一日も欠かさずに毎晩ここに渡っていた。父王が倒れる前は数日に一度だったが、今は一人なので間を空けられない。しかもセレクは、結界の魔力を操れるようになってまだ数年だ。
 水明宮に入る前に、セレクは上空を仰いだ。魔力が国を守っているのを目で見ることはできない。瘴気が入り込んでいないのならば心配はいらないだろう。
 早く結界を張り、祝宴の会場に戻らなければならない。エレセータから来たばかりの妃を一人にしておきたくなかった。
 頭を切り替えたのとほぼ同時に、傍らに潜む人影に気がついた。
「ギル」
 名を呼ぶと、小柄な副官が姿を前に現した。
 南の宮を出た船には、セレクと侍従しか乗っていなかった。ギルロードがどうやって水明宮に渡ったのかセレクは知らない。だが驚きもしない。珍しいことではないからだ。
「何だ?」
「お察しの通りでございます」
 ギルロードは軽く頭を下げた。
「シルファーミアのことなら、もう百回は聞いた」
 セレクは視線を斜めに向けた。
「自分の妃と打ち解けて何が悪い。この先、何十年も連れ添っていく相手だ。私が即位すればあれが王妃になる」
「仰ることに異存はございません。ただ、このご婚姻が例外でもあることをお留め置きいただきたいのです」
「敵国の民も同じ人間だ。それを証明するために、シルファーミアは嫁いで来てくれたのだろう」
 セレクが声を荒げても、ギルロードの表情は変わらなかった。いつもいつも、この副官はこちらが苛立つほど怜悧で落ち着いている。あるいは、それを装っている。
「シルファを傷つけるな」
 感情を抑えるように、セレクは声を落とした。
「敵国からただ一人で嫁いで来て心細いだろうに、私たちが守ってやれなくてどうする」
「傷つけるなど、とんでもない。王子のお妃として心よりお仕えするつもりです。その一方で、エレセータの王女という以前のご身分も忘れずにおくだけでございます」
 セレクはあからさまにため息をついた。
 婚礼を無事に終えても、ギルロードは何一つ意思を変えようとしない。

『エレセータの王女を妃に望む』
 そう言った時の、重臣たちの動揺は大げさなほどだった。大げさだと思うのはセレクだけで、彼らにしてみれば切実な反応だったのだろうが。
 始めから対話しようともしない者、思い留まらせようと慌てて説得にかかる者、二国の現状を延々と説いてくれる者、様々な受け止め方があった。しかし、うなずいてくれる者は一人もいなかった。
 セレクは必ず実現させると決めていた。長く憎み合ってきた国と手を取り合うには、王家が婚姻を結ぶことが一番の近道だ。父王の代理として王宮の主となった今が、最初で最後の機会だった。他に妃を決められてしまう前に実行しなければならない。
 国内の説得は後に回して、セレクは先にエレセータに目を向けた。あちらには三人の王女がいるとの情報も得ていた。
『密使を送ろうと思う』
 セレクが密かに告げた相手が、幼いころからの側近であるギルロードだった。
『エレセータが応じてくれれば、我が国の臣下も納得するだろう』
 自信はあった。反対の色こそ強いが、誰もが本当は和平を望んでいるのだ。ただあまりにも危険が大きく見えるため、実行に踏み切れないだけだ。それなら既成事実をつくって見せてやればいい。
 問題は、エレセータがどう答えるかだ。敵国も本心は同じ思いでいると信じたいが、まだ見ぬ国のことまでは予測できなかった。こればかりは祈るしかない。
『エレセータにとっても賭けでしょう。不確かな和平のために、王が娘を差し出すでしょうか』
『今は返事を待つしかない』
『エレセータに王女は三人。どのお方を望まれるおつもりで?』
『……誰でもいい。私の申し出に応えてくれるなら』
 王女たちの年ごろさえセレクは知らなかった。三人とも若く、いずれもまだ嫁いでいないという噂だけだ。
 和平は一人の王女の犠牲を避けられない。セレクに嫁げばいずれセフィードの王妃となる。敵国に暮らし、途方もない危険と緊張の中で生涯を送らなければならない。そんな宿命に巻き込むことになるのだ。
 数日後、使者は承諾の返事を携えて帰還した。

 エレセータの第二王女は、輿入れ早々セレクを驚かせた。犠牲を詫びる言葉をあっさり否定し、使命を誇りにし、盟友だと宣言してみせた。
 その言葉がどこまで現実のものとなるかは、まだわからない。
 それでも、嫁いで来てくれたことに変わりはない。セレクの妃となり、この国に暮らし、この国を守り、使命を果たすために身を削ってくれるだろう。初めて訪れた敵国で、誰を頼っていいのかもわからない中で。
「シルファを傷つけるな」
 もう一度ギルロードに念を押した。
「和平を信じないのは勝手だが、これ以上シルファを怯えさせるのは許さない。相手がおまえであろうと私は妃を守る」
「また守るものを増やされるのですか」
 セレクの顔が一瞬歪んだ。
 だが息を整え直すと、再び口を開いた。
「自分で決めたことだ。和平も、この婚姻も」
 ギルロードは黙って一歩下がり、それきり言葉を発さなかった。
 セレクはそれを認めると、水明宮の入り口に向かった。
 冷気に満ちたセフィードの夜は、星々も水のように冴えている。


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