水晶の空 [ 1−5 ]
水晶の空

第一章 盟友 5
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 セフィード王宮は円形の水明宮と、正方形の四宮から成る。結界の魔力を司る水明宮に対し、四つの宮は国の統治を司る。
 東の宮は王族の住居。
 北の宮は政の場。
 西の宮は経済の中枢。
 そして南の宮は、宴や儀式の舞台。
 セフィードで初めて踏み入れたこの南の宮に、シルファは再び立っていた。昨日は一階で婚礼の儀式に出たが、今日は二階の広間にいる。
「シルファ」
 セレクに促され、彼の隣に進む。
 王子は声を落として、シルファの顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
 どういう意味で聞いているのか考えたが、おそらくすべてにおいてだろう。
「大丈夫です」
 微笑を向ける。空気が少し冷たかったが、耐えられないほどではなかった。セフィードの女性は、季節を問わず長袖を着ないらしい。代わりに、フィーラと呼ばれる長い布を肩から掛け、腕を覆う。
 薄い青は、セフィードでもっとも高貴な色とされる。シルファがその衣装を纏っているのは、これからセフィードの要人たちに見えるからだった。広間では婚姻の祝宴が開かれているのだ。
 この国の正装をするのは婚礼に続いて二度目だ。エレセータのものとは違い、上下一続きになった細身の衣装。短い袖と引きずるように長い裳裾は、流れ落ちる水のように柔らかく波打っている。エレセータでは束ねるだけだった髪は、両耳のもとに一房ずつ残して、あとは丁寧に結い上げられている。
 セレクもやはり、青い正装に身を包んでいる。詰襟の長袖の上着に、左肩に下げた布。フィーラと同じものだが、男性用のものはフォートと呼ぶらしい。
「歩けるか?」
 悪戯の相談でもするように、セレクが笑いながら小さく言った。床まで届く裳裾と踵の高い靴に慣れず、シルファは先ほどから何度も転びそうになっていた。
「はい、なんとか」
「ゆっくり歩くから大丈夫だ」
 セレクが掌を差し出した。シルファがその上に自分の手を重ねると、少しずつ引いて進んでいってくれる。
 シルファは足元を気にしつつ、なんとかセレクの後に続いた。足元だけではなく、肩にかけたフィーラも気を付けていないとすぐにずれ落ちてくる。衣装そのものも、細身で体の線に沿っているので少し恥ずかしい。慣れるまで時間がかかりそうだ。
「セフィードの正装は初めてか?」
 耳元で、セレクが小声を寄せた。私語を悟られないように、二人は前を向いたままだ。
「婚礼が最初でした。でもこうして長時間歩くのは初めてです」
「それでは動きにくいはずだ」
「本当に。エレセータにいる頃から練習していれば良かったです」
「練習? 歩くのを?」
「はい。セフィードの女性は始めからこの靴で歩けるのですか?」
「どうだろう。私は履いたことがないからわからない」
 二人で密かに笑っていると、横から咳払いが割り込んだ。振り向くと見覚えのある青年が立っている。シルファが思い出す前に、セレクが声をあげた。
「ギル」
 そこでシルファは思い至った。この国に来た時、最初に出迎えてくれた小柄な青年だ。確か、王子の副官だと名乗っていた。
「ギルロードだ。会ったことがあるだろう」
 セレクがシルファに言った。
「ええ、婚礼の前に。あの時はお出迎えありがとうございました」
「お輿入れおめでとうございます。シルファーミア妃」
 ギルロードは言い、一礼した。
 本当に小さな人だ。背丈はシルファと大して変わらない。セフィードの男性にしては珍しいのではないか。
 しかし対照的に、表情は年相応以上に落ち着いている。よく見ると繊細な顔立ちなのに、鋭い目つきのせいか与える印象は険しい。色素が薄いこともかえってそれを強めている。
「婚礼からまだ二日目ですが、仲睦まじいご様子で結構です」
 ギルロードはセレクに視線を移した。
「ですが公の宴で、個人的な会話はお慎みください」
「また始まった。今日は私たちの祝宴なのだから、少しくらい許せ」
「祝宴も公務のうちでしょう。特に」
 ギルロードの鋭い目が、流れるようにシルファに移る。シルファは射止められたように静止した。
「このたびのようなご婚姻の場合は」
「ギル」
 セレクが口を挟む。その顔からは、笑みが消えていた。
「おまえの言ったことはシルファーミアへの不敬になる」
 沈黙が三人の間に落ちた。広間に満ちていたはずの談笑さえ、一瞬消えたような気がした。
 しかし、先に動いたのはギルロードだった。
「ご無礼をいたしました」
 彼はシルファの前に深々と頭を下げた。その視線と声から鋭さが消えていないのを、シルファははっきりと感じ取った。
「シルファ、行こう」
 セレクの手が促す。シルファは彼と副官を見比べていたが、結局導かれるままに従った。ギルロードは下げた頭を戻さなかった。
――今のは何だろう。
 ギルロードが視界から消えてからも、彼の言動が頭から離れなかった。険しい表情と鋭い瞳。感情を抑えた言葉。しかし何かを包み隠しているような口調。
「すまない、シルファ」
 回想にふけっていたシルファは、セレクの声に引き戻された。
「ギルは若いくせに頭が堅いのだ。無事に婚礼も済んだのに、一人で緊張感を引きずっているところがある。気にしないでくれ」
「はい……」
 セレクにつられて微笑みかけたが、すぐにそれを消した。
「いいえ。ギルロードどのの仰る通りです。私は国のために嫁いだのですから」
 この祝宴は遊びではない。シルファーミアがセレクの妃として臨む最初の公務だ。祝賀に来てくれた人物は、セフィードの将来を左右する要人ばかり。彼らに受け入れてもらうことが、今のシルファの最大の使命だ。
「……そうか」
 セレクが隣で、控えめにうなずいた。
「では次へ参ろう」
「よろしくお願いいたします」
 シルファは再び、セレクの手を取った。

 祝宴は穏やかに進んでいた。シルファとセレクが並んで挨拶に回ると、相手はたいてい微笑んで祝福してくれた。もちろん、それが公人としての態度であることはシルファも理解していた。
 広間を大きく一周したあたりで、セレクが足を止めた。
「少し離れさせてくれ。水明宮に渡る頃だ」
 言われた途端、シルファの身は強張った。
「一人で残して大丈夫か?」
 セレクが真顔に戻って問う。
 シルファは慌ててうなずいた。
「もちろんです。どうぞお行きになってください」
「……本当に?」
「ええ。ご心配はいりません」
 シルファはにっこり笑い、セレクの手から自分の手を離した。
 セレクはわずかに笑んだ。
「できるだけ早く戻る」
 そしてシルファから背を向け、広間の出口に向かって歩き始めた。
 遠ざかっていく後ろ姿を、シルファはしばらく見つめていた。一人の魔力で結界を張るには、どのくらいの時間がかかるのだろう。それまでどうやって広間を取り持っていよう。途方に暮れそうだった。
 しかしすぐに自分の甘えに気がついた。エレセータの王女としても、セフィードの未来の王妃としても、セレクに頼りきったままではいけない。
「お妃さま」
 気を引きしめたところで声をかけられ、シルファは我に返った。声の主は、エレセータから同行してきた侍女の一人だった。
「どうしました? 祝宴中ですよ」
「申し訳ございません。ですが、お伝えしておきたいことが」
 前置きすると、侍女はシルファの耳元で小声を出した。
 シルファは眉を動かし、改めて侍女を見つめた。
「本当に? ラウドが?」
「はい。かなり熱があるようで、起き上がれる状態ではございません。こちらには参れませんので、お妃さまがご心配なさる前にお伝えしてほしいと申しておりました」
「そうですか、ありがとう。他に体調を崩した者は?」
「侍女の中でも二名ほど。この国の冷気が障ったようです」
 侍女は彼らの容態をもう少し伝えてから引き下がった。シルファは彼女に礼を述べると、再び物思いに浸った。
 セフィードに到着して二日目の夜だが、ラウドが先に倒れてしまうとは思いもしなかった。彼は兵士として何年も王宮に仕えていたし、幼い頃もめったに寝込むことはなかった。環境の変化とはそれほど大きいものなのだろう。
 様子を見に行きたかったが、祝宴から離れるわけにはいかない。シルファは寂しいと思う自分をこの場から消し去った。
 同時に、広間を出たセレクのことを考えた。国王代理の王子は毎日二度は水明宮に渡り、結界に力を加えているらしい。その魔力を使えるのがこの国で彼しかいないからだ。政務も一人でこなす上に、反対を押し切って敵国からの妃も迎えた。セレクがその表情より疲れているであろうことは、容易に想像がつく。
――甘えていてはいけない。
 シルファは唇を結び、再び広間と向き合った。


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