水晶の空 [ 1−4 ]
水晶の空

第一章 盟友 4
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 何かに呼ばれたような気がして、シルファはゆっくりと瞼を持ち上げた。おぼろげな視界に、目を閉じた青年の顔が映る。
 一気に目が覚めた。そして、ようやく自分の状況を思い出した。
 身をねじって寝台の外を見ると、すでに明るさに満ちている。朝は無事にやってきたのだ。
 視線を戻し、同じ寝台で少し空間を置いて眠っているセレクを見つめる。シルファは昨夜の婚礼で、この青年に嫁いだのだった。
 そのことを確認すると、他の細かな状況も次々に頭に入ってきた。エレセータより冷やりとした空気。エレセータより低く、やや硬い寝台。エレセータより遅い朝。
 窓の向こうで風が鳴いたような気がした。
 シルファはセレクを起こさぬよう、すべるように寝台から出て床に下りた。足音を立てないように注意しながら窓に向かい、扉を開けて露台に出た。冷たい空気が全身を襲う。
 王子とシルファの寝室は、四宮のうちの東の宮に用意されていた。セフィード王家の居住区である場所だ。
 東を向く露台からは、水の都がよく見渡せる。朝日を受けて輝く水面は美しい。
 しかし、シルファの目が見つめるのはその向こうだった。水路からつながる大河。この先にシルファの故郷エレセータがある。
 大河の果てまでは目にとらえられなかったが、エレセータの王宮が見えるような気がした。象牙色の塔の群れも、風と遊ぶ旗たちも。
 シルファの記憶をなだめるように、風が露台を通り過ぎた。
――セフィードにも風はあるのだ。
 当たり前のことに思いを馳せてしまう。
「早起きだな」
 驚いて振り返ると、露台の入り口にセレクが立っていた。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れたか?」
「ええ」
 事実ではなかった。不慣れなことが多すぎて、深い眠りにはとても入り込めなかった。硬い寝台にも見覚えのない天井にも馴染めなかったし、何より、出会ったばかりの青年が隣にいるのはやはり怖かった。
 しかしシルファは、それを表情には出さずに微笑んだ。
 セレクが露台に出て、シルファの隣に立った。
「寒くはないか? エレセータはここより暖かいと聞いている」
「少し……でも大丈夫です。早くここの生活に慣れなければ」
「ゆっくりでいい。時間はこれからいくらでもあるのだから」
「私のセフィード語はおかしくありませんか? 一年足らずで急いで覚えたのですが、本当に通じるのかどうか心配でした」
「まったく問題ない。きれいに話している。私のエレセータ語より遥かに巧い」
 セレクが笑うので、シルファもつられてしまった。昨日の水明宮で聞いた、セレクの唯一のエレセータ語を思い出す。
「エレセータ王家は朝が早いようだな。公務の時間までまだかなりある」
 セレクは朝日の位置を確かめると、露台の入り口に向かった。
「中へおいで。一休みしておこう」

 二人は寝室から隣に続いている居間に移った。
 東の宮にはとにかく部屋が有り余っている。国王夫妻と王女たちは不在だが、四人の住まいはきちんと残され、管理されている。それでも宮にはかなりの空き部屋があった。
 二人がこの時入ったのは、共同で用意された居間だった。誰が持ってきたのか、熱い湯と茶器が円卓の上に用意されている。
「侍女を呼んで参ります」
 セレクが茶器を手に取ったのを見て、シルファは動きかけた。だが、セレクがそれを制した。
「いいから座っていろ。茶は私が淹れる」
「そんな……」
「させてほしいのだ。こう見えても得意だから」
 セレクは手際よく茶器を扱い始めた。湯を注いで椀を温め、その間に葉を量る。器の素材や形こそ違うが、手順はエレセータと同じだ。
 シルファが面食らっているうちに、湯気のたった椀が差し出された。セレクは上目遣いで笑みを浮かべている。
「いただきます」
 少しためらってから、シルファは椀を持ち上げた。熱い蒸気が冷えた頬を溶かしていく。静かに唇を付けて、一口含んでみた。
「……おいしいです」
「そうだろう」
 見た目はエレセータのものと同じ琥珀色だが、味は少し違う。こちらのほうが微かに苦いようだ。後味に癖がなく、とても飲みやすい。
 慣れない冷気にさらされた身体が、少しずつ溶けていくようだった。
「セフィードの西南部で栽培しているものだ。淹れ方に少し工夫がいるのだが、巧かっただろう?」
「ええ。驚きました」
「飲んでくれる相手ができて嬉しい。せっかく上達したのに、誰も私に淹れさせてくれなかったから」
「そうでしょうね……」
 シルファはためらいがちに微笑んだ。王子に茶器を持たせる人間が王宮にいたら問題だろう。
 王子が自ら茶を淹れるというだけで意外なのに、更にその出来が素晴らしいとは。手際や手つきも、かなり器用だったように思う。変わった特技を持った王子だ。
「シルファーミア」
 セレクが不意に呟いた。
「エレセータ語で、『花咲く平原』の意味だな」
「はい。とても古い言葉です」
 シルファがエレセータ王家に生まれたのは、春の盛りだった。花は風に揺れ、平原を舞うように咲き誇っていたという。
「祖国では何と呼ばれていた?」
「家族と、一部の親しい者は、シルファと」
「シルファ」
 大切な呪文のように、セレクはゆっくりと声に出した。
「よし。私もこれからそう呼ぼう」
「え?」
 シルファはセレクを見つめた。セフィードの王子は穏やかに笑んでいる。
「異国の者にその名で呼ばれるのは嫌か?」
「いいえ! とんでもない」
「では決まりだな。シルファ」
 セフィード語での会話の中で聞く、エレセータでの呼び名。不思議な気分がした。この名で呼んでくれる人はもういないだろうと思っていたのに。
「シルファ」
 セレクが再び呼んだ。
「はい」
 少し改まって返事をする。
 セレクは微笑み、静かな声で続けた。
「私のところに来てくれてありがとう。敵国の王子に嫁ぐのは怖かっただろう」
 怖かったどころか、今でも怖い。
 だがシルファは、その気持ちを押し込めた。何かに挑もうとするように顔を上げて笑みを浮かべる。
「王子こそ、敵国の王女を妃にするのは怖かったでしょう」
 セレクは声を上げて笑い、自分の淹れた茶を一口飲み、続けた。
「怖かったというか、確かに壁は大きかったな。逆風が強かった。父上がお倒れになってから、周りが急に妃を決めろとやかましくなった。何人かの候補も勝手に挙げてくれたが、私は以前から決めていた。妃はエレセータ王家に望むと」
「和平のためですね」
「そうだ。重臣たちに初めて言った時は、猛反対を受けたよ。誰一人として賛成などしてくれなかった」
「それでも実現されたのですから、素晴らしいと思います」
 シルファと二つしか変わらない、年若い王子。しかもまだ即位前で、病身の王の代理という立場だ。
 二国の建国から三百年近くが経つが、和平に至ったことは未だない。それをこの青年が思い立ち、実現させたのだ。
 しかしセレクは、静かに首を振った。
「まだ婚姻を結んだだけだ。本当の和平はこれからだろう」
 シルファはゆっくりと頷いた。それは嫁ぐ前から今まで、繰り返し自分に言い聞かせてきたことだった。嫁いだだけでは何も変わらない。二国を動かすのは、これからのシルファにかかっていると。
 盟友が自分と同じ決意を口にしたことが、シルファには心強かった。知らない国、知らない言葉、知らない人々。しかしセレクは、シルファと同じ先を見つめている。
 頷いた顔を持ち上げて微笑むと、セレクも笑み返してくれた。


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