水晶の空 [ 1−3 ]
水晶の空

第一章 盟友 3
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「顔を上げてください」
 声が聞こえ、シルファはそれに従った。
 水盤の傍らの王子は、シルファをまっすぐに見つめている。その顔に微笑が浮かぶのが遠目に見えた。
「どうぞ。こちらへ」
 シルファはゆっくりと歩き出した。
 言葉も魔力も飛び交わない水明宮は、水の中のように静かだ。
 水盤の数歩手前でシルファは足を止めた。もう一度、礼を尽くして腰を屈める。
「堅苦しいことはしないでください。まず自己紹介を」
 王子の声は静かだが、驚くほどよく通った。耳から頭へすっと入り込んでくる、流れるような口調だ。
 シルファが顔を上げると、王子は改めて微笑んだ。
「セフィードへようこそ、姫君」
 シルファは驚くと同時に深い安堵に包まれた。セフィードの王子がシルファに呟いたその言葉は、聞き慣れたエレセータ語だった。
「この日のために練習しました。もっとも、これ以外の言葉はほとんどわからないが」
 王子はセフィード語に戻って言った。シルファを気遣ってか、聞き取りやすいようにゆっくりと話してくれる。
 シルファは初めて、王子の姿をはっきり目に映した。
 セフィードの民族は全体的に色が淡いと聞いていたが、この王子も例外ではなかった。少しだけ不揃いに伸びた癖のない髪は、見事な銀色をしている。
 顔立ちはそつなく整っている。細い眉、切れ長の目、すっと通った鼻筋。一つ一つがどちらかと言うと小作りだ。しかし、よく見ると彫りは深い。
 シルファの目線は、自分を見据える彼の瞳で止まった。細められた瞼の中のそれは、明るい灰色をしている。
「どうされた?」
 王子が尋ね、シルファは自分の表情が変わっていることに気が付いた。迷わずそのまま微笑んだ。
「セフィードの王子は、きっと目が青いのではないかと思っていました」
 自然に言葉が出たことに、シルファは驚いていた。王子の細かい外見まで想像する余裕などなかったはずなのに。
 灰色の目は不思議そうに開いていたが、再び細められた。
「水に色はありません。青く見えるのは、空の色を映しているからです」
 歌うような声は、水明宮の高い天井まで昇っていった。
 王子がもう一度微笑み、シルファもそれに習った。
「改めて、ようこそシルファーミア王女。私はセフィードの第一王子。セレクという」
 セレク、とシルファは口の中で繰り返した。嫁ぐ前から何度も聞いていた名だったが、口に出したのは初めてだ。異国の名は少し奇妙に響く。
「エレセータ第二王女、シルファーミアにございます」
 シルファは小さく膝を折った。
「遠い道のりをご苦労だった。到着したばかりなのに、このようなところに呼び出したりして申し訳ない。だが王女には、始めに見てほしいものがあった」
「先ほどの……でしょうか。あれは……」
「そう。セフィードの水の魔力だ」
 セレクは続けた。
 セフィードの民は水を、エレセータの民は風を操る魔力を、古来より受け継いできた。個人ごとに力の差こそあるものの、それぞれの国に生まれた者は誰もがこの力を持っている。
 ただ一つの例外は、結界を張る魔力だった。セフィードは水の結界、エレセータは風の結界で、二国の上空に漂う瘴気を防いでいる。この力は二国の王家の者にしか使うことができない。人々の生活に危害をもたらす瘴気から国と民を守ることは、王族の最大の使命でもあった。
「我々セフィードの王族は、この水明宮で魔力を使い、結界を創る。それをまず見てほしかった。どう思った?」
「まるで、水の中にいるようでした」
 セレクが創り出した波紋が足元を通り過ぎ、天井まで走っていった光景は、今も目の奥に残っている。水の中にいるような、冷たく優しい力に守られているような気分になった。
 現在セフィードでこの魔力を使うことができるのは、セレク一人だ。父王は二年ほど前に病に倒れ、王宮から離れた土地で療養中だという。セレクはその世継ぎであり、亡くなった前王妃が遺したただ一人の王子であった。彼の異母妹にあたる二人の王女はまだ幼く、現王妃とともに病身の王について都を離れている。
 セレクはまだ即位していない王子だが、父王に代わって王宮と国を統治していると聞いた。結界を張ることもその役割の一つだ。
「ここから生まれた波紋が、水明宮から空に広がっていく」
 セレクは再び水盤に手をかざした。指先からゆっくりと波紋が生まれ、大きくなっていく。波紋は先ほどと同じように水明宮を支配し、シルファはあの水の中にいる気分を再び感じた。
「これが我が国の結界だ」
 セレクは続けた。
「瘴気から国と民を守る力。エレセータにも、同じものがあるだろう」
「ええ。風の力を借りて結界を創ります」
「守るための力なのに。そのせいで国同士が憎み合うなど、あってはならない」
 セレクの表情が鋭くなった。シルファは黙っていたが、心の中で大きくうなずいた。
 セフィードとエレセータ。二つの国が敵対しあう原因は、それぞれの結界にあった。場所によって結界の強さに差が出れば、瘴気はその弱い部分から少しでも入り込もうとする。そのため二国は競って結界の力を増し、互いを敵と見なしてきた。
「守るための力なら、互いに分け合い助け合うべきだ。だから和平を望み、エレセータに婚姻を申し込んだ」
 若き王子は声を響かせた。
 しばらく間を置いて、彼は表情を和らげるとシルファを見た。
「そのために一人の王女を犠牲にしたのは、すまないと思っている」
「なぜですか?」
 シルファは声を高めた。
「和平を望むのはエレセータも同じです。私自身も自ら望んで参りました。私が嫁ぐことで二国が歩み寄れるなら、この立場を誇りに思います」
 すらすらと言葉が出た。セフィード語に慣れていないことも、前にいるのが顔を合わせたばかりの嫁ぐ相手だということも、まったく気にならなくなっていた。
 セフィードの王子は、自分と同じことを考えているのだ。
 セレクは微かに驚いた表情を見せたが、やがて微笑んだ。
「なるほど。目的は同じか」
「ええ。私たちは盟友です」
「盟友か」
 セレクは満面に笑みを浮かべた。シルファも同じく笑う。
 自然と足が前に進み、水盤の側のセレクと近くで向き合う。
 セレクはセフィードでも背の高いほうだろう。こうして近くで見ると、かなり身長差があることがわかった。しかしシルファはまっすぐ顔を上げて、セレクと見つめ合った。
「仲良くやっていこう。私たちの絆が、二国の絆となるように」
「はい。よろしくお願いいたします」
 シルファが礼をすると、セレクの右手が前に差し出された。首を傾げたが、やがて思い至った。セフィードでは、手を差し出して握り合うという挨拶の形があった。
 シルファは恐る恐る、自分の右手を動かした。セレクの手が迎えに来て導いてくれる。二つの手は空中で出会い、確かに握り合った。
 王子の手は、水明宮のように静かな冷たさを持っていた。


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