水晶の空 [ 1−2 ]
水晶の空

第一章 盟友 2
[ BACK / TOP / NEXT ]


 セフィードの首都リュークは、大河からつながる水路を張りめぐらせた水の都だった。むしろ、水の上に街が浮かんでいると言ったほうがふさわしい。建物と建物の間に道はなく、代わりに水が流れ、その上を人々が船で移動している。
 シルファも都に入ると同時に輿から降り、小船に移って水路で王宮を目指した。
 生まれ育った土地とはまったく違う場所。エレセータではいつも側にあった風の優しさが、ここでは感じられない。あるのは冷たく硬い水の存在だけ。
 直線的な建築も、白い石でできた壁も、水面のように低く平らな街並みも、シルファの目には珍しく、そして奇妙だった。ラウドや侍女たちも同じだったらしく、全員が驚きを隠せない顔で水の都を眺めていた。
――この国を愛せるだろうか。
 水の上で揺られながら、シルファは何度も自分に問うた。故郷とは何もかも違う国を、物心ついたころから敵と教えられてきた国を、エレセータと同じように想うことができるだろうか。
 セフィードの王妃となったエレセータの王女として、シルファーミアの名は後世に伝えられるだろう。それは平和に至る歴史としてか、それともそうではないか。その明暗が、これからのシルファの身にかかっている。
 ふと我に返ると、水路の岸辺のあちこちから視線が送られてきていた。エレセータの王女の輿入れは、リュークで暮らす民たちにも知れ渡っているのだろう。指をさし、声をひそめあい、遠くからシルファを見つめる人々。居心地は決して良くなかったが、シルファは決して顔を伏せたりはしなかった。
「シルファーミア王女」
 隣でラウドが気遣わしげに声をかける。幼なじみが呟いた自分の正式な名が、シルファの心身をいっそう張りつめさせた。
 シルファは顔を向け、ラウドに微笑みかけた。
 視線の雨は一向にやみそうにない。王族として彼らに会釈を送ることも考えたが、震える手はなかなか持ち上がってくれなかった。

 セフィード王宮は中央の円形の宮と、その四方を取り囲む正方形の四宮から成る。リュークの水路を経てシルファの船が入ったのは、四宮の一つ南の宮だった。宴や儀式に使われる広間を持つ宮だという。
 王宮の中にも水路は続いている。四宮と中央の宮の間にも、静かな水面が広がっている。すべてが水を中心に回っている国なのだ。
 南の宮の城門前で船は停まった。シルファは船上から、王宮をゆっくりと見上げた。
 エレセータの王宮は、空を目指すように高い塔の並立だった。今、目にしている宮は背が低く、左右にも奥にも幅広く横たわっている。地の上に広がる水面のように。柱も壁も白い石で造られており、水路の上に淡い影を落としている。
 シルファはすっと息を吸い込んだ。初めてのセフィードの空気。今日からここで暮らす。この中に、伴侶となるセフィードの王子がいる。
「参りましょう」
 側近たちに告げ、シルファはラウドの手を借りてゆっくりと船を降りた。石の床に着いた足は少し冷たくなっている。
 シルファたちが歩き進むと、城門の兵士たちがいっせいに頭を下げた。その中で長らしき壮年の男が前に歩いてくる。向き合うと、彼はシルファより頭二つほども大柄だった。
 シルファはエレセータの女性として平均的な背丈だが、セフィードの民は長身が多いと聞く。この国ではシルファは小さく見られるのかもしれない。
「エレセータのシルファーミア王女、ようこそお越しいただきました」
 兵士の長はシルファの前で一礼した。
「宮中にご案内いたします。どうぞ、こちらへ」
 生まれて初めて耳にする、現地のセフィード語だった。シルファもゆっくりとそれを口にした。この半年ほど、必死で頭に叩き込んだものだ。
「よろしくお願いします」
 歩き出した兵士の後にシルファは続いた。ラウドや侍女たちもその後に従う。
 宮に入ってすぐに、十人近くもの人々に出迎えられた。男女比はちょうど半々ほど。高位の文官らしき老人もいれば、年若い女官もいる。皆、シルファが本でしか見たことのないセフィード風の衣服を纏っていた。
 今のシルファはエレセータ女性の正装をしている。前開きで襟元を斜めに合わせた朱色の上着。大きな袖を幕のように垂らしているのは高貴の証だ。腰は深緑の細い紐で縛り、同じ色の裳裾はくるぶしの辺りまで広がっている。
 セフィードの女官たちが纏う服は、シルファのものよりずっと細身で、また薄着だった。シルファの目にはそれが奇妙に映ったが、彼女たちにはシルファの装いこそ奇妙に見えているのだろう。
 シルファは彼らの前まで進むと、立ち止まって声をかけられるのを待った。中央にいた小柄な青年が、一礼して進み出てきた。
 シルファの身が一気に張りつめた。彼が、これから嫁ぐ王子だと思ったからだ。
 しかし青年は、シルファの前まで来ると言った。
「シルファーミア王女には初めてお目にかかります。私は王子の副官を務めております、ギルロードと申す者です。セフィードにようこそお越しいただきました」
「こちらこそ、お出迎えに感謝いたします。エレセータ第二王女シルファーミアです」
 王子ではないと知って一瞬気がほぐれたが、すぐに表情を整えなおした。よく見るとギルロードと名乗った青年は、話に聞いた王子と容姿が合わない。年の頃も彼のほうが上だ。
 人の列に視線を流したが、それと思わしき人物は見当たらなかった。嫁ぐ相手は出迎えの第一陣には加わらなかったらしい。
「我が王子は、王女とは立会人なしでご対面になりたいと仰っています」
 ギルロードが言った。
 心中を読まれたような気がして、シルファは慌てて我に返った。
「立会人なしで? こちらの側近は連れて行けないということでしょうか」
「もちろん、我が国の者も同席いたしません。王女お一人に来ていただきたいということでございます」
「わかりました。案内をお願いします」
 シルファの言葉を受けて、ギルロードは周りを促した。
 ラウドが後ろで何か言いかけたが、シルファは振り向いて目で制した。大丈夫、と声に出さず呟くと、彼はためらいがちに頷いた。
「こちらへおいでください」
 ギルロードは宮の奥を手で示した。
「王子は水明宮にいらっしゃいます」

 水明宮は、四宮に囲まれた王宮の中心部にある。
 ギルロードの案内で、シルファは南の宮から王宮の内側に出た。ここにも水路があり、右手に東の宮が、左手に西の宮が、そして正面に円形の水明宮が見える。シルファはまたもや小船に乗せられてその先に向かった。
 水明宮は平面の形だけでなく、上部の立体部分も天球のように丸みを帯びていた。白い石造りの四宮に対して、こちらは半透明の硝子でできている。
 水明宮のほとりでシルファを下ろすと、小船は侍従とともに引き返していった。
 シルファは再び息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。そして歩き出した。硝子の階段を上り、手を伸ばして扉に触れる。冷たさに驚きながら、少しずつ押していく。
 目の前に広がった光景に、シルファは呼吸するのを忘れかけた。
 円形の広間、球状の天井。冷たく硬質な硝子の空間。
 その中央に、一人の青年が立っていた。
 手元にある丸い台を覗き込み、来訪者に気がついていないようだ。
 シルファは口を閉ざし、足音を抑えて入り口で立ち止まった。扉はいつの間にか背後で閉まっていた。
 広間の中央にある丸い盆のようなものを掲げる台は、よく見ると水盤のようだった。青年はその上に手をかざし、すべての視線をそこに集中させていた。シルファは自分の気配を消してその光景に見入った。
 数十歩分ほど離れている青年の表情を、細かく読み取ることはできなかった。ただ恐ろしいほど真剣で、雑多な感情が一切ないことは見て取れた。
 やがて、その指先に変化が現れた。
 青年の手の下で、水面が小さく波打ち始めた。波は水盤の中央から始まり、次第に縁まで広がっていった。
 シルファが驚いたのはその次だった。
 水盤から生まれた波紋がそのまま床に伝わり、広間の全体に広がったのだ。シルファの足元も通り過ぎていった。そして壁を伝い、わずかに青みを帯びた硝子の天井にまで行き渡った。その中央で波紋はぶつかり合い、硝子を水面のように揺らした。
――空を創っている。
 上を見てそう感じた時だった。
「シルファーミア王女ですね」
 聞き慣れない声に、シルファの意識と視線は呼び戻された。水盤の側に立つ青年が、シルファに顔を向けていた。
 全身に緊張が走った。
 だがすぐに持ち直し、シルファはゆっくりと礼をとった。
「初めてお目にかかります、王子」


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.