水晶の空 [ 1−1 ]
水晶の空

第一章 盟友 1
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 細く高い塔が無数に立ち並び、頂上で旗が風と遊んでいる。
 シルファはこの光景が好きだった。象牙色の塔が、とりどりの美しい旗たちが、それを抱き上げる優しい風が好きだった。生まれ育ったエレセータ王宮のすべてを愛していた。
 しかし今、それらの愛しいものたちから遠く離れ、シルファは丘の上に立っていた。
 王都エレッサの入口にあるこの丘は、王宮が一望できることで有名だった。国境へと繋がる道の脇にあるが、その道を通る人間が少ないため、他に人の影は見えない。太陽が沈みつつあるこの時間、王宮の美しいたたずまいはシルファ一人のものだった。
 シルファは茶色の目を大きく開いて、一つ一つの塔を見比べた。あれは、国王の執務室がある塔。あれは宴に使う広い塔。あれは侍従たちが寝泊まりする塔。
 そして、可憐な花模様の旗を掲げた塔は、三人の王女が住まう塔。
 遠方を見渡す自分の目が、幼いころと同じくらい利くことに満足して、シルファはくすりと笑った。
 目を閉じて、寄り添ってくる風に心を委ねてみる。
 耳元を通り過ぎる風の鳴き声に、別の音が重なり始めた。人を乗せた馬がこちらへ近づいてくる。
「やはりここでしたか」
 地面に降り立つ足音に呆れたような声がかかり、ようやくシルファは目を開けた。
「侍女の方々が血相を変えていました。ふと目を離した隙に輿が空になっていたのですから、無理もありません」
「ごめんなさい」
 自分の前に膝を折った青年を見下ろし、シルファは言った。 
「でも、もう少しだけ」
 シルファは微笑むと、再び丘の下に視線を向けた。白い塔の群れは、先ほどよりも深い陽の色に染まっていた。
 旅の道が順調ならば、明日の今ごろはこの塔の見えない場所にいる。
「シルファ」
「どうしたの? ラウド」
 シルファは傍らの青年を見上げた。前にひざまずいていたのが、いつの間にか隣に立っている。彼は抑えた表情でシルファを見つめ、低い声で言った。
「今なら引き返せます」
「おかしなことを言わないで」
 即答したシルファの声は、言葉とは裏腹に穏やかだった。ラウドを責めるのではなく、言い聞かせるつもりで続ける。
「私は自分で選んだの。誰に強いられたわけでもない。自分で決めたの。セフィードに行くことを」
「敵国の王子に嫁いで、ご生涯を彼の国に委ねることを?」
「そんな言い方をしては、まるで囚われ人のよう」
「……実際にそうではないですか」
 シルファはラウドを見つめ、ゆっくりと首を振った。
 囚われるのではない。シルファは、成すべきことを成しに行くだけだ。

 セフィードの王子から婚姻を申し込まれたのは、シルファ自身ではなかった。エレセータ国王には王子が一人と、王女が三人。三人のいずれかを。それが王子の申し出だった。
 憎み合ってきた敵国だったが、エレセータ国王は和平を望んでいた。セフィードの若き王子も同じだったらしい。審議に審議を重ね、この婚姻は二国の友好の証として成立した。三人の王女のうち、誰を送るかも必然的に定まった。
 第一王女ウィンリーテには、すでに将来を誓い合った者がいる。
 第三王女フェルアリーナは、まだ十二歳という幼少。
 申し出を受けられるのは、第二王女シルファーミア一人だった。

「シルファ」
 長い思案にふける王女を心配してか、ラウドが声をかけた。
 シルファは振り向き、安心させるように笑いかけた。
「一緒に来てくれてありがとう、ラウド。あなたがいてくれて本当に心強い」
 エレセータ王宮の近衛兵士であったラウドは、シルファと同じ年である。幼いころから互いに見知った二人は、身分の差も気にせず一緒に遊び育った。シルファの輿入れが決まった時、誰よりも先に同行を申し出たのもラウドだった。
「シルファに比べれば、私の決断などもののうちにも入らないと思います」
 ラウドはシルファの前に回り、再び膝をついた。
「しかし、この手の及ぶ限りお仕えいたします。貴女はエレセータのすべての民の誇りです」
「ありがとう」
 シルファは小さくうなずいた。
 王宮を発つ前にも、多くの臣民がラウドと同じことを告げてくれた。貴女は私たちの誇り。国のために身を差し出した気高き王女のことは、この先のエレセータに永久に語り継がれてゆくでしょう。

「あなたが私の妹だということを、誇りに思います」
 出立の前夜、シルファの私室を最後に訪れたのは、姉のウィンリーテだった。
「どうか気を付けて行くのですよ」
「はい。リーテ姉上もお元気で」
 シルファが笑顔を見せると、第一王女は泣きそうな表情になった。聡明で責任感の強い姉が、実は誰よりも涙もろいことは、年の近いシルファがいちばんよく知っていた。
「……あまり難しく考えないでね」
 ウィンリーテは抑えた声で言った。
「セフィードの王子は、私と同じ十九になられるそうね。あなたよりは二つ年上。仲良くなれるといいわね」
「ええ」
「普通に嫁ぐのと何も変わらないわ。国や立場など忘れて、王子に愛されて幸せに……」
 ウィンリーテの言葉は沈み、辛うじて浮かんでいた笑みがついに失せた。
「私は先ほどから、自分に都合のいいことばかり言っているわね」
「姉上、そんな」
「ごめんね、シルファ」
 ウィンリーテの両目から、とうとう雫がこぼれ落ちた。
「本当は私が行くべきなのに。あなたに押し付けてしまったわね」
「やめてください。私は行きたくて行くのです」
 シルファは立ち上がり、姉の前でその顔を覗き込んだ。
「私には姉上のような特別な方がいませんもの。むしろ嫁ぎ先が決まって幸運でした。姉上のおっしゃる通り、幸せになれると思います」
「本当に?」
 うつむきかけていたウィンリーテは、再び顔を上げた。
「約束してくれる? 国のことよりも何よりも先に、自分が幸せになることを考えると」
「ええ、もちろんです」
「私は、罪の意識だけでこう言っているのではないの。本当にあなたに幸せになってほしいのよ」
 浮かべていた笑みはすぐに消え、ウィンリーテの瞳には真摯な光だけが宿っていた。これと同じものを、シルファは幼いころから何度も見てきた。
「約束よ。みんながそう思っているわ。父上も母上も、弟のリヒトも妹のフェルアリーナも、エレセータの者みんながあなたの幸せを願っていることを忘れないで」
 何度も繰り返される姉の言葉に、シルファは何度もうなずいた。
「わかっています。何があっても忘れませんから」

 頭上で束ねた髪が風に流され、シルファは無意識にそれを押さえた。
 姉との約束が気休めであることはわかっていた。シルファはもちろん、ウィンリーテも承知の上で言ったのだろう。
 建国以来、互いに背を向け合ってきた遠い敵国。その国とやっと結べる和平の条件が、シルファの輿入れだ。失敗すればどうなるかは誰もが心得ている。その鍵を握るのが、十七歳の王女一人だということも。
 シルファはもう一度、丘の上から王宮を見つめた。シルファがこの地を離れ、二度と戻ることがなくとも、この光景は変わらずここにあるのだろう。美しい塔の群れも、その上に掲げられた旗たちも、そのすべてを抱くように通り過ぎる風も。
 両親も姉も弟妹たちも、シルファを案じてくれている。懐かしい祖国は、いつも後ろでシルファを支えている。
 別れるわけではない。エレセータのために嫁ぐのだから。
「シルファ、そろそろ……」
 ラウドがためらいがちに声をかける。
 色を深めた太陽は、すでに地平線の向こうに沈んでいた。今日中に国境まで行き、そこで用意された宿に入らなければならない。
 シルファはうなずいたが、同時に思い出した。
「お願いがあります」
「何でしょうか」
 困ったように首を傾げる幼なじみを見て、シルファは少し笑った。
「あなたには幼いころから仲良くしていただきました。私のことをシルファと呼ぶのも、家族の他にはあなただけ。けれど今日この時より、それを禁じます」
「え……」
「シルファーミアと。他の臣下と同じように」
 ラウドの同行は本当に有り難かった。だがシルファは、それに甘えることを自ら禁じることにした。セフィードの未来の王妃となる者が、同郷の兵士といつまでも馴れ合っているわけにはいかない。
「承知しました。シルファーミア王女」
 ラウドが顔を引き締め、シルファは小声でありがとうと呟いた。
 エレセータの王宮を駆け回っていた幼いシルファは、この丘の上に置いて行く。セフィードに嫁ぐのは第二王女シルファーミア。その意味は古い言葉で『花咲く平原』。春の盛りに両親が与えてくれたこの名だけを、遠い異国に持って行く。
「では戻りましょうか」
「は? 輿をこちらに……」
「いいえ。私が歩きたいのです」
 シルファは胸を張り、冷たくなってきた風に身をさらした。確かに覚えておきたかった。髪を揺らす風がこれほど厳しく、これほど優しいということ。陽の沈む前後の空の色は、少し目を離す間に幻術のように移ろうということ。二本の脚で地の上に立ち、歩くということがどれほど心地良いかということ。
 明るい空の下を歩くのも、愛しい塔の群れを見つめるのも、今日が最後かも知れない。
「どうか私を忘れないで……」
 自分にだけ聞こえる声で、シルファは生まれ育った王宮に告げた。
 まさにその瞬間だった。
 空気が大きく波打つ音がして、シルファは見上げた。丘の下のどこかから、一羽の大きな鳥が飛び立っていくところだった。白い羽を広げ、風を抱くようにして宙を舞う。絵画のようなその風景に、幼いころ聞かされた神話を思い出す。
 シルファはもう一度、王宮に目を向けた。最後にしっかりとその光景を焼き付けておく。そして再び空を見上げた。
 鳥の姿はすでに消えていた。
 シルファはふわりと笑みを浮かべ、丘の向こうの者たちに背を向けた。


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