チョコレート王女の決断 [ 4 ]
チョコレート王女の決断

第4話 恋人
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 泡立てすぎたチョコレートを飲み終えた後、アデリナはそれまで書きためたチョコレート調書を出してきて、すみずみまで読み返してみた。ベルタに話し相手になってもらいながら原料や作り方についてあれこれと考え、新しいチョコレートのレシピが十枚近くできあがった。当分はこれを試すことで充実した日々を送れそうだ。
 気分が落ち込んでどうしようもない時は、チョコレートのことを考えるに限る。新しいスパイスの配合を考えたり、攪拌棒を動かしたりしていれば、同じところに立ち止まってはいられなくなる。
 そうして再びチョコレート色に染まって三日後、アデリナはあることを実行に移した。
「ご機嫌うるわしゅう、アデリナ王女」
 日も高いうちにアデリナの客間に現れたのは、ベルティエの蕾ことシュゼット・エストレだった。
「今日はお招きに預かって、望外の喜びでございます」
「あ、あの、掛けてください」
 アデリナはどきまぎしながらシュゼットに告げた。
 部屋の扉の近くにはアデリナの侍女たちがそろっており、その端に立っているベルタが心配そうな目を向けていた。
 はじめて間近で見るシュゼットは、晩餐の席で遠くにいる時の何倍も美しかった。金色の髪は夜とは違う形にまとめられ、窓からの光に負けず輝いていた。アデリナに遠慮してか飾り気の少ないドレスも、伏し目がちに膝を折る慎ましいしぐさも、かえって彼女が持つ艶のようなものを引き立てていた。
(世界には、こんなきれいな人がいるのだわ……)
 口を開けて見とれていると、いったん腰を下ろしたシュゼットが再び立ち上がった。アデリナがいつまでも座らないのを見て、怪訝に思ったらしい。
「あ、ごめんなさい、座ってください」
 アデリナが慌てて椅子に掛けると、シュゼットも再び腰を下ろした。
 この美女がなぜアデリナの部屋にいるのかというと、一緒にあたたかいものを飲もうとアデリナが誘ったからである。
 結婚してから恋人を持つのはベルティエではあたりまえのこと。まして王ともなれば美女のひとりやふたりと浮き名を流してこそ面目が立つものらしい。
 アデリナは将来、このベルティエの女主人となる可能性が高い。フェルナンに何と言われようが、少しでもここの文化に慣れておくべきだ。
 それでシュゼットに書簡を送り、自分の客間に招いたのである。
(これでは、どちらが女主人だかわからないけれど……)
 シュゼットの美しさを前に言葉も出ないアデリナと違い、シュゼットは礼儀を保ちながらも落ち着いている。
「今日はとてもあたたかいですね、アデリナ王女」
「は、はい。そうですね」
「ドゥルセでお育ちの王女は、ここの寒さには難儀されているのでは」
「ええ、寒くて驚きました。あ、でも、近ごろはだいぶ慣れてきて……」
 会話もシュゼットが先導してくれている。アデリナの言葉の遅さに苛立ったりせず、こちらにあわせてくれるところはジェラールと同じだ。本当の話術家というのはこういうものなのかもしれない。
 アデリナは彼女の美しさ、賢さに圧倒されたが、心配していた引け目のような感情は、意外にもいっさい湧いてこなかった。大輪の花や価値ある美術品を前にした時のように、シュゼットの魅力にただ純粋に感動した。
「アメールは、わたしの故郷とは異なることも多いですけれど、この宮殿も、庭園も、ここの皆さまもとても素敵で、早く馴染みたいと思っているところなんです」
 シュゼットのおかげでくつろいできたアデリナは、自分のことを素直に話した。
 シュゼットはにっこり笑った。アデリナと同じ十六歳であることを思い出させる、あどけなく澄んだ笑みだった。
「王女にこんなことを申し上げるのも失礼ですが、本当にお可愛らしい方なのですね。お話に伺っていたとおり」
(……フェルナンさまから?)
 ちくりと胸が痛んだが、アデリナは無視した。
「エストレ嬢は、ベルティエにいらっしゃってどのくらいになるのですか?」
「一年ですわ」
 シュゼットがさらりと答え、アデリナは絶句した。
「一年……」
「ええ。叔母が王太后陛下にお仕えしていたことがあり、ご厚意でわたしもお召しいただくことになりました」
「たったの一年……なんだか、生まれた時から宮殿に住んでいらっしゃるような気がしていました」
 シュゼットは碧い目をきょとんとさせた後、朗らかに声を立てて笑った。
「まさか。この一年は慣れないことばかりで、苦労のしどおしでした。ここへやって来たころのわたしときたら、王太后陛下のご指示を取りちがえたり、他の方のお言葉に何ひとつ返せなかったり、本当にひどいものでした」
「――本当ですか?」
「ええ。まわりを必死に観察しながら、なんとか皆さまと同じように振る舞えるようになったのです。アデリナ王女も今は戸惑われることが多いでしょうが、時間が解決してくれるはずですわ」
 アデリナはとっさに言葉が出てこず、シュゼットの美しい瞳を見つめることしかできなかった。
 ベルティエ宮殿で暮らしはじめて二ヶ月、こんな優しい言葉をかけてもらったのははじめてだった。ここの人々はアデリナのいたらなさを笑うばかりで、いつか慣れるだろうなどとは誰も言ってくれなかった。
(お話できて良かった……)
 シュゼットは評判どおりの、素晴らしい人だ。
 心の底からそう感じたアデリナは、シュゼットをここに呼んだ理由もどうでも良くなっていた。
「ありがとうございます、エストレ嬢」
「恐縮です」
 シュゼットは控えめに言うと、急に声の調子を変えて切り出した。
「それはそうと、アデリナ王女に差し上げたいものがあるのです。お招きいただいたお礼に」
 シュゼットは自分の膝から何か持ち上げ、アデリナと囲んでいるテーブルに載せた。
 銀と青の布で装飾を施した、両手に載るくらいの小箱だった。席に着いてからずっと膝に載せていたらしい。そういえば部屋にやって来た時、彼女は手に何か持っていた。
 シュゼットのほっそりした指が箱の蓋を持ち上げる。
 中に入っていたのは、濃い茶色をしたいくつかの塊――アデリナが愛してやまないチョコレートだった。
「当家の厨房で作らせたものです。お好きだと伺っていましたので」
「え――」
 アデリナは一瞬、耳を疑った。
 今日アデリナが用意させたのは、ベルティエ宮殿で人気のコーヒーだ。こちらが招待したのだから相手の好みにあわせようと思ったのである。
 アメールではチョコレートを飲む習慣は定着しておらず、作ることのできる者もほとんどいないと思っていた。アデリナはドゥルセから連れてきた料理人に作ってもらっている。宮殿に住む人々に土産として配ったこともあるが、芳しい反応はどこからも返ってこず、新興国の珍品として陰でけなされただけだった。
「意外にお思いでしょうが、アメールでもチョコレートを好む者は少しずつ増えています」
 シュゼットはくすりと笑って続けた。
「アデリナ王女にいただいたものを気に入って、自邸でこっそり作らせている者も少なくないはずです。異国の習慣ですから表だっては褒めにくいようですが、みんな心の底ではアデリナ王女をうらやましがっていますよ」
「ほ、本当に?」
 にわかには信じられなかった。
 ベルティエ宮殿に住む人々はいつも、アデリナをチョコレート王女と笑うついでに、チョコレートのことも馬鹿にしていたのだ。
「ええ、本当です。だって美味しいですもの」
 アデリナは自分の瞳が輝いていくのがわかった。
「美味しいですよね」
「ええ、とても」
「天使の飲み物ですよね」
「――はい?」
 シュゼットが笑顔のまま固まったのを見て、アデリナは慌てて手を振った。
「いえ、あの、とても嬉しいです。さっそくいただいてもいいですか?」
「もちろんです。お口に適うかどうかはわかりませんが」
 アデリナはベルタに頼み、厨房からたっぷりのお湯と、沸かし器と攪拌棒を持ってきてもらった。
 アデリナが自ら湯を注ぎ、攪拌棒を動かす間、シュゼットは意外そうに見守っていた。
 沸かし器の蓋を開け、用意されたふたつの茶器に中身を流し込む。ほどよく泡立てられたチョコレートは、器の中でゆらゆらと渦巻いていた。
「冷めないうちに、いただきましょう」
 アデリナはにっこりして自分の茶器を取った。シュゼットがそれに倣うのを確かめると、湯気をたてるチョコレートを口もとへ持ち上げた。
 ベルティエの人が作ってくれたはじめてのチョコレートだ。カカオや砂糖の配分は自己流だろうか。スパイスには何を使ってあるのあろう。アデリナがいつも使うバニラの他は、シナモンと、それから――
 アデリナは本能的に、茶器を顔から離した。
 嗅ぎ慣れない、何か異質なものの香りがする。
 アメール特有の食材を使っているのだろうか。しかし、わずかながら鼻孔を突くような冷たい香りは、口に入れるものだとはとうてい思えない。天使の飲み物にはふさわしくない。
 アデリナは自分の茶器をテーブルに置き、向かいにいるシュゼットを見た。シュゼットは茶器を傾け、自分が作らせたチョコレートを唇につけようとしているところだった。
「飲んではだめ!」
 アデリナはとっさに席を立ち、シュゼットの手首をつかんで顔から引き離した。茶器の中身が勢いをつけて飛び出し、シュゼットの椅子の脇に流れ落ちた。
「姫さま!?」
「ベルタ、誰か人を呼んできて、このチョコレートを調べさせて」
 ベルタはすぐさま理解を顔に表し、アデリナの指示に従うため扉を開ける。他の侍女たちもさすがは訓練された女官らしく、アデリナとシュゼットのもとに駆け寄ってくる。
 アデリナは侍女たちからシュゼットに視線を戻した。手首をアデリナにつかまれたままのシュゼットは、美しい顔を蒼白にしてアデリナを見上げていた。
「どうしてわかったのです?」
「――え?」
「このチョコレートが毒入りだと、どうしてわかったのですか」
 アデリナは愕然としてシュゼットから手を離した。かわりに侍女のふたりがシュゼットの左右に立ち、彼女の肩と腕を押さえこんだ。
 されるがまま抵抗しないシュゼットを見て、アデリナは失望とともに理解した。毒を入れたのはシュゼットなのだ。彼女の知らないうちに何者かが手を加えたわけではなく。
「姫さま」
 ベルタが部屋に戻ってきた。その後ろから彼女が呼んだらしい数人の衛兵が続いて来る。最後に少し遅れて入ってきた人物を見て、アデリナは目を見開いた。
「――フェルナンさま」
「アデリナ王女、ご無事ですか?」
 フェルナンはまっすぐアデリナの前にやってきて訊いた。
 テーブルの上では沸かし器が倒れ、皿に残ったチョコレートの塊が散らばり、絨毯には暗いしみが広がっていた。アデリナは立ち上がってテーブルに身を乗り出したままで、シュゼットはふたりの侍女に取り押さえられたままだった。
(あ、心配させてしまったのだわ)
 だいぶ遅れてアデリナは気づき、フェルナンに体を向けて立ち直した。
「大丈夫です。なんともありません」
「本当に?」
 フェルナンに食い入るような目で見つめられ、アデリナはぎこちなくうなずいた。もとが険しい顔つきのフェルナンは、真剣な表情になると少しばかり怖い。
 フェルナンはその顔を少し緩めたと思うと、また怖いほうに戻って今度はシュゼットを見た。
「エストレ嬢、あなたが王女に危害を加えようとしたのですか」
 シュゼットはフェルナンを見ず、口も開かなかった。顔色は青ざめたままだったが、不思議と落ち着いているようにも見えた。
「なぜそのようなことを?」
「あの……わたしがフェルナンさまの婚約者だからでは」
 怖い顔の恋人に詰問されるシュゼットが気の毒になって、アデリナは口を挟んだ。
「恋人に決められた婚約者がいたら、辛いと思いますもの」
 フェルナンが振り向き、怪訝そうに眉をひそめた。アデリナの言っていることがまったく理解できていない様子だ。
「恋人? あなたは何を言っているのですか」
「え、だって……」
「エストレ嬢の恋人はジェラールですよ。――だからあなたは彼女のことを気にしていたのではなかったのですか」
「え……」
 アデリナはぽかんとしてシュゼットを見た。
 フェルナンとシュゼットが恋仲であるということを、アデリナに請われてしぶしぶ教えてくれたのがジェラールだ。
(そのジェラールさまが、エストレ嬢の恋人って……)
「なるほど。あなたはジェラールに命じられてこんなことを」
「違います」
 フェルナンに厳しく問いつめられると、シュゼットは目を上げて遮った。
「オービニエ公の恋人を演じろとお命じになったのはジェラールさまです。でも、今日のことはわたしが勝手にしたことです」
「――なぜ」
「ジェラールさまに、王位についていただきたかったから。アデリナ王女とオービニエ公の仲を引き裂くだけではなく、いっそご婚約を無にしてしまえたら、ジェラールさまは王位に近づけると思ったのです」
 シュゼットはフェルナンから目を離して続けた。落ち着いているというより、疲れているように見えた。
「ジェラールさまには王太后陛下のご居所でお会いし、声をかけていただきました。とても優しくしてくださったけれど、妻になれないことはわかっていました。オービニエ公を王位に近づけられるアデリナ王女と違い、わたしには何もありませんでしたから。だから、アデリナ王女を騙すように命じられた時、わたしは嬉しかったのです」
 アデリナは思わず息を呑んだ。
 嬉しいとはどういうことか。
 シュゼットの話を聞いていると、ジェラールはずいぶんとひどいことをしている。自分の恋人に他の男性と恋仲であると装わせ、王位を手に入れるための計画に加担させるなんて。
「ようやくジェラールさまのお役に立てると思うと、本当に幸せでした。あの方にとって恋人のひとりでしかなかったわたしが、あの方を王位につけて差し上げられるのですから」
「それでアデリナ王女にこんなことを?」
 シュゼットはうなずいた。
「何の罪もないアデリナ王女に、許されないことをいたしました。謝罪で済まされることではありませんが、申し訳ございませんでした」
 シュゼットはアデリナをまっすぐ見つめ、それから目を伏せた。アデリナの隣にいるフェルナンは、もう彼女に何も言おうとしなかった。
 話が終わったのを見て衛兵ふたりがシュゼットに近づき、左右から挟み込むようにして席を立たせた。
「どうして?」
 部屋から連れ出されようとしているシュゼットに向かって、アデリナは声を出した。
「あなたみたいな素敵な人が、どうして」
 他人のため、それも恋人を利用するようなひどい人間のために、人生をだいなしにしなければならないのか。
 アデリナに飲ませようとした毒入りチョコレートを、シュゼットは自分も飲もうとしていた。ジェラールのためにアデリナの命を奪うと同時に、自分の命も絶とうとしたのだ。信徒として決して赦されないことなのに。
 なぜそこまでしなければならないのだ。こんなに若く、美しく、聡明で、思いやりにも溢れた素晴らしい人が。
 自分が騙されていたことより、毒を盛られそうになったことより、どうしてという思いで胸がいっぱいだった。それを言葉にしたかったが、うまく口に出すことができなかった。
 シュゼットはアデリナの言いたいことを汲みとったのかどうか、疲れたような顔で微笑んだだけだった。


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