チョコレート王女の決断 [ 3 ]
チョコレート王女の決断

第3話 天使の飲み物
[ BACK / TOP / NEXT ]


 シュゼット・エストレが広間に現れたことに気づき、アデリナは思わず彼女を目で追った。
 ベルティエ宮殿での晩餐はいつも、宴のように広間で盛大に繰り広げられる。長テーブルの端から端まで賓客や廷臣が居並び、上座にいるアメール国王の健康を祝って杯を上げる。
 アデリナはドゥルセの王女として、王のすぐ脇に席を与えられている。王のふたりの甥、フェルナンとジェラールの姿はない。そろって郊外の視察に出かけているらしい。
 シュゼットが上座からだいぶ離れた席に着くと、左右にいた男性が彼女に視線を流した。
(あれが、シュゼット・エストレ嬢)
 アデリナはぼんやりとその姿を見つめた。
 彼女の名を教えてくれたのはジェラールだ。昼間、彼が口を滑らせたことがどうしても気にかかっていたが、うまく聞き出すことができずにいた。ジェラールはアデリナのそんな様子を察して、重い口を開いてくれたのだ。言葉を選び、フェルナンのこともアデリナのことも、そしてシュゼットのことも傷つけないように気遣いながら。
 シュゼット・エストレという名前だけなら、アデリナも以前から知っていた。王太后の侍女のひとりで、出自は伯爵令嬢。なぜその名を聞いていたのかといえば、彼女が宮殿でも一、二位を争う美貌の持ち主だからだ。
 こうして同じ空間で見るシュゼットは、確かに美しい。くせのない絹糸のような金髪。蝋燭に照らされた繊細な顔だち。フリルに包まれた首は白鳥のように細い。楚々とした雰囲気でありながら、長い睫毛や柔らかな身のこなしに、年齢ばなれした色香がある。自分と同じ十六歳だというのがアデリナには信じられない。
 ベルティエの蕾、と呼ばれているのもうなずける。
(あれが――フェルナンさまの恋人)
 ジェラールは言葉を濁していたが、ふたりの関係はアデリナがここにやってくる前からのようだ。
 シュゼットが仕えている王太后、つまりフェルナンの祖母は孫たちを可愛がっている。真面目なフェルナンはそんな祖母のもとへ足しげく通っているのだろう。そこで自分と同年代の美しい女官を見つけ、懇意になってもおかしくはない。
 側に座る王が話しかけてくれているが、アデリナはほとんど受け答えできない。次々と運ばれてくる料理にもなかなか手をつけられない。
 少しでも口に入れようと手を伸ばしかけた時、テーブルの離れたところで声が上がった。目をやると、シュゼットを中心にまわりの男女が優雅に笑っている。廷臣のひとりが発言したことに対して、シュゼットが何か気の利いた言葉を返したらしい。
「エストレ嬢にはやはり適わない」
「あらわたし、あなたをやり込めたつもりはありませんわ」
 ベルティエで注目を浴びるには、美貌だけでなく話術も必須。どうやらシュゼットはそちらの面でも優れているらしい。
 アデリナは食事に伸ばしかけた手を止め、しばらくそのまま静止していた。
 ベルティエ宮殿では、結婚した後の恋愛こそが華だ。すでに身を固めている男性が恋人を持つこともめずらしくない。アデリナの側に座っている王にも何人かの女性がいるという。夫の放埒に目をつむり、必要なら他の女性たちと親しくつきあうことも、ベルティエの女主人として欠かせないのだと聞いたことがある。
 しかし、アデリナの育ったドゥルセでは信仰上の掟も根強く、ベルティエほど婚外恋愛に寛容ではない。アデリナの両親は仲睦まじい夫婦だったし、すでに結婚した兄姉たちもあたたかい家庭を築いている。
 故郷のそうした結婚観を捨てられない自分は子どもじみているのだろうか。ベルティエ宮殿で生まれ育ったフェルナンとは、しょせんは相いれないのだろうか。

 考えごとが行きづまっている時、攪拌棒でチョコレートを泡立てていると前へ進むことが多い。沸かし器から突き出した柄を上下させながら、アデリナは頭の中も同時にかき回してみる。
 フェルナンとシュゼット、美しいシュゼット、ベルティエの蕾、ベルティエ流の恋愛遊戯、アデリナには理解できない、どうせわたしはチョコレート王女――
「姫さま、ちょっとやりすぎでは」
「……あ」
 ベルタに声をかけられ、アデリナは棒を動かす手を止めた。
 いつも砂時計で攪拌の時間を計るのだが、その砂はとっくに落ちきってしまっている。棒を握っていた手は少し汗ばんでいて、自分が必要以上に力を込めていたことに気づく。
「どうしよう、失敗かしら」
 アデリナは攪拌棒を抜き、沸かし器の蓋を開けた。嗅ぎ慣れた濃厚な香りが立ち昇ってきた。
 中を覗きこむと、きめ細かい泡が厚い層をつくっている。
「これはこれで美味しそうじゃありません?」
「……ほんとね」
 泡立てすぎてチョコレートそのものの量は減ってしまったかもしれないが、無数に重なった泡はクリームのように柔らかそうで魅力的だった。何が思わぬ発見につながるかわからないものだ。
「でも、今日は普通のチョコレートを作りたかったのに」
 そのために材料の配合も簡単なものにした。カカオと砂糖の他はバニラを少しだけ。冒険せず、飲む者を選ばないチョコレートにしたかったのだ。
 理由はもうすぐやってくるはず、と思っていたら、侍女のひとりがまさにそれを告げに来た。

「アデリナ王女、ご機嫌うるわしゅう」
 型どおりの挨拶を今日も述べながら、フェルナンはアデリナの手に唇をあてた。
「ありがとう、フェルナンさま。あの」
 アデリナは腰かけたまま視線を動かした。
 部屋の端のテーブルには、チョコレートの入った沸かし器と、それを流し入れる茶器が置かれている。テーブルの脇に立って控えているのはベルタだ。
「いまチョコレートを作ったところなんです。よろしかったら、おつきあいいただけませんか?」
 部屋に来てすぐに飲んでもらえるよう準備しておけば、一度くらいはつきあってくれるかと思ったのだ。そのために今日は好き嫌いのない単純な味にした。
 アデリナは、チョコレートを一緒に飲みたいというより、フェルナンと話がしたかった。たまには彼にこの部屋で座ってもらいたかった。
(やっぱり、ちゃんとフェルナンさまの口から聞きたいし)
 シュゼットのことだ。ジェラールがアデリナに偽りを吹き込んだとは思わないが、アデリナがひとりで想像を膨らませて誤解しているところはあるかもしれない。フェルナン自身の言葉で本当のところを聞かせてほしい。
(フェルナンさまがちゃんと話してくださったら、わたしはそれを受け入れよう)
 シュゼットがフェルナンにとって大切な人なら、自分にそれを奪う権利はない。考えてみればいいことなのかもしれない。気のおけない肉親の少ないフェルナンに、あんな素敵な恋人がいるということは。
 弾んだ会話でフェルナンをくつろがせることなど、自分にはできないのだから。
「あいにくですが、このあとも予定が詰まっていまして」
 予想どおりの答えが返ってきたが、アデリナは怯まなかった。
「少しお座りになるだけでもいけませんか? お尋ねしたいこともあるのです」
「何でしょうか」
 フェルナンはアデリナの前に立ったまま、短く訊いた。
(え、今ここで?)
 さっさと話せと言わんばかりのフェルナンの態度に、アデリナはたじろいだ。もっと自然に聞き出したかったのに、これでは何かの諮問のようだ。かと言って、フェルナンの気を変えて座らせ、別の形であらためて切り出すような器用なまねは、アデリナにはできない。
(しかたがないわ、どうせどんなふうに聞くのだって勇気が要るんだし)
「お尋ねしたかったというのは……シュゼット・エストレ嬢のことですわ」
 アデリナは意を決して、その名前を口にした。
 そして目にしたものは、フェルナンの瞳が氷のように冷え込む瞬間だった。
「なぜ、あなたが彼女のことを気にするのです?」
「――え、あの」
「ああ、昨日ジェラールに会って何か聞いたからですか」
 胸を殴られたような衝撃がきた。
 ジェラールと会って話をしたのは本当だ。フェルナンに相談することもできず、結果として彼に黙って誘いを受けることになった。フェルナンはそのことを耳にし、アデリナに怒りを覚えているのだろうか。婚約者がありながら別の異性と親しんでいるのは自分のほうだろうと。
「フェルナンさま、あの……」
「エストレ嬢のことでしたね。彼女は素晴らしい女性です。美しいだけではなく聡明で、一緒にいる者を退屈させません」
 シュゼットの評判は何度も他人から聞いた。自分の目で確かめて、すべてそのとおりだと思いもした。
 けれど、フェルナンの口からそれを聞くと、予想もしていなかった鋭い痛みが襲う。
「――ですが、そんなことはあなたに何の関係もない」
 それが最後の一撃だった。
 関係ない。シュゼットのことは、アデリナには関係ない。
 国の思惑で嫁いできた何の取り柄もない王女は、夫がどんな美しい女性と恋愛しようと、口を挟むべきではない。
「あまり、宮殿の噂話に耳をお貸しにならないほうがいい。あなたにはもっと平穏な暮らしがお似合いです」
 言葉だけ受け取れば、宮殿の文化に慣れないアデリナを気遣ってくれているように聞こえる。
 しかし、シュゼットのことを見聞きし、フェルナンの氷のような瞳を見たばかりのアデリナには、とてもそのようには思えなかった。
 新興国から来た、丸々として野暮ったい、何をやらせてもぱっとしない――
『チョコレート王女』
 フェルナンも、アデリナのことをそのように思っているのだ。
「お尋ねになりたいのは、それだけですか」
 フェルナンはアデリナを見下ろし、抑揚のない声で訊いた。
「は、い」
「ではこれで。ご機嫌うるわしゅう」
 いつものように礼儀正しく述べると、背を向けてアデリナから去っていく。
「姫さま」
 扉が閉まると同時に、ベルタが足早に歩み寄ってきた。
「大丈夫ですか」
「――うん」
 アデリナは、自分が声を出せたのかどうかもわからなかった。
(ぜんぶ、わかっていたことじゃない)
 自分はこのベルティエ宮殿に似つかわしくない。フェルナンにとっては何の魅力もない婚約者で、王位に近づくための手段でしかない。美貌と才気を兼ね備えたシュゼットのような女性とは勝負にもならない。
 そもそも自分はフェルナンに恋しているわけでもない。国と国の都合で引きあわされたのはお互いさまだ。フェルナンが好意を示してくれないからと言って、傷つくいわれはない。
 わかっているのに、どうしてか涙が止まらない。
「姫さま、これを」
 顔を上げると、ベルタが陶製の茶器を手にしていた。中に入っているのは、先ほどアデリナが作ったチョコレートだ。
「――ありがとう」
 アデリナは涙を拭うと、茶器を手に取った。
 攪拌しすぎて泡の多くなったチョコレートだったが、時間を置いたせいか泡はだいぶ落ち着いている。
 フェルナンと一緒に飲むために作ったチョコレート。
 アデリナは器を唇にあて、一口飲んだ。こんな日に飲むチョコレートもいつもと同じ、少し苦くてたっぷり甘い、体を芯からあたため、涙の味も消してくれる、天使の飲み物だった。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.