チョコレート王女の決断
第2話 庭園
大陸諸国の羨望の的となっている、アメール王国の至宝ベルティエ宮殿。その中でも圧巻の場とされる広大な前庭。宮殿そのものの十倍の広さを持つそこは、庭というよりひとつの村のようである。
自然のままの姿を留めているようで、実は宮殿との調和に気を配った森林。大陸一の造園家が設計したという緑の迷路。季節ごとにさまざまな花が彩りを添える花園。
アデリナはベルティエに移り住んで以来はじめて、この庭園に足を踏み入れていた。
一緒に歩いているのは、宮殿の主であるアメール国王でも、婚約者であるフェルナンでもない。そのフェルナンと王位を争っているという、王のもうひとりの甥ジェラールだ。
彼はアデリナの隣で顔を向け、こう尋ねた。
「寒いですか、アデリナ王女」
「ええ、少し」
必死に微笑みながら、アデリナは答えた。
(本当は、少しどころではないのだけれど)
今の季節、ベルティエ宮殿の庭園に花はまったく見られず、かわりに緑を覆っているのは白銀の雪だ。それでなくてもアメールは年間を通してドゥルセより気温が低く、ベルティエで迎えるはじめての冬はアデリナにとって想像以上に寒い。
ジェラールへの礼儀としていちばんましなドレスを着てきたつもりだが、その上に分厚い外套を羽織るはめになったのでまったく意味がない。ただでさえ丸ぼったい体がさらに膨張して見えるだろう。
(こんな日は、部屋の中であたたかいチョコレートを飲んで過ごすのがいちばんなのに)
なぜ自分は、ろくに話したこともない婚約者の従兄と、極寒の雪の中を歩いているのか。
ジェラールから果物と誘いを受け取って数日間、アデリナは悩みに悩んだ。フェルナンの敵とも言える人物と自分が会ってもいいのか。そもそもジェラールは何のためにアデリナを誘ってきたのか。
ベルタもはっきりとした答えを出せないようだし、他の侍女たちには話しづらい。いちばん相談したかったフェルナンは、会いに来ても例の型どおりの言葉を置いて去ってしまい、要領の悪いアデリナには切り出すすべもなかった。
悩んでいるうちに日数が過ぎ、これ以上待たせては礼儀に外れるだろうというところまで来て、アデリナは結局受けることにした。
ベルティエ流の社交や駆け引きなど、どのみち自分にはわからない。ならば、少しでも失礼にならない選択をするしかない。
「こんな寒い日に、お連れ出しして申し訳ありません」
ジェラールはアデリナにあわせて歩調を落とし、アデリナが雪の上を歩かなくて済むよう気を配ってくれている。着ぶくれしたアデリナとは違い、屋内にいる時とほとんど変わらない軽装だ。くせのない灰茶色の髪に長身もあいまって、すっきりと洗練されて見える。
アデリナは返事をしようとしたが、くしゅん、という音が声より先に飛び出した。
「……ご、ごめんなさい」
「やはり寒すぎましたか」
「いいえ――ええ、あの、寒いですけれど、風邪はひかないと思います。丈夫なたちなので」
しどろもどろになりながら会話をつなごうとする。もともと話すのは得意ではないが、寒さのせいで余計に頭がまわらなくなっているらしい。
(これだからわたしは、チョコレート王女と呼ばれて馬鹿にされるんだわ)
自分が笑われることにはもう慣れたが、嘲笑の意味でチョコレートの名を使われるのは耐えがたい。
ジェラールはアデリナのたどたどしさを笑うことも、うんざりした表情を浮かべることもなかった。ベルティエの貴公子らしいそつのない物腰で、アデリナに対しても礼儀正しい態度を崩さない。宮殿に住む人の多くがアデリナの愚鈍さに苛立ち、それを隠そうともしなかったのとは大きな違いだ。
文武に秀で、人柄にも優れ、血筋では劣っても王位にふさわしいという評判に偽りはないようだ。
もっとも、彼はフェルナンより四つ年上なので、今現在のふたりを比べて優劣をつけるのは、いささか公平さに欠ける気もする。
「来てくださってありがとうございます、アデリナ王女」
「こちらこそ、あの、美味しい果物を」
「お呼びたてしたのは、あなたとお話ししたいことがあったからです。それが済んだらすぐに宮殿の中へお送りしましょう」
「はい。お話というのは――」
アデリナは聞き返し、すぐに不作法だっただろうかと反省した。相手の話を性急に促しては、さっさと切り上げたがっているように思われかねない。
ベルティエで揉まれた貴婦人ならば、思わせぶりな言葉で会話を延ばしつつ、相手からうまく話を引き出すのだろうか。
ジェラールは不愉快な顔ひとつ見せず、アデリナに優雅な笑みを向けた。
直後、その笑みが急に消えた。
「――危ない」
え、と声を出す暇もなく、アデリナは視界がふさがるのを感じた。ジェラールが覆いかぶさってきたのだと気づくのに、数秒かかった。
ばさり、と何かぶつかる音が、ジェラールの体ごしに聞こえる。
「この時間になると雪がとけてくるんです。あなたにかかりませんでしたか?」
「あ……はい」
ジェラールの腕が離れても、アデリナはまだ動くことができない。純粋に驚いたのと、ジェラールの近さに圧倒されたのとで、体がすっかり凍てついている。
どうにか目だけ動かすと、ジェラールの肩のあたりを、粉々になった雪が覆っているのが見えた。
「このくらいは何ともありません。それより、あなたに危ない場所を歩かせてしまって申し訳ない」
ジェラールはアデリナの視線を読みとり、笑って自分の肩を払った。それから笑顔のまま、抱きついてきた直後の距離のまま、アデリナの顔を見つめた。
危ない場所を、と言ったわりに、雪の積もった大木の下から動こうとしない。近くで見るとジェラールの青い瞳は紫がかっており、それが明るい表情に陰のようなものを落としている。
「美しい瞳ですね」
ジェラールは、アデリナが思っていたのとまさに同じことを言った。
「――は、い?」
「あなたの瞳。それほど深い茶色なのに、近くで見ると澄んでいる。ベルティエの――アメールのどの女性も持っていない色だ」
アデリナは思わず、雪の残った地面を後ずさりした。
(これって――ひょっとして、ひょっとして)
口説かれている、というやつだろうか。
こんな美男子に本気で口説かれると思うほど自惚れていないが、アデリナはフェルナンの婚約者だ。フェルナンはアデリナを未来の妻に得たことで、ジェラールとの王位争いで大きく前へ出ることになった。そのことに業を煮やしたジェラールは、アデリナに近づいてフェルナンの足場を崩そうとしているのだろうか。
もともとベルティエ宮殿では、結婚してからの恋愛遊戯こそが人生の華だと言われている。他人の妻である美女を手に入れることが男の真価であり、夫ではない男性に望まれることが女の本懐なのだという。
既婚者でさえそうなのだから、まだ婚約の段階であるアデリナを口説いても何ら問題はない。ベルティエの文化に親しんだジェラールはそのように考えているのだろうか。
「アデリナ王女」
「――きゃっ」
ジェラールが長い沈黙を破ったのと、アデリナが叫んだのはほぼ同時だった。視界が上下に動いたかと思うと、アデリナは背中から地面に転がっていた。
「大丈夫ですか、アデリナ王女!」
「ご、ごめんなさい。平気です」
慌てて駆け寄ってきたジェラールに手を添えられ、アデリナはどうにか立ち上がった。突き出した木の根と雪に足をとられ、ものの見事に転んだのだった。
恥ずかしさのあまり顔を熱くするアデリナを見て、ジェラールは軽やかに笑った。
「放っておけない方だな。フェルナンは、あなたが愛しくて仕方がないのでしょうね」
(いいえ、大いに放っておかれてます)
心の中で返しながら、アデリナはまだ警戒を解けずにいた。ジェラールは嫌味っぽくなくアデリナを褒めてくれるが、裏にはフェルナンを出し抜くための戦略があるのかと勘ぐってしまう。
「やはり、この季節にこのような場所に連れ出すべきではありませんでしたね」
「いいえ……あの、ここのお庭にはずっと来てみたいと思っていたので」
ジェラールに促されて木から離れながら、アデリナはたどたどしく答えた。
「フェルナンは、あなたをまだここにご案内していないのですか」
「フェルナンさまはお忙しいので、わたしを訪ねてきてくださる時と、あとは、ええと……夜会や晩餐の時しか、お会いしていません」
「いけないな、それは」
ジェラールが急に立ち止まったので、アデリナも足を止めた。思いのほか真剣なジェラールの声と表情に、アデリナはおろおろする。
(あ――わたし今、隙を見せた?)
事実をそのまま述べただけだが、今の自分の発言はまるで、フェルナンが構ってくれないと言ってジェラールに甘えているようだ。ジェラールのもくろみがアデリナの考えているとおりなら、彼に絶好の糸口を与えてしまったことになる。
ジェラールはアデリナの様子に気づいたのか、苦笑を浮かべた。
「誤解しないでください。従弟を悪く言うつもりはないんです。今度あいつに会ったら、説教のひとつもしてやろうと思っただけで」
「――説教?」
「フェルナンとは幼いころからこの宮殿で会っていましたから、兄と弟のようなものです。ぼくと彼が王位をめぐって対立していると思われているようですが、仲は悪くないんですよ」
ジェラールはアデリナを促し、再び歩きはじめた。
「ぼくには親きょうだいがいますが、フェルナンは独りぼっちですから。あなたという素晴らしい妻を得て、彼もようやく孤独から解放されると安心していたところでした」
「あの……それでわたしとお話を?」
するすると警戒がほどけていくのを感じながら、アデリナは尋ねた。
「フェルナンの妻となられるあなたは、ぼくにとっては義妹のようなものですからね。あいつをよろしくと申し上げたかったし、あなたとも親しくなりたかったのです。フェルナンは少しとっつきにくいところもありますが、真面目ないい男ですよ」
「ええ、そう思います」
アデリナは心から答えた。
胸を撫でおろすと同時に、誤解していた自分を恥ずかしく思う。
孤独だと思っていたフェルナンに、こんないい兄のような人物がいた。しかもそれは、王位を争っていると思われている従兄その人だった。
「あの、では、ジェラールさまも、フェルナンさまが王位を継がれるのがいいと」
「それとこれとは別です。ぼくにも野心がないわけではない」
ジェラールはさらりと答えた。
「幼いころからこの宮殿で、祖父や叔父の手腕を見てきましたから。自分の裁量で国を動かし、豊かにしていく仕事に興味はありますよ」
「つまり――王位はジェラールさまにとってのチョコレートなのですね?」
アデリナが思わず言うと、ジェラールはきょとんとした。
「チョコレート?」
「あっ、すみません……その、大好きで、大切で、より良いものにするために惜しまず努力できるもの、という意味です」
アデリナにとってチョコレートはまさにそういうものだ。美味しいチョコレートを作るためなら何時間でも頭を使えるし、そうしていれば辛いことのひとつやふたつ忘れてしまえる。
馬鹿にされるかと思ったが、ジェラールは声を上げて笑った。
「なるほど。確かにそうかもしれません」
「おかしなことを言ってごめんなさい」
「いいえ、面白い例えです。そんなにお好きなのですか、チョコレートが」
「あ、はい。よろしかったら、今度」
アデリナは言いかけてはたと止まった。
自分は、ジェラールをチョコレートに誘おうとしているのか。フェルナンと一緒に飲んだことは一度もないのに、その従兄と。
しかし、何度誘っても、フェルナンがチョコレートにつきあってくれたことはないし、これからもないだろう。
アデリナが続きを言う前に、ジェラールがにこりとした。
「機会があれば、ぜひあなたの愛するチョコレートを飲ませてください。フェルナンと一緒に」
非の打ちどころのない返しだ。さすがはベルティエの貴公子。
「はい、こちらこそ、ぜひ」
「それにしても、こんな楽しい方だとは存じませんでした。あなたとろくに時間を過ごさないなんて、フェルナンは馬鹿なやつだ」
「あ、それは……フェルナンさまはお忙しいので」
「そうでしょうが、他の女性と過ごす時間があるなら、婚約者であるあなたともっと」
アデリナは、ゆっくりと表情をなくした。
耳から入ってきた言葉が胸に響き、そこを凍らせていく。
ジェラールを見ると、彼は片手で口もとを押さえていた。
「――え?」
「ああ、忘れてください。言い間違えました」
もの慣れた彼らしくない、簡素な言葉だ。彼がとっさに言い繕ったのだと、言い繕わねばならない理由があるのだとうかがい知れる。
「ジェラールさま?」
「やはりここは寒すぎますし、宮殿の中に戻りましょうか。大回廊の美術品をまだご覧になっていないのでは?」
ジェラールはあからさまに話題を変え、そこからは巧みに会話を運んでいった。しかし、彼が漏らした言葉はアデリナの胸から消えなかった。
(――他の女性)
フェルナンがいつも忙しそうにして、アデリナとろくに話もしてくれないのは、真面目で勤勉だからではなかったのだろうか。
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