チョコレート王女の決断 [ 1 ]
チョコレート王女の決断

第1話 婚約者
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 ベルティエ宮殿で暮らすようになっておよそ二ヶ月。アデリナは、ここの住人たちに自分がどう言われているか知っていた。
『ドゥルセから嫁いできた、垢抜けない田舎娘』
 正確にはまだ嫁いでいないのだが、王の甥の婚約者として宮殿にいるので同じことである。
 アデリナの故郷、ドゥルセ王国は、統一されて百年あまりの新興国。ベルティエ宮殿を擁するアメール王国の洗練された文化に比べると、あらゆる点で見劣りがする。アデリナが着ている裾の広がったドレスはベルティエではすでに時代遅れだし、ドゥルセ風の舞踏を夜会で披露した時は居並ぶ列席者から失笑された。
 それでなくてもアデリナは人目を惹くような容貌ではない。黒い髪は赤茶まじりでつやがないし、中途半端に縮れていてどんな結い方をしても様にならない。ぱっちりとした茶色の目は美点と言っていいかもしれないが、小づくりの顔だちのなかで目ばかりが大きいので、丸い頬ともあいまって年齢よりも幼く見える。
『アメール語をろくに話せず、会話がほとんど成立しない』
 婚約が決まった時から嫁ぎ先の言語は学んできたので、日常的なやりとりは難なくできる。しかし、ベルティエで粋とされる機知の応酬や、持ってまわった言いまわしには馴染めない。人々はそんなアデリナにひどく退屈するらしく、このごろは話しかけてくれる者もほとんどいなくなっていた。
『甘い飲み物ばかりを好み、ぶくぶくに肥え太っている』
 自分では少々ふっくらしているだけだと思っているが、男女ともにすらりとしたベルティエの人々に比べると、顔をはじめあちこちに丸みがありすぎるのは確かだ。
 そして、これらの評判を総括してつけられた綽名が、
『チョコレート王女』
 というものである。
 カカオ豆をすり潰して砂糖やスパイスと固め、熱いお湯に溶かして飲むチョコレート。
 ドゥルセでは常用品で、好んで飲む者も多い。しかしベルティエでは馴染みのない飲み物らしく、新興国の蛮習だとして一笑に付されている。
「こんな美味しいものの良さがわからないだなんて……」
 自室のテーブルに運ばれたチョコレートの塊をつまみ上げ、アデリナはため息まじりにつぶやいた。
 日に二回、自分の部屋でチョコレートを楽しむのが、アデリナの習慣である。
「ため息をつくところはそこですか、姫さま」
「だって信じられないじゃない? チョコレートの素晴らしさを誰ひとり理解しないなんて」
 お湯の入ったポット、攪拌用の棒、陶製の茶器を並べながら、侍女のベルタがアデリナを見つめた。
「あのですね、姫さま。ここの方たちはチョコレートのことだけではなく、姫さまのことも馬鹿にしているのですよ」
「わたしのことはいいのよ。だいたいあっているから」
 確かに自分は愚鈍で野暮ったいと、アデリナは思っている。ベルティエ宮殿で暮らして二ヶ月、美貌と才知に富んだ貴婦人たちを目にし続けていれば、否が応でも思い知らされるというものだ。
「でも! チョコレートについてはそうじゃないわ」
 アデリナは無意識に攪拌棒を握りしめ、高らかに叫んだ。
「野蛮な風習だとか、お金や時間をかける価値はないとか、ここでチョコレートについて言われていることはひとつもあっていないもの。わたしが太りぎみなのは小さいころからだから、チョコレートのせいではないし」
「姫さまだって、れっきとしたドゥルセ王女で、未来のアメール王妃でいらっしゃるのですよ。チョコレートのことよりも、まずご自分の評判について憤慨なさったほうが」
「わたしはいいの、チョコレートが美味しければ。さあ、あなたも座って一緒に飲みましょう」
 アデリナがゆったりした口調に戻って促すと、ベルタは苦笑しながら向かいの椅子に腰かけた。チョコレートについて語りあう相手がほしいので、ベルタにはいつも一緒に席に着いてもらう。王の厚意で侍女は他にもたくさんついているが、やはり故郷を同じくするベルタがいちばん話しやすい。
 小皿に盛ったチョコレートの塊をいくつか取り、ポットに似た銀製の沸かし器に入れ、その上から熱いお湯を注ぐ。沸かし器には蓋がついているが、その中央には指が一本入るくらいの穴が開いている。その穴に攪拌棒を通し、蓋を閉じる。
 ここからが美味しいチョコレート作りのはじまりだ。アデリナはこうした作業を侍女に任せず、すべて自分でやる。
 沸かし器の上に突き出した攪拌棒の柄を握り、上下させる。こうしている間に沸かし器の中で起きていることを、アデリナは想像せずにはいられない。
 土の塊にしか見えなかったチョコレートがお湯に溶け、熱い液体に変わっていくところ。その液体が攪拌棒によってかき回され、きめ細かな泡を無数につくり出していくところ。
 一定の時間が経ったところで手を止め、沸かし器の蓋を開ける。
 何種ものスパイスと絡んだ甘い香りが、テーブルのまわりを覆っていく。
 沸かし器を持ち上げ、陶製の茶器に中身を流し入れれば、あつあつのチョコレートのできあがりだ。
 茶色いチョコレートには泡の幕がかかり、昼の光を受けてきらきらと輝いている。唇に近づけて一口すすると、わずかな苦みとたっぷりした甘みが口の中で溶けていく。喉に通せば胸のあたりがぽかぽかして、やがて全身があたたまる。
「天使の飲み物だわ」
「本当ですね」
 アデリナとベルタはしばらく夢中になって茶器を傾け続けた。
「バニラを減らしてもらって良かったみたいね。このほうがカカオの香りが引き立つわ」
 アデリナは茶器を置くと、別のテーブルに移ってペン先をインク壷に浸した。
 チョコレートに入れる砂糖やスパイスの配合は、毎日少しずつ変えている。原料だけではなく、お湯の温度や量、攪拌にかける時間にも気を配る。そうして作ったチョコレートの出来ばえを、アデリナは毎日書きとめているのだ。外的な要因で味の感じ方が変わるかもしれないので、その日の気候や自分の体調も一緒に記録しておく。
「ベルタ、あなたはここ最近のだとどれが好き?」
「わたしは先週の、シナモンを多めに入れたものが気に入りました」
「あれはあったまるわね。ナッツを混ぜたのはどう?」
「アーモンドよりヘイゼルナッツが好きですね」
「わたしもだわ。粗挽きにしてあえて触感を残しても美味しいかも」
 こうした習慣を故郷にいたころから続けているので、アデリナの手もとにはチョコレート調書とでも呼ぶべき紙の束がたまっている。飲むのは一日二回と決めているが、新しい味の探求は一日中でも続けていられる。
「――失礼いたします、アデリナ王女」
 テーブルに屈みこんでペンを走らせていたアデリナは、部屋に他の侍女が入ってきていたことに気づかなかった。
 王がアデリナのために選んでくれた侍女たちは、ベルティエ宮殿で話術や服飾を磨かれ、王女であるアデリナよりもよほど洗練されている。アデリナがチョコレートに誘った時も、優雅な笑みを崩さずに恐れ多いと言って辞退した。陰ではアデリナのこともチョコレートのことも馬鹿にしているのかもしれない。
 そんな侍女のひとりはアデリナの前で膝を折り、美しい発音のアメール語でこう告げた。
「オービニエ公がいらっしゃっています。王女にお目にかかりたいと」
「あら、今日はおいでにならないと思っていたわ」
 アデリナが暢気な声を出すと、侍女は微笑んだまま微妙に眉を動かした。

 オービニエ公爵フェルナン・デュラクは、アメール国王の甥のひとりで、王位にもっとも近い人物と言われている。何を隠そう彼こそがアデリナの婚約者だ。
 アデリナよりひとつ年下の十五歳で、その若さを理由に結婚は先に延ばされているが、自分よりよほど大人びているとアデリナは思う。
 言葉にも動きにも無駄がなく、万事において冷静で落ち着いている。伯父である王のもとで政治や経済を学び、国内のさまざまな場所を訪ねており見識も深い。まだ成長の途上なのか背丈はそれほど高くないが、ベルティエ流の衣服に包まれたすらりとした体は、彼を実際の年齢より成熟して見せている。
「アデリナ王女、ご機嫌うるわしゅう」
 フェルナンはアデリナの前で身を屈めたあと、まっすぐに歩いてきてアデリナの手をとった。
「来てくださってありがとう、フェルナンさま」
 アデリナは手に口づけを受けながら、フェルナンを見上げてにっこり微笑んだ。高貴な女性は椅子に腰を下ろしたまま、男性の訪れをゆったりと迎えるものだ。
「――またチョコレートを?」
 フェルナンの眉間に皺が寄るのを見て、アデリナは慌てて口もとを拭った。指の関節に薄い茶色がついたが、見なかったことにしてあらためて微笑んだ。
「習慣ですから。フェルナンさまも今度ご一緒にいかがです?」
「せっかくですが、そんな時間は取れそうにありません」
「ごめんなさい、そうでした」
 にこりともしない婚約者に言われ、アデリナはしゅんとした。
(今日もあいかわらずだわ、フェルナンさま)
 ベルティエ宮殿に住みはじめて以来、チョコレートをすすめてみたことは何度かあるが、フェルナンが応じてくれたことは一度もない。他の者と同じくチョコレートにいい印象がないのだろうが、フェルナンが多忙なのもまた事実だ。優秀なだけではなく勉強熱心で、常に時間を惜しんで勉学や鍛錬に取り組んでいる。毎日こうして顔を見に来てくれるだけでもありがたいことだ。
 そこで交わされるやりとりがどんなに表面的で、この婚約が国と国の駆け引きによるものだと思い知らされるようであっても。
 垢抜けない新興国の王女が、大陸でもっとも洗練されている宮殿に嫁いできたのはなぜか。それはひとえに、フェルナンが従兄と王位を争っているからに他ならない。
 アメール国王のもうひとりの甥、グランジェ公子ジェラール・セルヴァン。
 フェルナンが王の弟の遺児であるのに対し、ジェラールは王の姉の子である。実子を早くに亡くした王はふたりの甥に目をかけ、宮殿に出入りさせてさまざまなことを学ばせている。
 アメールをはじめ、大陸のほとんどの国では女性の王位継承を認めておらず、嫁いだ王女の子孫にも継承権は与えられない。しかしこの数十年の情勢の変化を受け、各国で女王や女系の血を引く王が誕生している。戦乱続きで王権が弱体化していると言われる大国アメールでも、フェルナンより年長で文武に秀でているジェラールを王位に推す声が高い。
 アデリナの父であるドゥルセ国王は、窮地に立たされたフェルナンに、娘をあてがうことにした。
 ドゥルセ王家にはアデリナの兄弟である王子が四人、そのうち兄ふたりはすでに妻を娶って嫡男もおり、当面のところ男子の王位継承者には事欠かない。むしろ歴代の王女たちの子孫に継承権を認めればいらぬ火種になりかねないので、女系君主誕生の流れには歯止めをかけておきたいのである。
 ドゥルセは王国としての歴史は浅いが、豊かな国だ。航海家たちへの長年の支援が実を結び、資源に恵まれた異大陸から多くの富が流れ込んでくることになった。王朝の統一以来軍備も強化しており、大陸諸国の中でも発言力を上げてきている。そのドゥルセの王女を妃に迎えることによって、フェルナンは従兄に先んじて王位に近づいた。
 以上のようなことはもちろん頭に入っているものの、アデリナにはどこか他人ごとのようで実感がない。次期国王の婚約者として宮殿に住んでいるが、このベルティエでアデリナは物笑いの種だ。
(まあ、それは別にいいのだけれど)
 アメール王家、そして大陸諸国にとって重要なのは、ドゥルセがフェルナン側に付いたという一点だけだ。アデリナの人柄や評判は関係がない。
 アデリナが気にかけているのは、他ならぬ婚約者フェルナンのことだ。
「いつもお忙しそうですね、フェルナンさま」
「王家に生まれた者として、義務は果たさなければなりませんから」
「素晴らしいことだと思います。でも、いつもお勉強や職務に励んでいらして、気の休まる暇もないのではありませんか?」
「若輩者のぼくには休んでいる時間などありません」
「でも、ときどきはご自分をいたわらないと。わたしは何のお力にもなれないかもしれませんが、お話を聞くくらいならできますわ」
 フェルナンの形の良い眉がつり上げられた。
 そうしているとますます大人びて、アデリナよりも年上に見える。
「アデリナ王女、あなたのお優しさにはいつも救われる思いです」
(だったら、その氷のような表情は何なのかしら……)
 礼儀正しい言葉とは裏腹に、フェルナンはいつも仮面のような無表情を崩さない。美しい緑の双眸が、引きしめられた唇が、アデリナと必要以上に親しくなる気はないと物語っている。
 宮殿に似つかわしくない『チョコレート王女』など、彼には王位のおまけでしかないのだろう。
「……余計なことを申し上げました」
 アデリナは微笑みを消さないように努めながら、フェルナンに向かって言葉を絞り出した。
「とんでもない。あなたこそ、ご自分を大切に。何か不自由があればいつでも人をよこして伝えてください」
「不自由なんてありません。ありがとうございます、フェルナンさま」
 いつもの締めくくりのやりとりだ。これが交わされたということは、フェルナンはもうこの部屋から出ていくつもりだろう。毎日、同じような形ばかりの言葉を残して、彼はアデリナの前から去っていく。
「では、また明日。ご機嫌うるわしゅう」
「来てくださって嬉しかったですわ」
 アデリナは心をこめて言ったが、フェルナンは少しも表情を変えず背を向け、アデリナの部屋から出ていった。
 ひとりになったアデリナは、気が抜けて椅子の背もたれに倒れこんだ。
 国どうしの結婚とはいえ、生涯をともにする相手だ。会話を重ねてお互いのことを知りたいと思うのは間違いだろうか。自分に魅力がないことはわかっているつもりだが、せめて伴侶として信頼を得られるようになりたい。
 フェルナンは両親を亡くしており、兄弟姉妹もいない。王である伯父には気安く甘えることはできないだろうし、伯母一家に至っては王位をめぐって反目しあう間柄だ。妻となるアデリナが唯一の家族として、フェルナンを支えなければならないはずなのに。
 宮殿の住人たちに陰口を叩かれ、嘲笑されるのはかまわない。しかし、婚約者であるフェルナンにひとりの人間として接してもらえないのは、さすがにこたえる。
(だめだわ、こういう時は、チョコレートのことを考えよう)
 暗い物思いの中に閉じこめられそうになると、アデリナはいつもそうしている。同じことを延々と悩んでしまう時は、だいたい悩んでも仕方がない時だ。書きためたチョコレート調書をめくって新しいスパイスでも考えているほうがよほど建設的である。
 頭の中をチョコレート色に染めたアデリナは、晴れやかな気分で椅子から立ち上がった。
「姫さま? オービニエ公はお帰りになりました?」
 続きの間への扉が開き、ベルタが顔を見せた。
「ええ、もう行かれたわ。あのね、ベルタ」
「あのこと、お話しになれました?」
 チョコレートのことを話そうとしていたアデリナは、その笑顔のまま固まった。
 あのこと、あのこと――そういえば、自分は何か抱えていることがあったような。
「……あ」
 だいぶ間を置いてから、アデリナはか細く声を上げた。
 フェルナンの話を聞くなどと言ってみたが、アデリナのほうこそフェルナンに相談したいことがあったのだ。昨日の午後、届けられた果物と、添えられていたメッセージについて。
 果物の贈り主は、グランジェ公子ジェラール・セルヴァン。フェルナンが王位を争っている従兄。
 彼はメッセージの中で、アデリナを庭園への散歩に誘ってきたのである。


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