落城の夜 [ 2−3 ]
落城の夜

囚われの騎士 下
[ BACK / TOP ]


 私の生家を含む領主たちの連合軍が、この城に向かって侵攻してきたのは、その前兆が現れてからほとんど間もない時だった。
 家臣たちは防衛の準備や援軍の要請に追われていたが、私はあいかわらず夫の世話に明け暮れていた。夫は自分の身に迫っている危険を理解しているのかいないのか、いつもより私に甘えてくる他は変わった様子を見せなかった。
 義兄も忙しそうにしていたが、夜には必ず夫の寝室の前で待っており、私を自分の寝室まで送り届けてくれた。
 変わったのは私のほうだった。
「旦那さまはお休みになりましたか」
 いつものように寝室の前で落ち合い、いつものように義兄に問われ、私もまたいつものようにうなずいた。
「今日はずいぶん早く寝ついてくださいました」
「それは良かった」
 義兄は目を細めると、身を屈めて私の唇に口づけた。
 私は抗わなかった。寝室の前で、橋廊で、階段で、もう何度も同じことを繰り返していた。私のほうから義兄の首に手をまわすことさえあった。
 しばらく互いの唇を味わった後、私たちは腕を組んでいつもの道を歩きはじめた。
「計画は順調に進んでいます」
 橋廊に向かう階段を下りながら、義兄が私の耳にささやいた。他の誰かに聞かれればただでは済まない話だが、義兄も私も話すべき時と場所を心得ていた。もともとこの城に使用人は少ない。
 城が連合軍に攻め入られた時、義兄が私を連れてここから脱出し、私たちはどこか遠くの村で、生まれを隠して一緒に暮らす。義兄はその手はずを着々と整え、私に細かく打ち明けてくれていた。家臣たちとともに城を守る準備を進めながら、義兄はその裏で完璧な計画を築き上げていた。
「大丈夫ですか、義兄上さま」
「誰にも知られていません。うまくいきますよ」
「いいえ。あなたのお体は大丈夫ですか」
 昼間は城を護るための対応に追われ、深夜に皆が寝静まってから脱出の計画を練る。その日々の中でも、私とこうして過ごす時間は欠かさない。義兄に休む間が足りてないのは明らかだった。
「あなたはお優しい」
 義兄は私に微笑みかけ、同時に足を止めた。
 階段は終わっており、橋廊に出る扉がすぐ目の前にあった。その場所で私たちは再び向かいあい、口づけを交わしながら互いの名を呼んだ。義兄は蝋燭を持っていない手を私の背にまわし、私はその腕のあたたかさと力強さに酔った。
 愛されていると思っていいのだろう。義兄は命を賭して私をこの城から救い出そうとしている。その準備に追われながらも、こうして私をいたわり、優しい言葉をかける時間を惜しまない。何よりも、私を抱きしめる腕の強さが、私への揺るぎない感情を伝えている。
「急ぎましょう。あなたこそ早くお休みになりたいでしょう」
 義兄は私の肩を抱き直して、私を外へ促した。
 橋廊に出ると、冴え渡る星空が私たちを見下ろしていた。風はほとんどなく、外でも過ごしやすい夜と言えた。義兄は私の肩を抱いたまま振り返り、異母弟である城主が眠る棟を見上げた。もうじき自分が見限ろうとしている城を。
 私はそれに気づかないふりを装い、義兄の腕の中から離れなかった。
 愛されていると思っていいのだ。そう思うことくらい、許されるはずだ。この城に嫁いできてから半年あまり、私はただひとり孤独に耐えてきた。自分を守ろうとしてくれる力強い腕の中で、まどろみ、安らいでもいい頃合いだ。
 私の長い沈黙をどう受け取ったのか、義兄は城から目を下ろし、私の顔を覗きこんだ。
「大丈夫ですよ」
 額が触れあうほど近づき、語りかける。
「大丈夫です。あなたは私が必ずお守りします」
 再び重ねあわせられる唇を受けながら、私は何も見えないかのように目を閉じた。
 愛されていると思っていい。けれど、義兄が愛しているのは私を透かした向こうにある別のものだ。
「必ず、私が」
 私はこの人の城なのだ。義兄の手には決して入らない、触れることさえできない、年の離れた異母弟が所有するもの。

 連合軍が城を取り囲んだ時、私は夫とともに彼の寝室にいた。いつもの夜のように夫を寝かしつけるために。
 これは義兄との計画の一部ではあったが、城の他の家臣たちに指示されたことでもあった。今夜は夫が眠りについても、私は自分の部屋には戻らずそのまま夫の側にいる。家臣たちが敵軍との交渉を続けている間、夫が怯えたり興奮したりしないよう宥めるのが私の役目だ。交渉がうまく運べば、この城は無傷のまま敵の手に落ちる。年端の行かない夫の命も助けてもらえるかもしれない。
 これが表向きの筋書きで、義兄は交渉が続いている間にこの部屋に来て、私を密かに外へ連れ出す算段をつけていた。人手の乏しいこの城では城主につけられた護衛もわずかで、その数人のことも義兄はどうにかするつもりらしい。
「母さま、僕が眠るまでここにいて」
 夫は自分に迫る脅威のことを正確には理解していないはずだったが、普段と明らかに違う物々しい雰囲気は感じ取っていたのだろう。寝台に入ってもなかなか寝つこうとはせず、しきりに私に甘えかかってきた。
「ええ、いますよ。旦那さま」
 義兄の計画でも、私がここを出るのは夫を寝かしつけた後ということになっていた。夫が眠りについたら私はいつものように一人で寝室を出る。そうすると、部屋の外で義兄が護衛たちを遠ざけ、やはり一人で待っているという計画だ。
 私は夫の髪や頬を撫でながら、幾度も歌や物語を語り聞かせた。
 嫁いでから半年あまり、ほとんど毎晩のようにこうしてきた。十歳の夫はわがままで手がかかったが、寝台から見上げてくる顔は愛らしくもあった。それをこうして見守るのも今夜が最後となる。
 突風が吹いたのか、軍勢が動いたのか、外からただならぬ轟音が響いた。
「お城の外に何かいるの、母さま?」
 夫が私の歌声を遮って尋ねた。
「何もいませんよ、旦那さま」
 城を護る家臣たちにとっては、城主が異変に気づかずおとなしく眠ってくれたほうがありがたいはずだ。私もそのくらいの役割は果たすべきだろう。敵対する家から嫁いで来ながら、戦において何の役にも立たなかったのだから。
「すごい音がしてる、母さま」
 夫は寝台の中で身を竦ませ、私の手をぎゅっと握った。
「何もいませんよ」
「嘘だ。母さまはぼくに嘘をついてる」
 私はため息をついた。夫が完全に寝入ってからここを出るつもりでいたのだが、この様子ではそれは難しいだろう。
 私は夫の手を握り返すと、それを寝台の上に丁重に置いた。
「では、何がいるのか見てきます。私が戻るまで、静かに待っていてくださいね、旦那さま」
 私は立ち上がって寝台に背を向け、天蓋の外へ出た。
 寝室の扉を開けると、予定していた通り義兄の姿がそこにあった。先に話していたように護衛たちはすでにどこかへ姿を消していた。
「旦那さまはお休みになりましたか」
 これまでの毎夜にそうしてきたように、義兄は私に尋ねた。
 私はゆっくりと、首を振った。
「まだ目覚めておいでなのに、あなたが離れることを許したのですか」
「すぐに戻ると言ってきましたから」
「では、仕方がありませんね。旦那さまが騒ぎ出さないうちに行きましょう」
 私は義兄の目を見つめた。何度も私を救い出したいと言い、実際にそうしようとしてくれた人の目を。
「私は行きません、義兄上さま」
 義兄の表情がゆっくりと固まった。
「――え?」
「旦那さまのところに戻って、眠りにつくまでお側にいなければなりません。いったん離れたのは、あなたにお別れを申し上げるためです」
 義兄は目に見えて狼狽していた。
 気づいていなかったのだろうか。一緒にこの城を出ようという言葉に、私が一度も承諾していないことを。
「私のために骨を折ってくださって、ありがとうございました。二人でも逃げられるのならば、一人で逃げるのはもっとたやすいでしょう。どうぞ、ご無事で」
「あなたを連れていかなければ意味がない」
 義兄は声を荒げて私の肩に手をかけた。普段であれば、異母弟を起こさないために決して大きな声は上げないはずだが、この時は違った。
「何度も言ったはずです。私はあなたをここから救い出したい。旦那さまやこの城の者に義理立てする必要などありません」
「義理立てしているのではありません」
「では、なぜ」
 私は両手を伸ばし、義兄の頬を包んだ。
 救い出されるべきなのはこの人だった。城に囚われていたのはこの人のほうだった。
 決して手に入らない城のかわりに、私を手に入れようとしていたのだから。
「私は城主の妻です。城を出て生きていくことはできません」
 義兄を恨む気持ちはなかった。義兄が私を城のかわりに愛したように、私も自分を救おうとしてくれるこの人が好きだったのだ。私を守ってくれる言葉が、腕が。
「でも、義兄上さまはこの城を出られても、どこに行っても、きっとご立派に生きてゆかれます」
「私は――生まれの正しくない私は、あなたや旦那さまとは違う人間だと?」
「ええ、その通りです」
 義兄をもっとも傷つけることを口にしながら、私は微笑んだ。
 そう、義兄は私とも、異母弟である城主とも違うのだ。先代の息子として先に生まれながら、先代のものを何一つ受け継げなかった義兄は、もうこの城から解放されるべきだ。どのみち今夜にうちに城は落ちるのだから。
 私は義兄の頬を包んだまま背を伸ばし、義兄の頬に口づけた。
「必ずご無事で生き延びてください」
 この人が守りたかったもの、手に入れたかったものは、今夜すべて滅びる。囚われの身から解放されたら幸せになってほしい。義兄は一時でも私に安息の場所をくれたのだから。
 義兄はまだ戸惑っていたが、私を連れ出せないことだけは理解したらしい。次の言葉を聞かないうちに私は身を離し、寝室の扉を閉めた。
 寝台の側に戻ると、夫は私の言いつけ通り横たわったまま待っていた。あどけない顔で私を見上げ、目があうと少しほっとした様子を見せた。
「誰かいたの、母さま?」
 城の外ではまだ轟音が繰り返していた。敵軍との交渉はうまくいったのだろうか。この城は血を流さずにいることができるだろうか。どちらにしても、夫には何の心配もなく穏やかに眠ってほしい。
「誰もいませんよ。おやすみなさい、旦那さま」
 私は寝台の上に身を屈め、夫の額に唇を落とした。



[ BACK / TOP ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.