落城の夜 [ 2−2 ]
落城の夜

囚われの騎士 中
[ BACK / TOP / NEXT ]


 義兄と私の関係は変化しなかった。
 夫を寝かしつけて寝室を出ると、外で待ってくれていた義兄と落ち合う。私は彼に燭台と自分の手を委ね、離れた棟にある寝室に送られながら、他愛もない話をする。それだけの日々が幾月か続いた。
 昼間に顔をあわせることはほとんどなかった。私が夫の世話に忙しい一方で、義兄はこの城を維持するために家臣たちとともに働いていた。先代の脇腹の息子である義兄は皆に頼りにされているようだったが、それは城主の身内としてではなく、若く有能な臣下の一人としてに過ぎないようだった。
「西方の領主たちに、どうも不穏な動きがあるようです」
 月に照らされた橋廊を渡りながら、義兄が私に告げた。
「兵が動く――ということですか?」
「可能性はあります。斥候を送ってあちらの動きを報告させているところです」
 今は乱世だ。国のあちこちで領主たちが戦い、互いの城を奪いあっている。私がこの城に嫁いできたのも、兄が野心の一部を遂げるためだった。
「あなたのことは、私が必ずお守りします」
 私が片手を預けている腕を、義兄はわずかに自分のほうに引き寄せた。もう片方の手もその腕に回したいという衝動を、私はなんとか抑えこんだ。
 義兄が守ると言っているのはこの城の奥方であり、義理の妹でもある私のことだ。そう自分に言い聞かせても、大きくてあたたかい腕がすぐ側にある心地良さは変わらなかった。
 橋廊の終わりまで近づいた時、風が矢のように横から襲いかかった。私は身をすくめ、義兄は体の向きを変えて私を庇ってくれた。蝋燭の火が風に倒されて消えかけたが、数秒して再びゆらりと立ち上がった。
「大丈夫でしたか?」
「――はい」
 風の音が去って目を開けると、義兄の広い胸が目の前にあった。
 抱きすくめられていたわけではない。義兄は手にした火が私に近づかないよう、半歩離れて楯になってくれていた。それでも顔を上げて義兄と目をあわせる勇気はなく、私は首をねじって橋廊の向こうに視線を向けた。
 月の明るい晩だった。歩いてきた橋廊の先には、この城でもっとも高い棟が聳えていた。夜空を目指すようにまっすぐに建つ尖塔と、月光に照らされて白く光る石の壁。
 美しい、と私は思った。
 兄は、国中のすべての領主たちは、この美しい城を手に入れるために、命を懸けて戦いに身を投じているのだろうか。
「美しいでしょう」
 かたわらで声がして、私は目で振り返った。
 義兄は私の隣で、私と同じく城に見入っていた。自分の異母弟が手に入れ、安穏と眠っている城に。
 一年足らず前に嫁いできた私と違い、義兄はこの城で育ったのだ。先代がこの城を手塩にかけて守り、磨き抜くのをその目で見てきたはずだ。そして今は同じ役割を家臣たちとともに果たそうとしている。
 それなのに、この城の主を名乗っているのは義兄ではなく、一人で眠りにつくこともできない十歳の少年だ。
「ええ、とても」
 私が同意すると、義兄は私を見下ろして目を細めた。どこか眩しそうな、手の届かない月を見つめるような目は、城を眺めていた時の目によく似ていた。
 その夜、義兄はいつもより時間をかけて、私を寝室まで送り届けた。

 知らせが届いたのは昼日中のことだった。
 西方に送られていた斥候の一人が戻ってきて、義兄を含む家臣たちに報告を上げていた。彼らは城の一角にある執務室に閉じこもり、長い時間をかけて何か話しあっているようだった。
 城主の私室で夫の相手をしていた私は、もちろん話しあいの内容を知らなかった。知ったのは、彼らが情報をもたらすために夫を訪れてきた時だ。
「あちらに寝返った家は全部で三つです」
 もっとも古参の家臣が夫の前で説明した。その背後には義兄が感情を抑えた顔で控えていた。
「母さま、あちらって?」
 座り心地の良い肘かけ椅子に腰を下ろした夫は、隣に立っていた私を見上げて尋ねた。
「旦那さまの城を手に入れようと目論んでいる輩のことです」
 私のかわりに答えたのは義兄だった。
 西方の領主たちに不穏な動きがある。私が義兄からそれを聞いたのは十日足らず前のことだが、その予感は遠からず的中してしまったということだ。
 古参の家臣は夫の許可を得て、裏切ったという家の名を二つ口にした。
「残る一つは」
 それを告げる前に、老人は目を動かして私のほうを見た。義兄はそれよりも前から食い入るように私だけを見ていた。
 私は力なくほほえんで見せた。この話が始まった時からその予感はしていたのだ。
「私の生家――兄の家ですね」
 兄が私をこの城に嫁がせたのは、別の城を手に入れるための足がかりとするためだ。それを翻してこの城を狙う勢力に与したのは、そちらのほうに兄にとって有利な条件が見つかったからだろう。
「奥方さまには申し上げにくいことですが――こうなった以上、ご生家の兄君に協定を思い出していただかなければなりません」
 古参の家臣はその言葉どおり、本意ではなさそうに切り出した。
 彼らが長いこと話しあっていたのはこれだったのだろう。裏切った家から嫁いできた女をどうするか。もっとも順当な道は、兄を説得するための人質として利用することだ。
「まことにご無礼ながら、しばしお身柄を」
「だめだ」
 短く遮ったのは義兄だった。古参の家臣の後ろから歩み出てくると、異母弟である城主の前にひざまずいた。
「旦那さま、お命じください。奥方に危害を加えるようなことは決して許さないと」
「何を――」
 古参の家臣が狼狽した声を上げた。彼や他の者たちの様子からして、義兄が話しあいの結論に反する行動に出ているのは明らかだった。
「危害? 母さまに?」
「ご生家が離反した今、奥方が危険な目に遭われる可能性があるのです。でも、旦那さまは決してそのようなことをお許しになりませんね?」
「もちろんだ。母さまに悪さをするなんて許さない」
 夫は憤慨した声で即答し、居並ぶ家臣たちを睨みつけた。彼らは慌てて態度を変え、幼い城主をなだめにかかった。
「奥方に危害などとんでもない。ただ、この城を守るために」
「どんな目的でも、母さまを利用するのはだめだ。そんなことを言う者は城から追い出してやる」
 夫と家臣たちが押し問答を続ける中、義兄が足音もなく私に歩み寄った。大きな手が控えめに私の両肩に触れる。
「大丈夫ですか」
「――はい」
 声をかけられてはじめて、自分の体がこわばっていたことに気がついた。
 城主を言いくるめようとする老人たちと、それを跳ねのける夫の声を聞きながら、私は義兄に肩を抱かれて続きの間に移った。
 他に誰もいない部屋で、扉が音を立てて閉まった瞬間、私は長い両腕に包まれていた。
 振りほどいて拒絶しなければならないと思ったのは一瞬だけだった。決して離さないと宣言するような腕の力強さとあたたかさに酔い、私は大きく息を吐き出して目を閉じた。涙が滲んでいるのを義兄に見られないよう、広い胸に顔をうずめた。
 人質として扱われることになったとしても、すぐに危害を加えられるわけではない。それでも、ようやく慣れてきた立場が一転するのは恐ろしかったし、実の兄が裏切ったことにも驚きはなかったが悲しさはあった。何より、こうして身を案じて腕を貸してくれている人の存在が、抑えていた私の涙を溢れさせた。
「大丈夫です、あなたは私がお守りします」
 私の髪を撫で、背中をさすりながら、義兄が以前と同じ言葉をささやいた。
「――なぜ?」
 私は子どものように問いかけた。
「なぜ、私のためにそこまでしてくださるのですか」
 私に人質としての価値はないに等しかった。生家の兄とは懇意ではなかったし、そもそも兄は家の利益より身内の情を優先するような性格ではない。私一人を失ったとしても、手駒となる娘たちや姉妹たちは他にもいる。
 それでも城を代々守ってきた者たちにしてみれば、この窮地から抜け出すために使えるものはすべて使いたいと思うのが道理だろう。義兄は彼らの一員であるにもかかわらず、その意志に一人だけ背いたことになる。それも、他の者たちを出し抜くような形で。
 私は義兄の腕の中で返事を待った。
 甘い言葉を期待していなかったと言えば嘘になる。それに、他に説明のつく理由が見つからない。
「知っているはずです」
 義兄は私の背中に腕をまわしたまま、私の顔を覗きこんだ。

 その夜、夫は眠りにつくために私を必要としなかった。家臣たちと言い争うのに疲れたのか、晩餐の途中で眠りこんでしまい、そのまま寝台まで運ばれたのだ。
 私は自分の寝室で一人になり、久しぶりの自由な時間を堪能しようとした。
 上手くいくはずがなかった。頭の中は昼間から一つのことでいっぱいに占められていた。
 夫を寝かしつける必要がないということは、義兄と城内を歩く理由もないということだ。義兄が今どこにいるのか私にはわからなかった。寝室の場所は知らないし、知っていたとしても今そこにいるとは限らない。昼間の行いについて家臣たちと話しているところかもしれない。
 私は夜着の上に毛布を羽織り、蝋燭を手に持って自分の寝室から抜け出した。
 そこに行けば会えるという確信があったわけではなかった。毎晩ともに歩いている場所に向かったのは、少しでもその気配を感じたいと思ったからに他ならない。
 橋廊に出る木戸を開くと、義兄はやはりそこに立っていた。私に背を見せて、数歩先で。
 義兄が顔を向ける先には、これも毎晩のように一緒に見ている、この城でもっとも高い棟が建っていた。
 私は足音を立てないように気をつけて進み、斜め後ろから義兄の顔を覗きこんだ。月は出ていたがさほどの明るさはなく、表情を読むことはほとんどできなかった。ただ、とても真剣に城を見上げていることはわかった。
 生まれ育った城に迫る脅威のことを考えているのだろうか。私がそう考えた時、義兄が首を動かして私を見た。
「奥方さま?」
「――すみません、お邪魔を」
 何のためにここに来たとは言い出せなかった。何の邪魔をしたと思っているのかも。
 義兄は私を問いただすこともせず、私の肩を抱いて自分の隣に寄せた。
「私の実家がこの城を裏切ったこと、申し訳ありません」
 私は本当に謝罪すべきことに気づき、すぐに口に出した。
「何の効きめもないかもしれませんが、兄に手紙を書いてみます。思い直してくれるように」
「その必要はありません」
 肩にかけられた手に力が入った。
「あなたを救い出して差し上げたい」
 私はとっさに義兄の横顔を見上げた。
 毎夜ともに歩き、話を交わすようになってから、何度となく聞いてきた言葉だった。けれども、今ほど確かな決意を込めて囁かれたことは一度もなかった。
「いや、救い出してみせます」
 義兄は私から目を離さず、私の手を持ち上げて口づけした。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.