落城の夜 [ 2−1 ]
落城の夜
囚われの騎士 上
「お城の外に何かいるの、母さま?」
寝台から聞こえた幼い声に、私は天蓋の垂れ幕を閉じる手を止め、微笑んで声の主を見下ろした。
「何もいませんよ」
「すごい音がしてる。大きな獣の鳴き声みたいな」
「ただ風が強いだけです。何も怖いことはありませんよ、旦那さま」
私は身をかがめ、枕に頭を載せている少年の額に口づけた。
十歳になるこの城の主が、私の夫だ。半年ほど前に生みの母を亡くした彼は、入れかわるように嫁いできた私を母さまと呼ぶ。八歳年上の花嫁が母親の代わりになってくれると、乳母か誰かに吹き込まれたのを信じたのだろう。
「もうそろそろ、お眠りなさい」
私は自分の声が嗄れていることに気づいていた。
幼い夫は、いくつもの歌や物語を聞かせてもらわないと眠りにつこうとしない。今夜のように天候が荒れている時は、なおさら恐ろしがって私を引きとめようとする。私は何度も彼に聞かせた話を繰り返し、知っている限りの歌を口ずさみ、夫が早く寝入ってくれるように祈りはじめたところだった。
「僕が眠るまで、母さまはここにいる?」
「ええ、いますよ」
「明日の朝、一番に会いに来てくれる?」
「もちろんです、旦那さま。今までそうしなかった日はなかったでしょう?」
こう語りかけている間も、私は夫の髪をできるだけ優しい手つきで撫で続けていた。その仕草を繰り返すうちに、夫の瞼は次第に下りはじめ、やがては固く閉じられて動かなくなった。
蝋燭の明かりに照らされた十歳の少年の寝顔は、頬の曲線があどけなく、肌がなめらかで、どこもかしこも愛らしかった。
私はその額にもう一度口づけると、燭台を手にして立ち上がり、天蓋の外に、そして城主の寝室の外に出た。
「眠りにつきましたか」
扉を閉めるのと同時に、壁際から大きな影が忍び寄ってくるのに気がついた。
「ええ。風の音を怖がって、なかなか言うことを聞いてくれませんでしたが」
「それは、あなたもお疲れになったでしょう」
自分の前で影の動きが止まるのを待って、私は手にした燭台を持ち上げた。もっとも、そうする前から影の正体はわかりきっていたのだが。
「いつもお気遣いをありがとうございます、義兄上さま」
私が慎ましく告げると、彼は蝋燭の明かりの中で笑いかけた。
見上げるほど背の高いこの人は、先代の城主の年長の息子で、私の旦那さまの兄君だ。ただし、腹違いの。
年の離れた夫を寝かしつけ、疲れ果てて寝室を後にすると、この義兄が扉の外で待っている。それが、嫁いでから毎晩、私が目にする光景となっていた。
「旦那さまは幼すぎる。そろそろ城主として、騎士としての自覚がついてきても良い年ごろなのに」
十二も年下の異母弟のことを、義兄は私と同じく旦那さまと呼んでいた。私の夫が先代の奥方から生まれたのに対して、義兄は先代が結婚前に厨房女中との間に設けた子だという。いくら年長でも、背が高くても、分別を身につけた成人の男性であっても、この城を義兄が継ぐことは許されないことだ。
私は辛抱強い新妻の顔で微笑んだ。
「まだ十歳ですし、母君を亡くされたばかりですもの」
「しかし、あなたがあまりにお気の毒です」
義兄は私を見下ろしながら言った。
「見知らぬ土地に嫁いでこられたばかりで、ご自分のほうこそ心細い思いをしておいでだろうに、年下の夫君の母親がわりをさせられるなんて」
「旦那さまにお仕えするのは妻のつとめです」
「あなたを救い出して差し上げたい」
燭台を持つ私の手に、義兄の手が触れた。
私は振り払わずにしばらくそれを見つめた。義兄の手は私のそれを覆い隠せるほど大きく、蝋燭の熱にも負けないほどあたたかかった。
救い出すとは、どういうことだろう。私は頭の中で考えた。
「私は嫁いできた身です。この城に囚われているわけではございません」
「囚われているも同然ではないですか。家の事情で嫁いでこられて、逃げることもできない」
「逃げるところなんてありませんもの」
私の口を塞ぐように、義兄が身を屈めて顔を近づけてきた。蝋燭を持つ手を遠ざけ、素早く口づける。
一瞬だけ目を閉じたあと、私は後ろに身を引き、義兄の口づけから逃れた。
何が起きたのかはよくわかっていた。これまでにもその予感はあったし、実際にそうなりかけたのも一度や二度ではなかった。
「今のことは忘れます」
私は義兄の目を見据え、言うべきことを言った。
「あなたもお忘れにならなければなりません。私はあなたの主の妻であり、義理の妹です」
「わかっていますよ」
義兄は意味ありげに微笑んだ。
何をわかっているというのだろう。今のできごとがあってはならないことだということか。私がこの城の奥方であり、自分の義務を決して忘れない女であるということか。
それとも、義兄と対峙している私の体が、小刻みに震えているということだろうか。
「ただ知っていてほしいだけです。あなたが囚われの身から逃げ出したいと思ったとき、いつでもそれを叶えて差し上げられる人間が、ここにいるということを」
義兄は微笑を浮かべたまま、私に片腕を差し出した。
「さあ、今夜もあなたの部屋まで送らせてください」
私は小さくうなずき、義兄の腕に自分の手をかけた。肌の熱さが伝わりませんようにと祈りながら。
私が生まれた場所も城だった。この城よりは小さく、歴史も浅かったが、祖父と父の二代で少しずつ領地を増やし、いくつかの別の城を従えるようになっていた。幼い夫が継いだこの城は、父が是非とも手に入れたいと願った城への、足がかりとなる場所の一つだった。
父の後を継いだ私の兄は、この城の先代が世を去り、幼い息子が主となると、私をその妻として送り込んだ。嫁ぎ先で何らかの働きをすることを期待されていたわけではない。ただ夫に仕え、兄が信用に足る友であることを、夫の家臣たちに知らしめればいい。いずれ私が夫に愛されるようになれば、兄がこの城の統治に口を挟むこともできるようになる。
逃げることができないというのは本当だ。ここを出ても私が行くところは生家の他になく、そこでは兄が私の義務の遂行に目を光らせている。
それでも、私は不運ではなかった。祖父のような老人の妻にさせられる娘や、親兄弟を殺した仇に人質として嫁がされる娘もいる。十歳の少年の母親がわりをすればいいだけの結婚は、ずいぶん幸運な部類に入ると言えた。
「おやすみなさい、旦那さま」
今夜も私は夫の額に口づけると、燭台を手に寝室から出た。
今の暮らしに一つ不満があるとすれば、話し相手がいないということだ。実家で仕えていた侍女を嫁ぎ先に同行させることは、兄が許してくれなかった。人手の少ないこの城では、家臣も使用人も年配の者が多く、私の身のまわりの世話をしてくれる女たちは老婆と言ってもいい年ごろだ。
ただ一人、私と年が近く、私を誰よりもいたわってくれていた人は、今夜はもう現れないだろう。前の晩に私のほうから彼を拒絶したのだから。
階段へ向かおうと明かりを掲げると、石の壁を背にした人影が浮かび上がった。義兄は昨夜と同じ笑みを浮かべて私に歩み寄ってきた。
「旦那さまはお休みになりましたか」
「ええ。今日は寝台に入られてすぐに」
「それは良かった」
義兄は体の向きを変えて私の隣に並び、片方の腕を差し出した。
「お部屋までお送りしたいのですが、ご迷惑ですか」
昨夜のことなどなかったかのように、義兄は穏やかに微笑んでいる。
「――いいえ、是非お願いします、義兄上さま」
私は空いているほうの手を義兄の腕にかけた。私の寝室は夫のそれとは別の棟にあり、螺旋階段と橋廊を通らなければたどり着けない。年配の使用人には付き添わなくていいと断っていたが、一人で夜の城内を歩くのは心もとない時もあった。
義兄は私の手から燭台を受け取ると、私に貸しているもう一方の腕を自分のほうに引き寄せた。決して離さないと誓うように。
背が高く肩も広い義兄の隣にいると、自分がとても弱い存在であるように感じた。
「母さまは、どうして僕の側にずっといてくれないの?」
その夜、私が天蓋の垂れ幕を引いていると、寝台に入った夫が鼻にかかった声で訊いた。
「ちゃんとここにいますよ、旦那さま」
「でも、僕が眠ったらどこかへ行ってしまうのでしょう」
「私の寝床は別の部屋にありますから」
「そっちへは行かないで。朝までずっとここにいて、母さま」
私は夫の寝顔を見下ろして、どう答えたものか考えながら苦笑した。
寝室を別にすることは私が決めたわけではない。この城の主人夫妻は別の部屋、別の棟を代々使ってきたようで、幼い夫が主となってもその伝統は変わらなかった。
本心では私もそのほうがいいと思っていた。私が同じ寝台で朝まで添い寝などしていては、夫はいつまでも私を母親としか見なさず、いつまでも成長できない。
「朝になったら一番にここへ来ますよ。毎日そうしているでしょう」
「夜の間はどうしていてくれないの? どうして僕を置いて行ってしまうの?」
夫は寝台の上に身を起こし、肩を怒らせて私を見つめた。
私の末の妹は夫よりも年下だが、これほど幼くはない。父が亡くなった時も泣いたのははじめの数日だけだったし、代がわりで忙しい兄姉たちに放っておかれても、一人で機嫌良く遊んでいた。
この城にも少ないながら使用人はいるのに、唯一の嫡子として構われることに慣れた夫は、私がほんのわずかでも側を離れることを許してくれない。それも妻ではなく、母親として。
ほとんど一日中そうなのだ。夜くらいは故郷を懐かしんで一人で眠りたい。
「――旦那さま」
別の声がしたと思うと、垂れ幕が一瞬で左右に開かれた。
寝室の外で待っているはずの義兄が現れ、異母弟である城主の寝台に身を乗り出した。私と夫の間に割って入るように。
「奥方を困らせてはいけません。あなたはもうこの城の主なのですから――」
「いやだ、出て行け、母さまを連れて行くな!」
夫は癇癪を爆発させ、年の離れた腹違いの兄に、子どもじみた命令をぶつけ続けた。
「――大丈夫ですか?」
寝室から出ると同時に尋ねてきた義兄に、私は無言のままうなずいた。
癇癪を起こした夫は寝台の上でわめき続け、私と義兄は代わる代わる言葉をかけて宥めなければならなかった。夫は異母兄を自分の兄とは見なしておらず、家臣に向けるような居丈高な言葉を投げ続けていた。義兄はそんな弟を優しく辛抱強く説き伏せ、使用人が駆けつけてくる前に寝かしつけるよう導いてくれた。
「すみません。私が口を出したせいで、かえって興奮させてしまったようで」
それでも疲れた顔も見せず私を気遣う義兄に、私もかろうじて微笑を浮かべながら首を振った。
夫が駄々をこねるのはよくあることだが、今夜ほどひどいのは結婚してからはじめてだった。
「母親や子守の苦労がよくわかりました。私も幼いころはあんなふうだったのかも――」
「あなたは弟の母親ではない」
きっぱりと言い切った義兄の目を見て、私は笑うのをやめた。
夫が悪いのではないとわかっていた。十歳で両親を相次いで失い、城の主と呼ばれる身になった。ただ一人の兄とは半分しか血が繋がっておらず、兄弟として打ち解けることはおそらく誰かに禁じられたのだろう。家臣たちは忠実で親切だが、肉親の情を与えてくれることはない。八歳年上の妻を母親と思って甘えたがるのを責めることはできない。
でも、それなら私は。生まれ育った城を離れ、見知らぬ土地に侍女も連れず嫁いできた私は、誰に甘えたら良いのだろう。
義兄が私の手を取った。腕に組ませてくれるのかと思ったが、もっと高い位置まで引き上げられた。気がつくと私たちは立ち止まり、互いに向きあっていた。
「救い出して差し上げたい」
もう救われている。こうして寄り添われ、いたわられているだけで、どれほど支えられていることか。
私はそう答えるかわりに、義兄が私の手に口づけるのを、抗わずに黙って見つめていた。
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