落城の夜 [ 1−3 ]
落城の夜

一輪の花 下
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 嫁いできてから半年も経つと、私は新しい城での生活にすっかり慣れていた。
 昼間は侍女たちと糸を紡ぎ、タペストリーや絨毯を織った。やがて城中のあらゆる部屋が私の織り上げたもので飾られるようになった。
 夜になると城主と並んで晩餐に出席し、家臣や召使いたちの労をねぎらい、旅芸人たちの演奏に拍手を送った。晩餐が終わると、必ず夫婦ふたりで私室に引き上げた。
 これほど穏やかな日々が訪れるとは思ってもみなかった。朝未だき、城主の腕の中で微睡んでいると、もう何年も前からここでこうして暮らしてきたような気分にさえなった。
 もちろん、それ以前のことを忘れたわけではなかったけれど。
「どうかしたか」
 私が目覚めていることに気づいたのか、寝台の隣で城主が問いかけた。
「申し訳ありません、お起こししてしまいました」
「故郷のことを思い出していたのか」
 私の夫にはこういうところがあった。天蓋つきの寝台の中は暗く、互いの顔などほとんど見えないというのに、私が考えていたことを瞬時に探りあててしまった。
 この優しさが私にはときどき恐ろしかったが、同時にとても心が安らぐことでもあった。
「あたたかい時季になったら、一緒にあなたの生まれた城に行くか」
 城主の腕の中で、私はぱっと顔を上げた。
「本当ですか」
「あなたが嫌でなければ」
 相手に見えないのはわかっていたが、私は微笑んだ。夫の気遣いが嬉しかった。母や妹たちにこの城の主を会わせることに不安はあったが、この人ならばおそらく誰もが不幸にならないように計らってくれると思った。
 ただ、あたたかくなってくるころには、私は長旅ができなくなっているかもしれない。
 私は城主の耳に口を寄せ、ごく小さなささやき声でそのことを告げた。確信を得るまで黙っていようと思っていたのだが、この時の私は本当に幸せで、つい言わずにはいられなかったのだ。
「本当か」
「はい、きっとそうだと思います」
 私はいそいそと城主の懐に戻り、続く言葉を待った。
 しかし、かなりの時間が経っても、城主の声が聞こえてくることはなかった。
「旦那さま?」
 軽い不安を覚えた私は、身じろぎして城主に問いかけた。
 眠ってしまったのかと思いかけたが、城主の腕が動いたことでそうではないとわかった。私を包んでいたその腕には力が入り、私は背中のあたりに軽い痛みを覚えたほどだった。
「そうか。ありがとう」
 返ってきた言葉に私はほっとするどころか、何か不穏なものを感じずにはいられなかった。
 天蓋の内側がまだ薄暗く、朝の光が入ってこないせいだったのだろうか。

 それから数日後の夜のことだった。
 家臣たちと話があると朝から言っていたとおり、城主はなかなか夫婦の私室に現れなかった。
 先に寝室に入った私は、蝋燭の明かりを頼りに縫い物をしながら、夫の帰りを待っていた。嫁いできた日から季節は移り変わり、朝夕は屋内でもひどく冷えこむようになっていた。なるべくあたたかくするようにと言われていたので、私は侍女に用意させた行火を寝台に入れて暖を取っていた。
 ひとりでこの寝台の上にいると、嫁いできたばかりのころを思い出した。先に眠ってしまった城主の背を見つめながら、短剣を握りしめて明かしたいくつかの夜のことを。
 今の私はあの時の心もとない娘とは違う。愛する者があり、あたたかな場所があり、誰かを憎むかわりに自分にできることをいくつも手に入れた。故郷に咲いていた一輪の花を思い出して泣くことは、もう二度とないだろう。
 扉が軋む音が響いたので、私は縫い物から顔を上げた。城主が昼間の服装から着替えてもない姿で、みずから燭台を手にして寝室に入ってきた。
 私は寝台から足を下ろし、笑顔をつくって夫に歩み寄った。
「旦那さま、遅くまでご苦労さまでございました」
「寝台に入っていなさい。今日の夜は特に冷えるから」
 燭台を持っていないほうの手で、城主は私の肩を優しく押しとどめた。
「あなたは、お着替えは」
「後でする。あなたに話があって先にここへ来た」
「お話ですか?」
 城主の手に促されて私は再び寝台に戻り、行火であたためられた上がけに足を入れた。城主はそれを確認するように見届けると、燭台を小卓に置いて自分も寝台に腰を下ろした。
 あの時とは逆だな、と私は思った。私が先に寝台に入り、城主がその脇に座っている。
 燭台がふたつになったので、寝台のまわりはいつになく明るかった。橙色の光に照らされた横顔を私は見つめ、夫が口を開くのを待った。
「あなたは聞いたことがあるだろうか。あの城の名を――」
 城主は私に横顔を見せたまま、あるひとつの城の名前を言った。
「もちろん存じています、旦那さま」
 他でもない、この城の主が代々仕えてきた大領主の所有する城だ。王家の血統をも汲むというその領主の一族は、この国を代表する名家のうちひとつに数えられ、異教徒との戦いでも高名な将を何人も輩出していた。
 先ほど城主が口にしたのは、その一族が所有する城のうち、この城にもっとも近い土地にあるものだ。
「その城に、兵を出そうという話が来ている」
「領主さまがどこかに出陣なさるので、この城からも援軍を出すということですか?」
「いや、援軍ではなく――その反対だ」
 城主はまだ私のほうを見ようとせず、蝋燭の明かりに照らされた横顔を向けていた。
 その顔を数秒見つめ、私は意味を悟った。
「領主さまに刃を向けるということですか。それは――」
 反逆では、という言葉を、私は呑み込んだ。城主が制するように顔を向け、私の目を見つめたからだ。
「私が言い出したことではない。領主に仕えるいくつかの城の主が話を持ちかけてきた」
「同じ城に忠誠を誓った方々が、同じはかりごとで領主さまを陥れると?」
「われわれが忠誠を誓っているのは、あくまで国王陛下おひとりだ」
「ですが――」
 多くの城と土地を持つ大領主であろうと、その領主に従う小さな城の主であろうと、最終的には王の臣下であることに変わりはない。
 けれども、大領主とその旗下の城主たちというのは、もとを辿れば王家の支配より古くからの主従関係にあるはずだ。領主が号令をかければ城主たちはそれに従い、戦時でも平時でも命をかけて行動をともにする。
「お断りになるのでしょう。いえ、それだけではなく、そのお話を持ってこられた方々を、お諫めしなければなりませんね」
 労苦の増えた夫をいたわる気持ちで、私は言った。
 夫は私よりいくらか年上だが、近隣の城主の中ではもっとも若い。年齢でも経験でも上まわる城主たちを説得するのは、並たいていのことではないだろう。
 城主はいつの間にか、また私に横顔を見せていた。しっかりと開いた目で床の一点を見つめ、唇を引き結んだその表情は、私が側にいることを忘れてしまったかのようだった。
「旦那さま?」
 私は声を発した。どこか遠くへ行こうとしている夫を呼び戻そうとでもするように。
「お断りになるのでしょう?」
 城主はようやく、再び私に顔を向けた。奇妙なほど落ち着いたその目を見ると、私の体を底知れない恐怖が貫いた。
「――お受けになるのですか」
「この企みが成功すれば、我が家は多くの富を手に入れることができる」
 城主はゆっくりと語った。
「多くの土地、多くの城を、子々孫々に受け継いでいくことができる」
「旦那さまはすでにふたつの城の主ではありませんか。それに、企みが成功しなかったら」
「成功する。いま、大領主たちは王都での権勢を奪いあうのに熱心で、それぞれの領地の守りは手薄になっている。あなたに説明してもわからないだろうが」
「本気でお考えなのですか」
 行火であたたまったはずの身が、寒気で震えた。
 ふと気がつくと、城主があの奇妙に落ち着いた目で私を見つめていた。顔ではなく、もっと低い場所を。
 私は思わず、自分の腹にてのひらを当てた。
「この子に何か関わりがあると?」
「――息子が生まれるかもしれない」
 まだ膨らんでいない私の腹を、城主は一心に見つめていた。
「息子のために、ひとつでも多くの富を遺してやるのが、父たる者のつとめだ」
「雨風を凌げる城が、ひとつでもあれば充分ではないですか」
「それ以上を手に入れる機会があったのに、父親が臆したために逃したとこの子が知ったら? 息子は私を恥じ、蔑むだろう。ただでさえ、異教徒を祖母に持つことで多くの辛苦を負わなければならないというのに」
「この子は娘かもしれません。それに、息子だったとしても、多くの富や騎士の誉れには興味のない子かもしれません」
 臆病で愚かな男に育つかもしれない。城を攻め落とそうという時に、その城の住人の心を思いやるような、誰より厄介で、けれど優しい気質の持ち主に。
 城主は何かを振り落とそうとするように首を振った。それから再び、私の手もとを見た。
「息子をそんな男にはしない。父親とは違う、真の騎士に育ててやらなければ」
 言い置くと、城主は逃げるように寝台から腰を上げ、私に背を向けた。
「旦那さま」
 その腕をつかもうと手を伸ばして、私は寝台の上でよろめいた。
 城主が振り返り、慌てて私を支え起こすと、いたわりに満ちた表情で口を開いた。
「不安にさせてすまなかった。何も心配はいらないから、あなたは体を大事にしてくれ」
 私は子どものようにかぶりを振った。
 何も心配はいらないなどと、どうしてそんなことが言えるのだろう。
「行かないでください。兵を率いて戦地に行かれたら、あなたも無事に戻れるかわからないではありませんか」
 真の騎士などに興味はなかった。安心して眠ることのできるあたたかな場所があれば良かった。
 城主は私の目を見つめたようだった。それはほんの一瞬のことで、すぐにそらすと再び私に背を向け、駆り立てられるように寝台から去っていった。

 主に率いられた一隊が城を出発したのは、それから十日と少し後のことだった。
 数日前から具合を悪くしていた私は、夫の見送りに出ていくことができなかった。城主は寝室に来て私に気遣う言葉をかけ、城の者たちに万全の世話を言い含めると、予定どおり軍馬に乗って自分の城を後にした。
 それからさらに十日近くが過ぎたが、私の体調はいまだに良くならない。あたためられた寝台に昼も夜も横たわり、微睡んでははっと目覚めるのを繰り返している。
 城を去っていった城主からは何の便りもなかった。いつ、どのようにして兵を進め、どのようにして領主の城を襲うのか、私は何も知らなかった。家臣を呼んで聞き出すこともできただろうが、そうしたいとは欠片も思わなかった。
 寝台にひとりで横たわっていると、さまざまなことを思い出す。嫁いできたころのこと、生まれ育った城のこと、母のこと、妹たちのこと、死んだ父のこと、兄のこと。あたたかい季節になったら、あなたの城に行こうと言ってくれた夫のこと。
 私は何かの罪を犯したのだろうか。だからこうしてひとり床に臥し、慰めてくれるあたたかい手もなく、苦しんでいなければならないのだろうか。
 まだ平らな自分の腹に手を置き、私は幾度めかの眠りにつこうと目を閉じた。
 暗くなった景色の中で、一輪の花が散っていくのが見えた。



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