落城の夜 [ 1−2 ]
落城の夜

一輪の花 中
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 一睡もせずにまた夜を明かした私は、日が高く昇ってから城の外へ出た。
 部屋にこもっていても、どうせ昼間のうちに眠ることもできないのだ。寝不足で疲れきってはいたが、足を引きずるようにして階段を下り、石の壁の途中にある木戸から出た。
 空の下に立つのは久しぶりだった。生まれ育った城からここへ嫁いできて以来のことだ。外の空気は清涼で、やわらかなひざしに照らされたものはどれも澄んで見えた。
 この城にも庭園はあるはずだが、私はそちらには向かわず、城の壁に沿ってゆっくりと歩いた。二人の侍女が口もきかずに後に従った。生家から連れてきた侍女ではなく、嫁いでから城主が私に与えた者たちだ。
 城から離れる気分にならない理由は、自分でもわかっていた。石の壁から離れたところで、敷地内からは一歩も外へ出ることは許されないからだ。たとえ城主が出ることを許可してくれたとしても、今とは比べものにならない数の供人がつけられ、どこへ行くにも何をするにも断りを入れねばならず、城に戻る時には虚しさしか残っていないだろう。
 壁に手をあてて立ち止まり、私はふと、城とは反対方向の空を見上げた。
 生まれ育った城がどちらの方向にあるのか、私は知らない。ただ、ここからはとても遠い、私の足ではたどり着けない場所にあるということだけは知っている。
 城は今どんな様子だろう。母と妹たちは元気にしているだろうか。
 あの花は今も、人目をしのんで咲いているのだろうか。
 思いを断ち切るように再び歩きだそうとした私は、足もとにあるものに気づいて動きを止めた。
 細い茎の先に、薄く紅がかった花びらを広げる、一輪の花。
 私は壁沿いに身を屈め、その花を近くで見つめた。
 同じ花だ。生まれ育った城に咲いていた、私の好きだった花が、ここにも咲いている。石の壁の足もとに、身を隠すようにして。
 私はしばらくその場を動けなかった。どこからか穏やかな風がやってきて、ほとんど白に見えるその花びらを小さく揺らした。

「少しは休めたか」
 その夜も短剣を私の手に預けながら、城主が私に声をかけた。
 私はその問いには答えず、両手に短剣を持って寝台のそばに立ち、城主に言葉を投げかけた。
「昨夜は申し訳ありませんでした」
 寝台に身を横たえようとしていた城主は、半端な姿勢のまま振り返った。軽く目を見開いているところからすると、何のことを言われたのかわからないようだった。
「母君のことで失礼なことを申し上げました」
 この人にとっていちばん触れられたくない部分だったのに違いない。少し考えればわかるはずのことだった。いくら憎い相手でも、それくらいはわからなければならないはずのことだった。
「いや、そんなことはいい」
 城主は寝台の上で姿勢を直し、横にはならず枕にもたれて私を見上げた。
 私はその足もとに、横向きに腰を下ろした。
 城主は驚いたに違いない。彼が寝入ってしまう前に私が寝台に座ったのは、婚礼の晩を除いてはじめてのことだったのだから。
「母君のことを、覚えておいでですか」
 ためらいながら私は尋ねた。
 異教の地から嫁いできた先代の奥方は、最後の出産の時に我が子とともに命を落としたそうだ。この人が三つか四つのころだと聞いている。
「覚えていない――ほとんど」
 城主の声は冷静だった。尋ねないほうが良かっただろうかと思いかけていた私は、その声の様子にほっとした。
「覚えていたら――あるいは生きていてくれたら――今の私はまた違っていたのかもしれない」
 私は自分の耳を疑った。城主が自分から話を続けるとは思わなかったのだ。
 城主の目は私の膝の上に、私が手にした短剣の上に注がれていた。
「今のご自分とは――」
「私は真の騎士ではない」
 意味がわからなかった。この人は何を言っているのだろう。つい数ヶ月前、鮮やかな戦法でひとつの城を落としたばかりだというのに。
 それとも、半分だけ流れている異民族の血のことを言っているのだろうか。
「戦に赴く前も、その道中も、命令を出している間でさえも――常に考えていた。父もこのようにして母の故郷を滅ぼしたのだろうかと」
 城主の目は私の膝にある短剣から、少しも動かない。
 その視線に縫いとめられたように、私も身を動かすことができなかった。
「真の騎士ならばそのようなことは考えない。ただ自分の勝利と、名誉と、栄達のことだけを考えるはずだ。それなのに、私はずっと別のことを考えていた。私がこの城を落としたら、住人は私のことを恨むだろうと」
「母君がご先代さまを恨んだように?」
 私は思わず口を挟んだ。
 先代の奥方は私と同じ運命を辿った女性だ。故郷を滅ぼされ、滅ぼした当人の妻にさせられた。そのあげく、嫡男を産むために何度も出産を重ね、命を落とすことになった。
「母が父を恨んでいたのか――嫁いできた当初は恨んでいても、最後にはそれが薄らいでいたのか、私にはわからない。覚えていないのだから」
 城主は小さな子どものようにかぶりを振った。まとわりつく忌まわしさを振り落とそうとでもするように。
「だが覚えていないだけに、考えないではいられない。私を産む時も母は恨みだけを抱えていたのではないかと――故郷を滅ぼした仇の子を孕んで――」
 城主は言葉を止め、私の手もとから顔に視線を移した。明らかな動揺と悔恨の色が目に浮かんでいた。
「すまない。あなたに聞かせることではなかった」
 私は短剣を握りしめていた手を解き、かわりに手のひらをそっと鞘の上にかけた。
 ようやくわかった。城主が私にこれを持たせた理由が。
 城主は寝台の上で身を動かし、今度こそ横たわろうとしていた。私は体をねじって振り向き、その背中に声をかけた。
「私は、戻れるものなら故郷の城へ戻りたいと思っています」
 枕につこうとしていた城主の頭が、宙に浮いたまま止まった。
「母と妹たちのもとへ帰りたい――それに、父と兄が生きていた時に戻りたいとも思います。ですが、もうそれは叶いません」
 城主は肘で体を支えたまま、上体だけ振り返って私を見た。食い入るような視線だった。
「あなたが仰ったとおり、私はあなたを恨んでいます。あなたの母君がご先代さまをどうお思いだったのかは存じませんが、私が母君のお立場にいたとすれば、故郷を滅ぼした方をやはり恨んだと思います」
「――そうか」
「そして、母君がお恨みを晴らすためにご先代を害するようなことがあれば、今度はご先代を愛したこの城の方々が、母君を憎むようになっただろうとも」
 城主は身を起こし、寝台の上に座って私をまっすぐ見つめた。
 私は膝に置いた短剣に両手をかけ、小さく持ち上げた。
 それを制するように――あるいは、促すようにだったのか――城主が口を開いた。
「私が命を落としたとしても、悲しんで下手人を恨むような者はひとりもいない」
「いいえ。あなたはこの城の主です。あなたとともに戦場で闘った者は、あなたの不慮の死に無念を覚えるはずです。あなたのためにこの城で働く者は、仕える相手を失って途方に暮れるはずです。それに、親きょうだいがおいででなくても、親族がひとりもいらっしゃらないわけではないでしょう」
「それは――しかし」
「あなたに親愛の情を抱く者が、仮にどこにもいないのだとしても、それは私があなたの命を奪っていい理由にはなりません。愛されて生まれてきた子もそうでない子も、ひとりの人間であることに変わりはないのですから」
 私の生まれた城に咲いていたあの花は、城が攻め落とされた夜を境に姿を消した。おそらく、乗り込んできた兵たちに踏みにじられてしまったのだろう。
 愛するものたちを奪った相手を、私は恨んだ。
 けれど、同じ花がこの城にも咲いていることに気がついてしまった。
 滅ぼされた城で消えてしまったのも、この城で今も人目をしのんで咲いているのも、同じ一輪の花だ。
 私は短剣を持ち上げると、体の向きを変えて城主に差し出した。両手を添えて、鞘に収めたままで。
「お返しします。もう、これは必要ありません」
 城主は短剣に目を落としたまま、しばらく動かなかった。
 やがて、片方の手で短剣を取り上げ、寝台の隅にゆっくり置くと、今度は空になった私の両手に触れた。
「いいのか」
「はい」
「私は赦されたのか」
 城主がどのことを指して言っているのか、私にはわからなかった。私の故郷を滅ぼしたことか、真の騎士ではなかったことか、母親の犠牲のもとで生まれてきたことか。
 どのことを言っていたのだとしても、私の答えは決まっていた。
「私が赦して差し上げることなど、元よりひとつもございませんでした」
 城主が私の両手を握り、ゆっくりと引き寄せた。私は寝台に膝を乗せ、目を閉じた。
 私の夫になった人は、確かに真の騎士ではなかった。城を攻め落とすことにためらいを感じていたばかりか、戦利で娶った私をすぐ妻にしようとしなかったのだから。
 臆病で、愚かで、厄介な気質の持ち主。私が愛したのはそういう人だった。


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