落城の夜 [ 1−1 ]
落城の夜
一輪の花 上
目を閉じていると、花が咲いているのが見える。
石づくりの壁の足もとに、控えめに茎を伸ばし、ほとんど白に見える薄紅色の花びらをつけた、一輪の花。
庭園に咲き誇るたくさんの花たちとは違う。人目を忍ぶようにひそやかに咲くその花が、私は幼いころから好きだった。
いま、私のいる場所にその花は咲いていない。
目を開けば見えるのは、橙色の明かりを投げかける燭台と、それに照らし出された黒の垂れ幕、生成り色の寝具。そして、その上に腰を下ろしているこの城の主。数時間前に祭壇の前で誓いを立てた、私の夫。
あの花の咲く城を後にして、私はここに、花嫁としてやってきた。戦闘らしい戦闘もなく落ちた生家の城が夫のものになった証を立てるために。
「疲れたか」
寝台の端に、私と少し距離を置いて座っている城主は、顔を横に向けて私に尋ねた。
「いいえ、旦那さま」
本当は疲れきっていた。生まれ育った城からこの城までの十日近くの旅。到着してからはすぐに婚礼の準備に入り、見ず知らずの親族や召使いたちに囲まれて、ほんの一瞬も気の休まる時がなかった。けれど、そんな弱みをこの城主に見せる必要はない。
寝台に横向きに腰かけた私は、隣にいる城主に顔を向けようともしなかった。
愛想のない、無礼な女だと思われても構わなかった。夫に可愛がられ、慈しまれるためにここにいるわけではない。生家である城に残してきた母と、まだ幼い妹たちを守るため。城の主であった父とその後継ぎの兄は、攻め入られたその日のうちに捕虜となり、首をはねられた。今はこの城主の親族が城代として居座っている。
城主のほうも、私に愛情らしきものは求めていないだろう。ただこの城にいて、城主の妻として家臣や客人に姿を見せるだけで、攻め落とした城が彼のものになったことを知らしめられる。
もっとも、二つの城を継ぐ嫡男を産むつとめからは、どうしても逃れようがないのだろうが。
寝台に腰を下ろしたまま、城主が体をずらし、私のそばに近寄った。
私は身をこわばらせたが、それを悟られまいとして、視線を動かさないよう自分に言い聞かせた。
「あなたは私を恨んでいると思う」
耳の近くでささやかれた言葉にも、私は決して顔を向けなかった。
恨んでいるに決まっている。父を殺され、兄を殺され、生まれ育った城を奪われ、母や妹たちと引き離されたのだ。
「恨んでおりません、旦那さま」
意味のない言葉を返す私のかたわらで、城主の動きが止まった。
私は恐る恐る、ゆっくりと顔を上げた。
城主の顔は近くにあったが、思ったほど間近ではなかった。蝋燭の明かりは寝台の枕元、私のいる側から差していたので、私の姿が陰になって目の色や顔色はよく見えなかった。
「わかっている」
何をわかっているというのだろう。
私がこの人を恨んでいるということか。恨んでいながらそれを口には出さず、けれど表情まで取り繕うつもりはないということか。
不意に、城主が体を浮かせ、私の側を離れて寝台の上に膝を載せた。
唐突な動きに私が戸惑っている間に、彼は枕の下から何かを取り出し、隣に戻ってくるや私にその何かを差し出した。
膝の上に置かれたものが何なのか理解するまでに、しばらくかかった。寝間着ごしにも伝わるひやりとした感触。燭台の明かりを浴びて、細長い姿に光の線が走る。簡素な鞘に収められた、おそらくは護身用の、一振りの短剣だった。
「あの――?」
状況が読めず、間の抜けた声を出してしまった私の側で、城主は寝台の上にごろりと身を横たえた。
「休む。あなたは朝まで好きに過ごすといい」
何を言われたのかわからなかった。
結婚式を挙げた夜に、寝室で、新妻に――自分が滅ぼした城の娘に――武器を持たせて、背中を見せて眠ろうと言うのだろうか、この人は。
呆気にとられた私が動けずにいるうちに、寝台の上からは本当に寝息が聞こえてきた。反対側を向いた城主がどんな顔をしているのかはわからなかったが、寝具もかけずに突き上がった肩は規則正しく上下していた。
膝から短剣が滑り落ちそうになって、私は慌てて両手で受け止めた。てのひらに当たる冷たい感触と思わぬ重さに、胸を何かに突かれたような心地がした。私は背後で眠る夫を再び振り返った。
先ほどと変わらず、まるでこの寝室には自分しかいないかのように、無防備に眠る男の背中がそこにあった。
気がつくと、両手が短剣を強く握りしめていた。
手の中の短剣。目の前の背中。私のたったひとつの動きだけで、父と兄の、あの花咲く城の仇を討つことができる。
短剣を握り、体をねじって振り向いたその姿勢のまま、私は夜が明けるまで一度も動くことができなかった。
次の夜も、まったく同じ光景が繰り広げられた。
寝室で二人だけになると、城主は私の手に短剣を握らせ、自分は横になってさっさと眠ってしまう。私は話しかけることも、抗うこともできないまま、短剣を握りしめて城主の背を見つめながら夜を明かす。
次の夜も、その次の夜も、そのまた次の夜も、私は短剣を手に一時も眠ることができなかった。
この短剣を使って思いを遂げることを考えたのは、一度や二度ではなかった。けれど、その考えがよぎるたびに、別の考えが私の手を押しとどめた。城主はなぜ、私にこんなことをさせているのだろう。
何かの罠なのだろうか。私に隙を与えて、手懐けようという魂胆だろうか。眠っているように見せかけて、本当は注意深く私の様子を窺っているのだろうか。この短剣を使おうとした瞬間、私はこの人に組み敷かれて名実ともに妻にされるのだろうか。
「寝ていないのだろう」
その夜も私の手に短剣を渡しながら、城主がめずらしく口を開いた。
「顔色が悪い。無理しないで休めばいい」
言われた通り、私の体は限界に近づいていた。結婚した時点ですでに疲れきっていた上に、その後の幾晩というもの一睡もしていないのだ。昼間のうちに眠ろうとしたこともあるのだが、部屋の中が明るいせいか、広すぎる寝台に体が慣れないせいか、うとうとしただけですぐに目が覚めてしまうのだった。
「休めるはずがないではありませんか」
考えもしないうちに、私は口火を切っていた。
寝台に身を横たえようとしていた城主は、動きを止めて私の顔を見た。
「いったい、なんのために、あなたはこのようなことをなさっているのですか」
寝不足のせいで頭がよくまわらず、そのくせ気は高ぶっていたせいで、私は言葉を選ぶことも抑えることもできず、ほとんど感情のままにまくしたてた。
「ただでさえ、母君のご出自のために家臣たちに蔑まれておいでだというのに。このようなことを彼らに知られたら、さらに何と言われることか」
城主は振り向いた姿勢のまま動かず、わずかにも表情を変えなかった。それがかえって私に思い知らせた。言ってはいけないことを言ってしまったのだと。
私の夫となったこの城の主が、卑しい異教徒の女から生まれたということは、嫁いでくる前から聞かされていた。
南の海に面した地方には、異教の民に侵されて久しい都市がいくつか存在する。この城の先代はそれらを奪い返すための進軍に加わり、勝利をおさめて引き上げてくる際、ひとりの女を連れ帰って妻にした。聞くところによると、それは都市を支配していた異教の王の娘だったという。
先代はもちろん、妻にする前に女の信仰を改めさせた。そしてこの国の聖職者に婚礼を執り行わせたのだから、彼女が先代の正式の妻であることは間違いない。
けれども、五百年も続くこの城に仕える家臣たちは、異教の民の血を引く女を奥方として仰ぐことを、決して喜ばしいとは考えなかった。
その女から生まれ、きょうだいの中でひとり無事に育った嫡男を、次の城主として扱うことも。
「私のことはどうでもいい」
寝台から降り、私にまっすぐ体を向けて立った城主は、まるで動じていないかのような口調で言った。
そして手を伸ばし、私の両手の中にあるものに――自分が渡した一振りの短剣に触れた。
「なぜ、あなたはこれを使わない」
「――使う?」
「刃物を持ったことがないのか。血を見るのが恐ろしいか」
私に短剣を握らせたまま、城主の手がその向きを変え、切っ先を自分に向けて鞘を払った。
私は抗うことも逃げることもしなかった。手が震え、足が竦んだが、目をそらすことはできなかった。自分の手が人に刃を向けている。その事実が私を怯えさせ、凍りつかせた。
「おやめください。なぜこのようなことを」
やっとの思いで絞り出した声も震えていた。
両手に力を入れ、握りしめた短剣を決して動かさないようにして、恐る恐る視線を上に滑らせていくと、城主の二つの瞳と視線がぶつかった。
落ち着いた冷酷な目が見下ろしているかと思ったのに、私を見ていたのはどこか切迫したような目だった。表情のほうはいつもと同じく何の動きもなかったので、これほど近くで見なければわからなかっただろう。短剣を握る私の手を決して離さない手と同じく、その目の奥には何かを切実に求める色があった。
私に何を望んでいるのだろう。父親を亡くし、生家を亡くし、身ひとつで売られるように嫁いできた、何の力も持たない女の私に。
短剣に添えられた手にひときわ力がこもる。
この人は――まさか、本気で私に殺されたがっているのだろうか。
「――おやめください!」
頭をよぎった考えに恐怖を覚え、私は力任せに城主の手から逃れた。城主も本気で押さえつけようとはしていなかったのか、はずみで手を離して私から一歩引き下がった。短剣が私の手から足もとに落ちて転がった。
「愚かなことをなさらないでください。ご自分の立場をわかっておいででないのですか」
この城の主であるという立場を。嫡男を持たずにその身に何か起これば、城の行く末がどうなるのかいうことを。
なぜ、私がこんなことを案じてやらなければならないのだろう。
促されるままに短剣を動かしていれば、父と兄の無念を晴らすことができたというのに。
「――すまなかった」
城主は力なく立ったまま、私に言葉を投げかけた。もう、あの救いを求めるような目の色は消えていた。
何と答えるべきか私が決めかねているうちに、城主が身をかがめて短剣を拾い、刃を鞘に収めた。
「今日はここにいないから、あなたは少しでも休むといい」
それだけ言い置くと、城主は私の側を通り抜け、扉から出て寝室を去っていった。
ひとり残された私は、もちろん横になって眠ることなどできなかった。
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