魔法の花嫁
5.前夜
舞踏会の日が近付いてきた。
エイミは一日も空けず、魔法使いの館に足を運んだ。ドレスは完成まであと少し。魔法のほうも、もうほとんどできあがっているらしい。
けれども、エイミは落ち着かない。
契約書に記されていた一行が、ずっと頭にちらついているからだ。
『三つ、契約事項が完了したら二度とこの館へ来ないこと。』
舞踏会の前の日の朝、エイミはいつものように魔法使いの館へ出かける準備をした。裁縫箱を出してきて、いつものエプロンドレスを着て整える。
外出用のマントを取りに部屋に戻ると、そこには、双子の後ろ姿があった。
「アリエ。マリラ。何をしてるの?」
声をかけると、妹たちが同時に振り向く。
「姉さん。なんでもないわ」
「なんでもないわ」
二人が立っていたのは、エイミのクローゼットの前だった。アリエが右の扉を、マリラが左の扉を慌てて閉める。
「姉さんの服なんか見て、何をしてたの」
「もうすぐ舞踏会だから。ね、マリラ」
「ね、アリエ」
「明日の服なら、姉さんがドレスを作ってあげると言ったでしょう?」
エイミが叱るように言うと、アリエとマリラはお互いを見てにっこりした。
「今日も出かけるの? 姉さん」
「そうよ」
「いつ帰ってくるの? 姉さん」
「夕方までには帰るわ」
「気をつけてね、姉さん」
二人は手をつなぐと、エイミの横をぱたぱたとすり抜けて出て行った。
エイミは首を傾けて、少し息を吐く。
アリエとマリラは本当にかわいい。新しいドレスも似合って、舞踏会でもきっといちばんきれいだろう。
そう。まるで、おとぎ話のヒロインになるために、生まれてきたような子たち。
王子様にかけられた魔法をとくのは、きっとあんな少女たちなんだろう。
胸の奥が、なんだかじくじくと痛む。
「行かなくちゃ……」
魔法使いの館へ。
今日、ドレスと魔法が完成したら、契約はおしまい。
エイミが訪ねた時、魔法使いは仕事部屋にいた。
「こんにちは」
エイミはノックもなしで部屋に入る。通い続けるうちに、東の森にもこの奇妙な館にも慣れてしまった。
魔法使いは本から目を離して振り返った。相変わらずの無表情だ。
「ドレスはできましたか」
彼は挨拶も飛ばして言った。
「あと一息。今夜には完成するわ。あなたのほうはどう?」
「私はもう準備を終えています」
「そう。じゃあ、少し待っていてね」
エイミは持ってきた裁縫箱を、すぐ側のテーブルに置いた。数日前から、この部屋でドレスを作るようになったのだ。魔法使いはほとんどしゃべってくれなかったけど、エイミは一人で話しかけていた。それに、彼の魔法を隣で見ているのは、とっても楽しかった。
「今日で最後ね」
エイミはひとりごとのように言った。
魔法使いは、返事をしなかった。
アリエとマリラのドレスは、レースをたくさん使った絹のワンピースだった。
アリエのはブルー、マリラのはピンク。
二人は肌が白いから、淡い色のドレスがきっとよく似合う。
最後に、えりのところにレースを縫いつけながら、エイミは祈りを込めた。
どうか、妹たちが幸せになれますように。
「できたわ」
二着のドレスを持って、エイミは立ち上がる。
こぽこぽと煮立ったなべをのぞき込んでいた魔法使いは、エイミを見た。
窓の外は、もうすっかり暗い。こんなに遅くなったのは初めてだ。すぐに終わるはずが、思ったより時間がかかったようだ。
「今すぐお願いできる? 明日の夜が舞踏会だから」
「はい。こちらへ来てください」
エイミは言われたとおりにした。
魔法使いが指を鳴らすと、エイミの手からドレスが離れた。ふわふわと宙に浮いて、まるで着ている人がそこにいるみたいにまっすぐに立つ。
青年魔法使いは、棚から一本の杖を取り出した。エイミの初めて見るものだ。彼はそれを右手で立てて、左手には光の粒が入ったコップを持っている。
魔法使いは杖をコップに入れて、また取り出した。
杖の先が、きらきらと光っている。
魔法使いがそれを振りかざすと、光はドレスの上に舞い散った。まるで流れ星だ。
「きれい……」
エイミは思わずつぶやいた。
「これで魔法は終わりました」
魔法使いはエイミを見て言った。
エイミは答えず、しばらく二着のドレスに見入っていた。
上品な絹が魔法の光を帯びて、まるで宝石のように輝いている。
本当に、なんてきれい。
これを着ればアリエとマリラも、いつもの何倍もかわいいだろう。
「エイミさん」
しばらく黙っていたせいか、魔法使いが声をかけてきた。
けれどもエイミは答えずに、ずっとドレスを見つめていた。
アリエとマリラはこれを着て、舞踏会に行く。そこでもっともふさわしい相手にめぐり会える。おとぎ話のお姫様のように。
エイミには訪れない、夢のお話だ。
「あたし……」
ドレスを見つめたまま、エイミは口を開いた。
「あたし本当は、妹たちがうらやましかったんだわ」
魔法使いは答えない。
エイミは彼の表情を見なかった。きっと変わっていないだろうから。
「本当はあたしも、アリエとマリラみたいになりたかったのよ」
きれいで可愛くて無邪気で、お姫様みたいな妹たち。
王子様の魔法をとくお姫様。
「でも、なれないってわかってたから。だからいい姉さんになることで、自分を守ろうとしたんだわ」
そうでもしなければ、みじめさに押しつぶされる。
かわいい妹たちにちっとも似ていないエイミ姉さん。舞踏会に行ったって、誰も相手にしてくれない。
二着のきれいなドレスが、それにかけられた魔法の光が、エイミの目にまぶしい。自分には絶対に当たることのない光だと、わかっているから。
うそつきなエイミ。
本当は、アリエとマリラがうらやましかったくせに。
本当はきれいなドレスを着て、舞踏会に行きたかったくせに。
「エイミさん」
魔法使いが後ろから呼ぶ。
エイミは振り返ろうとしたが、目の前がふさがった。魔法使いの手だ。
「なあに?」
びっくりして、声が高くなる。
まぶたに触れる手のひら。エイミのすぐ後ろで、息が届きそうなくらい近くにいる青年。伸ばされた腕。
「目を閉じてください」
耳元で、彼の声が聞こえた。
「もう閉じてるわ」
エイミの胸が、勝手に音を立ててさわぎ出す。
目を閉じている不安と、これから何が起こるのかという気持ちと、すぐ側にいる彼の存在と、三つのものがエイミをどきどきさせる。
「この魔法はプレゼントです。三つ数えたら目を開けてください」
一つ、すべての気配が周りから消える。
二つ、感じるのは後ろにいる彼のことだけ。
三つ、まぶたの奥で、何かが輝く。
妖精の歌に雪の結晶
光の雫に咲きたての花
素敵なものをみんな集めて
三つ数えて目を覚ましたら
魔法の花嫁のできあがり
「目を開けてください」
魔法使いの声で、エイミは目を覚ました。
そのとき瞳に映ったものは、今までに見たこともないような素晴らしいもの。
エイミが立っているのは、魔法の道具で埋め尽くされた小さな部屋じゃない。天井は見上げるほど高く、広々と奥まで続く大理石の広間だった。壁には七色のステンドグラスがかかり、大きな宝石のようなシャンデリアがエイミを見下ろしている。
次にエイミは、自分の姿を見て驚いた。
着古したエプロンじゃない。シャンデリアと同じ色に輝く、それは見事なドレスを着ていた。肩で跳ねていた髪も、きれいに結い上げられている。手にも胸にも、見たこともない美しい宝石。
白くほっそりとした手を取られて、エイミは顔を上げた。
そこにあったのは、もうすっかり見慣れた無表情の魔法使い。でも彼も立派な白い服を着て、まるで王子様みたいだ。
「こんな魔法も使えたのね」
散らかった小さな部屋が舞踏会の広間に。
平凡な村娘がきれいなお姫様に。
これこそ、おとぎ話に出てくる魔法そのもの。
隣には、王子様役もちゃんと付いている。でも、きれいな衣装に比べて表情はいつものままで、なんだかおかしい。
「あなたはなぜ笑うのですか」
魔法使いに真顔で聞かれて、エイミは自分が笑っていることに気が付いた。
「ごめんなさい。おかしくて、嬉しくて」
笑いながら涙が出てきそうなくらい。
これが、魔法使いクーベルトの契約外のプレゼント。
「……踊りましょう?」
エイミはドレスをつまんで、魔法使いに向かってお辞儀した。魔法使いも頭を下げる。
それから片手を取り合って、彼の右手はエイミの背に、エイミの左手は彼の腕に添えられる。
どこかで、歌が始まった。空気の精たちだ。
静かな音楽にあわせて、エイミたちは踊り始めた。
大きな広間の中で、たった二人ぼっち。
くるくると円を描いて、足は繊細なステップを刻んでいく。
壁に組まれた大きなオルゴールが、ひとりでに音を奏でている。
シャンデリアは無数の色に輝き、まるで生きているように広間を照らす。
魔法使いのリードは完璧だった。顔は相変わらず、石のようだったけれど。
そのアンバランスに笑いながら、エイミの瞳はいつの間にか、魔法使いの黒い目だけを見つめていた。
妖精の歌に雪の結晶
光の雫に咲きたての花
素敵なものをみんな集めて
あなたにすべて差し上げましょう
魔法の花嫁 愛しい花嫁
あなたが笑ってくれるのならば
すべての魔法はあなたのために
今宵 誓いは星となる
シャンデリアの光が七色に変わり、ベールのように広間を包んだ。
エイミと魔法使いは、広間の中央で足を止めた。手はダンスの時のまま、触れ合っている。やっぱり冷たいけれど。
息ができないくらい近くにある黒い瞳は、エイミしか見ていない。
「契約が終わっても」
小さくつぶやいた。たぶん、こんなに近くにいなければ届かないくらいの声で。
「また、ここに来てもいい?」
魔法使いの表情は変わらない。まっすぐエイミを見つめたまま、彼は首を横に振った。
「……どうして?」
見上げるエイミに、彼は唇を開く。
「私は人形だからです」
歌がやんだ。
シャンデリアの光が、少しずつ衰えていく。
エイミと青年は手を取り合ったまま、しばらくお互いを見つめていた。
いや、見つめているのはエイミだけかもしれない。彼の黒い目はまっすぐエイミに向けられているけど、本当は何も映していない。
『人を好きになることは?』
『私はできません』
胸が痛い。
エイミは手を離し、魔法使いの頬にそっと触れた。冷たい。手のひらのぬくもりが奪われていく。
魔法使いの顔は、動かなかった。
エイミは視線を下に向け、静かに彼に身を任せた。やっぱり冷たい。生命の音が聞こえない胸。
「エイミさん」
上から、魔法使いが呼んだ。
「あなたは何をしているのですか」
「……抱きついてるのよ」
少し非難を込めて言ってみる。
魔法使いの返事はない。体も動かず、エイミに抱きつかれたまま静止している。
「こういう時はね、抱き返してくれればいいの」
「それはどういうことですか」
「腕をあたしの背中に回して。両腕よ。手は肩に」
数秒かかって、魔法使いの腕がエイミを包んだ。
彼は戸惑い以外の何も感じていないだろう。言葉のままに添えられただけの手。
それでもいい。
「そうよ。……ありがとう」
エイミは微笑んで、青年の胸に顔をうずめた。
この人は、あたしに言われて抱きしめただけ。
この人は、あたしの気持ちをわかっていない。
この人は、あたしのことをきっとすぐに忘れる。
だからせめて、この夜だけは。
「エイミさん」
しばらく間を置いて、魔法使いの声がした。
「……なあに?」
「あなたは幸せになれます」
彼の腕の中で、エイミは目を開いた。
「あなたは人の幸せを心から願える人です。だからあなた自身も幸せになれます」
「それも魔法の理屈?」
言い返したけれど、エイミは嬉しかった。
でも彼は間違っている。エイミが幸せになれる方法は、一つしかないのに。
「ねえ」
今度はエイミが言った。
「どうしても、舞踏会には行きたくない?」
顔を上げて魔法使いを見る。彼の黒い目が少しだけ揺らいだような気がしたのは、たぶん見間違いだ。
魔法使いは、やっぱり首を振った。
「……そう」
エイミはそれきり、何も言わなかった。
もう一度うつむいて、彼の胸の中で目を閉じる。
魔法使いも何も言わなかった。
けれども彼は、エイミの背に回した腕を、それからずっと離さなかった。
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